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3 壊れゆくもの

「悪いけど、彼氏いるから無理」
 心の中で足立亜由美は苦笑した。
 この言葉を紡ぐ度、自分は裁判長にでもなったような気分になる。そんな偉ぶった人間でもないのに。
 今日の傍聴席はやけにうるさい。電車の振動に合わせて階段をかけあがる音。おはよう、の挨拶。予告もなく弾ける笑い。通りすがりの何人かが二人に視線を送りながら通り過ぎていく。改札口特有の機械的な音が何度もこだまする。
 目の前の男は亜由美の返事に呆然としていた。
 とても背の高い男だった。短く切りそろえられた髪は爽やかという言葉が似合う。さっきまで見せていた真剣な眼差しも誠実そうに見えた。胸板の厚さから見ても典型的スポーツマンといった感じだ。学校で、そこそこもてる側なのかもしれない。
「そっか……」
 男の口から言葉と共に深いため息が漏れた。同時に大きな体がしゅるしゅるとしぼんで、縮まってしまう。壁があっというまに岩くらいの大きさになる。
 次の言葉が出てくるまで二分かかった。
「ごめん。朝から引き止めちゃって。迷惑だったよね」
 男はしゃがみこんだまま亜由美を見上げた。感情を殺しただけの笑顔が突き刺さる。きっと好きな人の前にいる時だけは自分のいい姿だけを残しておきたかったのかもしれない。
 そのけなげさがあれば、世の中の人間は失恋したこの男に深く同情してくれるだろう。
 おかげで心おきなく言葉を吐くことができる。
「うん。ほんと迷惑」
 亜由美は男に背中を向けて歩き出した。空いてきた改札口で定期をかざして抜けようとする――
「相変わらずきっついなあ」
 亜由美のすぐ後ろから聞き慣れた声がした。おっす、と挨拶をしてきたのは同じ学校に通う田辺智己だ。身長に多少差はあるが髪型や雰囲気はさっきの男とたいして変わらない。だがこっちはイマイチしまりのないスポーツマンである。
 智己は改札を抜けると一度振り返った。そこにはまだ黒い岩が佇んでいる。
「あれ西高の奴だろ。練習試合行った時何度か見た――あいつ、足立狙いだったのか」
 災難だな、と智己は続ける。
「こんな毒吐き女がいいなんて」
「悪かったわね。毒吐きで」
「つーか、断るならせめて言い方くらいどうにかしろよ。『迷惑』とか言われたらマジへこむ。男ってのはそういうトコ繊細なんだからさあ……」
「そう? 告白を冗談で受け流されるより正直でましだと思ったんだけど」
「うわ、人の古傷えぐりやがった」
 智己は自分の胸に手を当てて痛がる。が、どう見てもフリだけだ。
 亜由美は嘆息する。そしてようやく気づいた。考えてもみれば、智己が亜由美よりあとの電車に乗ることはほとんどないのだ。いつも隣にいるもう一人の姿も今日はない。
「今日遅いじゃない。彼女は?」
「ああ、今日は俺が寝坊しちゃって――理恵には先に行ってもらったんだ」
「へぇ」
 亜由美は智己を頭からつま先まで観察した。寝坊と想像できるような寝ぐせはついてないし、服装も慌てたような乱れ感もない。何かあると亜由美はすぐに察した。
 でもちょうどいい。智己には今日渡さなければいけないものがあるのだ。
 亜由美は智己と肩を並べたまま駅を離れると商店街のアーチをくぐった。
 何件かの店を通り過ぎたあと、最近できたばかりの自転車屋の前で亜由美の足が止まる。シャッターから突き出ている包みを当たり前のように引き抜くと、悪びれることもなく智己に渡した。
「これ、昨日頼んだやつ。支払いはあとでいいって」
「さすが。対応早いな」
 感心しながら智己は中身を確認する。出てきたのは自転車の後輪にとりつける錠前だった。
「自転車の鍵なくしたんだって?」
「そうなんだよ。前のやつぶっ壊したのはいいんだけど外に置いておけなくてさ。今廊下にあるんだぜ。邪魔くせえ」
 だからこの自転車屋に連絡がきて自分にお使いが回ってきたわけだ。随分遠回しな買い物ではあるが、彼氏の店が繁盛してくれるのは悪いことではない。もしかしたら開店したばかりだから気を使ってくれただけかもしれないけど。
「サンキュ。助かった」
「それはどうも」
 亜由美は首に巻いていたマフラーを鼻もとまで上げた。肩をすくめ、これから受ける寒さをしのごうとする。
 やがて、おでこが全開になった。冷たい風が吹き抜け耳に冷たさが忍び寄る。時折砂の粒が顔にも当たって痛かった。
 冬の通学路は夏以上に厳しくなる。
 それでも更地ばかりだった去年よりはずっとましだ。道の脇には木造や鉄筋の建物が増え、通りを守る砦を順調に作っている。春になれば入学や進学でまた家や人が増えていくかもしれない。
 途中でコンビニに寄ると言うと、俺も、と智己がついてきた。
 亜由美は自動ドアを抜けると迷うことなく雑誌コーナーへ向かう。お気に入りの雑誌は発売日ごとにチェックを入れていた。普段なら立ち読み程度で終わらせているのだが、今日はふいの告白があったから時間があまりない。
 暖房の効いた店内で亜由美は今日発売のファッション誌を手に取る。
「足立は誕生日に何もらえたら嬉しい?」
 突然智己に聞かれた。突拍子もない質問に亜由美は眉をひそめる。
「ああ誤解するな。理恵の誕生日が近いんだ。クリスマスもそうだったけど何買ってあげたらいいか分からなくて」
「ふーん」
「あれか? やっぱり可愛いものとかそういうのがいいのか? それともちょっと高価なブランド物とか――」
「そのへんの雑誌見て考えたら?」
 亜由美は顎で目の前の女性誌を示すと、反応を見ることなくレジに向かった。慌てて智己が追いかける。
「ずいぶん投げやりでない?」
「別に」
 去年の今頃、どうやったら片想いの相手にバレンタインのチョコを貰えるかを必死で考えていた人間が今年は別の女の話で盛り上がっているのが気に入らないだけだ。
 そもそも相談する相手を間違えている気がする。
「そういうのは私じゃなく他の女友達に聞いてよ」
「けどさあ」
 精算をしている横で智己がぼやく。
「佐藤のやつ、最近俺を避けているみたいなんだよな……俺、嫌われたかなぁ」
 亜由美は口元を歪ませた。佐藤葉月は共通の友人だ。そして智己の告白を冗談であしらった張本人。
 なるほど。一連の行動はそこからきているのか。
 亜由美は店員からむき出しのままの雑誌を受け取ると、鞄に詰め込んだ。
 外に出ると冷たさがぶり返す。智己は亜由美の反応を待っていた。その受け身な態度を見ているとどうも意地悪を言いたくなる。
「確かに。私が葉月なら一か月も経たないうちに別の彼女作った神経を疑うわね。あの時告ったのは何だったんだって」
「な。失礼だな。これでも理恵のことは真面目に考えて決めたんだぞ。そんな、誰かの代わりみたいな考え方で付き合ってなんかいないし、そのことは佐藤だって――」
「らしいね。そのへんは聞いてる」
 智己が自分の親友に恋の相談をしていた、と知ったのはつい最近のことだ。その時智己は片想いと人に想われることの板挟みで相当悩んでいたらしい。今ならその気持ちもなんとなく分かると葉月は言っていた。
 亜由美は葉月がよそよそしくなった理由を知っている。残念ながら智己にそれを教える気はさらさらなかった。
 でも――ひとつだけ確かめたいことはある。
「そうやって葉月のこと気にしてるけど、未練でもあるわけ?」
 智己の歩調が遅くなる。しばらくの間腕を組み、空とにらめっこをしながら考えこんでいたが、答えは意外と早くに返ってきた。
「未練とは違うな」
「だったら何?」
「あいつはすごくいいやつだから――今でも大事な友達なんだ」
「本当に?」
「ああ。告ったこともさ、いつか同窓会でそんなことあったなあって笑えるような、そんな風になれればって思ってる。俺は佐藤にふられたけど、今は理恵がいるし、理恵が側いて本当に良かったって思うし……うん。幸せだよ」
 柄にもなく真面目に答えたのが恥ずかしかったのか、智己は困ったように笑った。きっと、今の言葉は本心なのだろう。亜由美の前には全てを吹っきったような表情しかなかった。
 清々しさが重くのしかかる。
「だから足立もそんな斜めに生きてないで、もう少し人に慣れた方がいいぞ」
 世の中は思ったよりいい人間が多いんだから、と智己は言う。すり替わった話題は人に群れない亜由美にとって耳の痛い言葉だった。
「友達が俺と佐藤だけじゃ淋しいだろ? 三年になればクラス替えもまたあるんだし。ここいらで一発はじけてみるってのは――」
「余計なお世話だ」
 亜由美はぴしゃりと言い放った。

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