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 遙が起こした拉致事件のあとで、彼方は葉月を食事に誘った。
 全てが晒され、このまま逃げるわけにもいかない。遙に先を越されたのが癪なのもある。それに何より葉月に絵のことを打ち明けなければならないと思ったからだ。
 モール内にある遙お奨めのレストランで、彼方は覚悟を決めた。
 彼方はとつとつと話す。夏休み明けに葉月を描いていたことや、それをポスターのモチーフとして使ったこと、過去に挫折したこと、今も残る不安も全て――
 言っている間も変に口が渇いてしまい、彼方はオーダーしたものが届く前に水をおかわりしてしまう。事後報告なのにこんなにも緊張したのは初めてだ。
 そして葉月もまた、答えのしように悩んでいるようだった。
 突然の話にそっか、と呟くもののその先の言葉が見つからない。まだ信じられないといった様子でもある。
 すると冷やかしで同席していたはずの遙が口を開いた。
「さっきは突然驚かせてごめんなさいね。でもね、姉としても絵を諦めてた弟がまた描きたいって、その気にさせてくれたことが嬉しかったから、だからお礼がしたかったの。この気持ち汲み取って貰えないかしら?」
 その言葉にいつもの打算はない。真剣な顔の姉を彼方は初めて見た気がした。
 大人として、家族として葉月と向き合う遙に不覚にも熱くなったのは、誰も知ることはないだろう。
 食事を終え遙と別れると、彼方は葉月とともに夕方に降りたバス停に向かっていた。葉月を送るためだ。今日、彼方は遙の車で一緒に帰ることにしていた。
 店舗がひしめく建物を突き抜け、レンガで敷き詰められた中庭に出る。そこを駆けめぐる電飾はクリスマスカラーに覆われていた。背中では波音がこだまし、少しだけ身震いが走った。葉月が着替える前の制服や靴が入った紙袋がゆらゆら揺れている。
「本当にいいのかな」
 葉月はまだ迷いを隠せずにいた。
 結局、葉月が今着ている服の代金は遙が支払っていた。当然ながら彼方に、という話は悪い冗談だったのである。
「そのうえ青柳にもご飯おごってもらっちゃって……何か申し訳ない」
「そんなことないさ」
 彼方はそっとつぶやく。
「大げさかもしれないけどさ。佐藤のおかげで――世界が変わったわけだし」
「青柳……」
 さっきから真面目に話しているせいか、急に恥ずかしくなった。
 彼方は話題を変えることにする。
「あのさ。スケッチのことだけど――よかったらというか、気に入らないなら佐藤に渡そうか?」
「貰えるの?」
「もちろん。というか当然です」
 葉月に全てを知られたせいか、この件に関しては思わず敬語を使ってしまう。
「ポスターは今無理だけど、学園祭終わったらちゃんと渡すから。でもひとつだけ、手元に残していいかな」
「え」
「その、最初に描いた時の気持ち忘れたくないというか、そういった意味なんだけど……いいですか?」
 彼方は申し出たものの、葉月の反応は薄い――というかない。黙りこんだままだ。
 不安になった彼方はおそるおそる呼びかける。
「佐藤?」
「……え?」
 いきなり電流が走ったかのように葉月が動いた。まるでおもちゃの人形のようだ。
 心ここにあらずといった感じ。
 これは葉月の癖なのだろうか。それとも――
「やっぱり本当は怒ってる?」
「?」
「こっそり絵を描いてたことも、勝手にポスターに使ったこととか……」
「ううん。あんなに綺麗に描いてくれたから、逆に驚いた」
 その言葉を聞いて彼方はほっとした。
 では今まで黙っていた理由は何だったのだろう。
「青柳見てたら――思い出したんだ」
「何を?」
 彼方が聞きかえす。何かを懐かしむ表情を見て、少しだけ心がざわついた。
「小学校の時、廊下に各クラスの絵を飾ったことがあって……ほら。夏休みの思い出とかそういったの」
「ああ」
 夏休み明けに行われる展覧会のことは彼方も覚えていた。
 学校の先生全員が審査して、一番頑張った絵に金のリボンをつけるのだ。昔はそれが欲しくて一生懸命描いていた。思えば絵にのめりこむきっかけのひとつ、だったのかもしれない。
 智己のことじゃなくてよかったと、彼方は安堵する。
「すごく気に入った絵があったんだ。絵のことはよく分からないけど、見ているだけであったかくて幸せな気分になった。描いている人もそんな人かな、って思ったらもっと気になって」
「へえ」
 葉月が直感で人を誉めるほどだなんて。一体どんな絵だったのだろう。
「でも、あの絵を描いた男の子は展覧会のあとに遠くに引っ越しちゃうって聞いたんだ。だからあたし貼ってあった『動物園の絵』が欲しい、って言ったんだけど……」
「え」
「でも断られちゃった。汗くさいからあっち行け、って。それでおしまい」
 彼方は胸がかき回されるような錯覚に襲われた。
 青の微笑みが、彼方の記憶に残っていた言葉と重なっていく。
 まさか、葉月が言っているのは――
「違う」
 彼方は否定した。
「あの時俺、体育の後で……だから『俺が』汗くさいから、『あっち行って待ってて』って言ったのに」
 それを葉月は最悪の返事だと思いこんでしまったなんて。
「なんだよ。そういうことかよ」
 彼方はひとり、怒っていた。葉月は言葉の意味が分からなくて首をかしげたままだ。
 ここまで鈍感だと少し苛ついてくる。
「俺、あの絵は佐藤にあげるつもりだったんだけど」
 そこまで言った所で、葉月の動きがやっと止まった。
「渡そうにも、もう絵なんてないぞ」
「嘘っ! あの男の子って青柳だったの?」
「って。今まで気づいてなかったのかよ。俺はてっきり知ってるものだと――」
「知らないよ! 違うクラスだったし、名前覚える前に転校しちゃったし。つうか、ものすごい遠くに引っ越したって聞いてたんだけど」
 確かに、当時は二つ三つ離れた市に移るだけでとても遠いものだと思っていた。でも実際はというと電車とバスを乗り継ぐだけで済んでしまう。
 もしかしたら、子供の距離感覚というのはそんなものなのだろうか。
「マジで? こんな偶然ってあり?」
「その前に勘違いで終わってる方が信じられねえ……佐藤の頭ってどうなってんだよ」
「ホント……どうなってるんだろ」
 葉月は笑ってごまかした。素直すぎる反応に、怒るどころかこっちの気が抜けてしまう。最後に、葉月の笑いがそのまま感染ってしまった。
 可愛いと思ったのは服のせいだけじゃない。そこに居るだけで目が奪われてしまっている。仕草や言葉の一つ一つに動揺しているのが分かる。
 今が夜でよかったと、彼方は思う。昼間だったら自分の微妙な表情で悟られてしまいそうだったから。きっと頬の色は葉月が見せた緋色より濃いに違いない。
 押し迫るこの気持ちを否定する理由はどこにもない――
 彼方は自覚し始めていた。自分は葉月に惹かれているのだと。
 ……停留所には人の列ができていた。
 バスはまだ来ていない。葉月は人が並んでいる方向から逸れると、反対側に貼ってある時刻表を覗いた。
 ずん胴なバス停が葉月の姿をすっぽりと包んでしまう。少し丸まった背中は無防備だ。
 彼方の心がぐらつく。それを煽るかのように、葉月が振り返った。
「バス、もうすぐ来るみたい」
 弱くて脆いけど、強くありたいと願う瞳には彼方しかいない。向けられた笑顔に嘘はなかった。
 このまま離れたくない――
 気がつくと、彼方は葉月が言葉を紡いだ場所に自分の唇を重ねていた。
 触れた場所が思った以上に柔らかくて、どきどきしてしまう。離してしまうのが名残惜しい。
 幅が三十センチもない時刻表の向こう側には葉月と同じバスに乗ろうとしている人が何人かいたはずだ。バス停と彼方の背中が盾になって、キスしていたのは誰にも気づかれていないだろう。
 それでも葉月はショックを隠しきれない様子だった。
「どうして……」
 葉月のうわずった声が耳をかすめた。瞳の中の海が揺れている。船を浮かべたらすぐに沈んでしまうだろう。
 以前はただ苦しかった。だが今は愛おしくて仕方がない。
「好きだから」
 気持ちの全てを言葉に託した。
「今は田辺のこと引きずっているかもしれないけど……考えてくれないか。俺とつきあうことも」
「……」
「急がなくていいから」
 戸惑う葉月に彼方は微笑む。安心させるためだ。
 やがてバスがやってきた。
 流れる人の波。葉月がバスに乗り込む。席に着いても、まだ表情は固いままだ。
 笑顔が作れないのはきっと自分のせい。自分の行動は二人だけが共有する淡い思い出さえ壊してしまったのかもしれない。でも、後悔はなかった。それどころか彼女を悩ませる男の存在が一瞬でも消せたことが嬉しいと思っている自分がいる。
 自分もまた葉月という深い海へ沈んでいくのだと――彼方は思った。

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