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 いつもよりだいぶ遅れたが、学校には始業五分前にすべりこんだ。
 教室に入ると、ストーブの温かさが指先にじんとくる。亜由美は今までの寒さを軽く落としてから窓側の席をみやった。
 最初にショートカットの頭が飛びこんでくる。今日は何かが違った。
 そう、いつもならノート写させてと飛びついてくるのに――大人しく席についてシャーペンを走らせているのだ。亜由美に気づく様子もない。
 亜由美は葉月に近づいた。置いてあったペンケースで机を一度叩いてみる。
「あ……おはよ」
 今更気づきましたなリアクションはいつものことだ。亜由美は、おはよ、と挨拶を返す。自然と机に開かれたノートに目がいくが――葉月と違う字を見つけ、舌打ちしたい気分になる。
「ああ。さっき青柳が貸してくれたんだ」
 亜由美は後ろの席にいる青柳彼方を一瞥した。
 ここ最近机を枕にして眠っている印象が強く残っていたが――やはり侮れない。
「今朝はどう?」
 問いかけるとペンが一度止まった。なにもないよ、と答えが返ってくる。つとめて冷静な口調は感情を想像させる隙さえ作らせてくれない。
 この問答を何度繰り返したことだろう。今ではすっかり朝の習慣になってしまった。
 彼方が葉月に告白してからもう三か月近くになる。
 知っているのは当事者たちと相談を持ちかけられた亜由美だけだ。葉月の友人を称する智己はそのことを知らない。亜由美の記憶の中では、突然家に現れた葉月の姿が今も鮮明に残っていた。
(田辺好きなこと、青柳にばれた……)
 その時の葉月は涙で溢れ、今にも沈んでしまいそうだった。葉月にこんな脆さがあったなんて。当時着ていた服がそれを更に引き立てて、相談されたこっちがうろたえたくらいだ。
 新学期が始まってから葉月は智己を避けている。本人はそんなことはないと主張していたが、その言動は明らかにおかしかった。
 一度、彼女できたのがショックだった? と軽い気持ちで尋ね、かもね、とそつなく返されたことがある。その時に亜由美は悟った。一度振った相手が次に気づいた時既に別の彼女がいたなんて――すでに葉月の中で笑えない話になっていたのだ。
 それを裏付けるように、葉月の口から智己に告白された話は一度も聞いていない。これは葉月なりのプライドなのだと亜由美は思っていた。
 だからその件に関しては一切触れるつもりはなかったし、他人に話す気もなかった。
 なのに――彼方は気づいてしまった。
 彼方は葉月の気持ちが落ち着くまで返事は待つという。
 全てを承知で彼方は葉月に想いをぶつけた。その勇気ある行動は亜由美も評価していた。
 だが葉月を泣かせたことは別だ。
 好きになった理由はどうであれ、自分だけ盛り上がって振り回して――唇まで奪ったのは許せない。
 いつか必ず天罰をくれてやる。
 亜由美の怨念を感じ取ったのか、彼方の体がびくっと揺れた。一度腕をさするような仕草をしたあとで、天上に向かって欠伸をする。
 同時にノートが閉じる音が耳をかすめた。
「青柳、これありがと」
 ごく自然にノートが持ち主に返される。葉月が誰に対しても気さくなせいか、クラスの面々は日常の一コマとして受け流しているようだ。
 彼らはまだ気づかない。ノートを受け取った彼方の微笑みに深い優しさがあることを。そして葉月をまとっていた警戒心が薄れてきていることを。
 きっと二人の距離は少しづつ縮まっているのだろう。時折自分の知らない所でする思い出話も弾んでいるようだ。
 これは喜ばしいことなのかもしれない。叶わない恋に悩んでいる親友に新しい恋が訪れようとしているのだから。ここは温かい目で見守るべきだろう。
 でも――
 亜由美は自分の前に見えない壁を感じていた。智己の時と同じ、胸に細い針が押しこめられたような感覚が否めない。
 分かっている。この痛みは幼稚なものだ。


 この学校では進路実習と称した職場体験が行われている。
 午前と午後、生徒二名が事務室に常駐し半日かけて電話応対や接客を学ぶのだ。もともとは卒業後に就職する者が多かった時代に考えられたものだが、この習わしは今も受け継がれている。
 今日からは亜由美のクラスが担当することになっていた。
「足立さん、届いたファックス分けてもらえる?」
 指示を受け、亜由美は席を立った。「研修中 足立」とボールペンで書かれたネームプレートが蛍光灯に反射する。向かいの机では出席番号一番の彼方が内線電話を取っていた。事務の先生は二人の仕事ぶりを伺いながら別の書類に取りかかっている。
 来月末に高校入試があるせいか、どことなく慌ただしかった。
 それにしても、と亜由美は思う。
 向かいに座っている人物はどう見ても葉月とは正反対の性格だ。むしろ葉月を嫌っていたのでは、と思うくらいである。
 一番厄介なのは彼方が葉月にとって初恋の相手だったということだ。
 初恋の人と再会だなんて――運命という言葉をより引き立てる展開ではないか。
 ファックスをふり分けながら悶々としていると、受付のガラス戸を叩く音がした。彼方が続けて外線を取ったので、亜由美が応対する。
「いらっしゃいませ。どういったご用件でしょうか」
「高校の願書ちょうだい」
 ガラス戸の向こうにいた男はタメ口で聞いてきた。長めに伸ばした髪は赤色、耳たぶには亜由美と同じような銀色が三つ光っている。見た感じは繁華街のゲーセンにたむろしていそうな輩だ。
 なかなか横柄な態度でいてくれるではないか。
「少々お待ち下さい」
 それでも亜由美はマニュアルどおりの対応をしてみせる。事務の先生に用件を報告し引き継いでもらうと、別の先生が亜由美に近づいた。
「そろそろ仕事を終わりにして下さい」
 手もとの時計を見ると授業終了まで余裕があった。あとは実習日誌に仕事内容を記入し名札と一緒に提出するだけだ。
 亜由美がその作業に取りかかろうとすると、彼方が声をかけてきた。
「それ俺が書いておく。さっき、佐藤に買い物頼まれただろ?」
 いつも寝ているか無愛想な顔をしているだけの男だが、葉月のことに関しては五感が冴えるらしい。
 一瞬、胸章についている針を出したままにして渡してやろうかと思ったがさすがに止めた。素直に胸章と日誌を彼方に託す。
 亜由美は先に先生に挨拶をしてから事務室を出た。お使いの目的地に向かって誰もいない廊下をのんびりと歩いていく。
「あ、受付の足立さんだ」
 軽く呼ばれ、亜由美の足が止まった。廊下をうろうろしているのは封筒を持った赤毛の男。
「よかった。俺超困ってたんだー。あ、俺安原ね。よろしく先輩」
 安原という男は亜由美を先輩呼ばわりすると握手を求めてきた。まだ試験も受けていないのに。態度もさながら、随分な自信家である。
 かまわず亜由美は素通りした。
「ちょっ、待てって。せっかく会えたんだからトイレの場所ぐらい教えてよー」
「自分で探せ」
「つめたぁ。さっきと態度ちがうじゃん」
 当然だ。容姿はともかく、同じ軽さなら智己のように気を使える奴の方がずっとまし。葉月並の鈍感さがあれば愛嬌と受け取れる。だが、安原にはそれと違った嫌なものを感じるのだ。
 しつこいセールスを無視するかのごとく、亜由美は歩調を早める。安原がついてきた。目的の男子トイレを過ぎても気配が消えそうにない。
 ――事務室を出て廊下を歩いていくと、生徒が使う昇降口にたどりつく。
 つきあたりを左に曲がると特別教室のある棟へと向かう道になり、右は体育館へ繋がる渡り廊下、左ななめ前には二階に繋がる階段があった。その階段真向かい――つまり亜由美のすぐ左隣にあるのが購買室である。
 葉月からはプリンを買ってきて、と頼まれていた。
 ここで売っているプリンは数が少ないので激しい争奪戦が繰り広げられる。確実に手にする方法はふたつ、昼休みをフライングするか購買により近い場所にいる時に買うかだ。昼休み開始と同時に開くシャッターは固く閉ざされていた。
「それマジ?」
 ふと、女の子の声がした。
 渡り廊下からジャージ姿の女子二人組が近づいてくる。学年ごとに決められた色は一年生のものだ。
「マジ。朝女と一緒に歩いてたの見た奴がいるって――ほら、二年に足立って人いるじゃない」
「あのツンツンした何様女!」
 安原が横目で隣をちらりと見た。亜由美は視線をひらりとかわす。
「それってやばくない? 彼氏が他の女と仲良くしてるんだよ。理恵ってば聞いてる?」
 名前を聞いて、初めて二人組の後ろに理恵がいることに気がついた。だがお節介な二人組に言われても理恵は冷静だ。
「聞いてるよ。でもあの人は先輩の友達だから……でも私だって必要あれば男の子と喋るよ。そういうのって気にしたら何もできなくなっちゃうんじゃない?」
「うわ。彼女の余裕ってやつですか」
「いいねぇ。彼氏のいる人は」
 模範的な回答に黄色い声が増幅した。理恵に照れた笑いが広がるが――
「ばっかみてえ」
 その一言が全てをかき消してしまった。理恵の表情に影が差す。
「よお。相変わらずイイコちゃんしてるんだ」
 安原はにやりと笑った。隣にいた亜由美に饒舌に語り始める。
「こいつ、俺と同中なの。つーか同級生? まぁ、俺はいろいろあって受験遅れちゃったんだけど……あ。そっちの子たちもよろしくねー」
 安原が手を振ると二人とも苦笑でそれに答える。隣に亜由美がいたことで更にその顔がひきつっていく。
 見かねた理恵は友達に先行ってくれるかな、と言った。
「この人とちょっと話があるから」
 二人組が名残惜しそうに階段へ向かっていった。その流れに亜由美も便乗しようとする。理恵が軽い男を拾ってくれて助かった――少しだけ思った、その時だ。
 突然制服を掴まれた。
「足立先輩、一緒にいてくれませんか?」
「なんで」
「あいつと二人きりは……ちょっと」
 だったら私じゃなく田辺にしてよ、と亜由美は返すが、繋ぎ止めている手かすかに震えているのに気がついた。指先が血の気を失っている。首を横に振っているあたり、智己には知られたくない話、らしい。
 亜由美が眉間に皺を寄せていると、
「へぇ。立会いなんて面白えじゃん。じゃあ、これ持ってよ」
 と、安原に真新しい封筒をにぎらされる。
 理恵に頼まれて人の願書まで押しつけられて。おかげで亜由美はこの場から姿を消す機会を失ってしまった。
 何てことだ。
 亜由美は嘆息した。購買室からどんどん離れていく。憮然とした顔で亜由美は自分の携帯を取り出すと葉月にメールを送る。
 <<ごめん。プリン買えなくなった>>
 送信ボタンを押すと、昼休みを知らせるチャイムが無情に鳴り響いた。

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