生の智己を見かけたのは、文化祭まで二週間を切った週末の金曜日だった。
智己は学園祭のポスターを貼る彼方を観察していた。
視線が痛い。ポスターよりも自分を見られているようで、全身が痒くなりそうだ。そもそも自分が描いたものを自分で貼っていること自体が恥ずかしい。
やっぱり突っぱねておけばよかった――
この時、彼方はポスター貼りを押しつけられていた。実行委員でもないのに。はっきり言って迷惑極まりない頼み事である。
こっちもクラスの出し物の看板や、お揃いで作るTシャツのデザインを頼まれているのに。今日もまた、遙の部屋で徹夜になるかもしれないというのに。
こういうのはとっとと終わらせてしまうにつきない。
喉が渇いたので、彼方は近くにあった自販機でジュースを買った。その場で飲み干す。
智己はまだポスターに夢中だ。目を合わせたくなかったので、彼方の視線は自然と体育館へ向かう渡り廊下へと移っていた。
屋根と柱しかない廊下からは体育館はもちろん、各運動部の部室棟やグランドまで一望できる。その一角にはここ二、三日のうちに集まったガラクタで山ができていた。壊れた机に椅子、用途不明の金属類――どうやら粗大ゴミとして出すらしい。
西日を受け、彼らは新品の時のようにきらきらと輝いていた。北風の余波で金木犀の花が揺れる。ほんのりと香りがこちらにも届く。
ふと、耳慣れない音を聞いた。
金属同士が軋んだような響きについ引きつけられる。
音を奏でていたのは葉月だった。
葉月は細長い金属を両手いっぱいに抱えていた。腰を曲げ、おぼつかない様子で歩く姿。背負ったスポーツバッグから見える細長い「何か」が今にもこぼれそうだ。
それにしても、葉月の格好は一体どうしたものだろう。
ここ最近の冷え込みで気持ちは分からなくもないが、制服のスカートの下にジャージを履いたままというのは見栄えが悪い。服の色合いがよくないのだろうか。
すると突然、彼方の側を風が抜けた。
背中が、まっすぐ葉月へと向かっていく。
「なーにやってんだよ」
渡り廊下の手前で葉月が止まった。バッグに引っかかっていた突起物が音を立てて転がる。ワキシューだ。智己はそれを拾うと、
「何だよ。夏に俺が買ってやったやつ、使い切っちゃったんだ」
そうぼやきながらうしろに回り、葉月のスポーツバッグへ銀色の缶を沈めていく。
「動きがババくせえぞ」
「るさいなぁ。『スタブロ』が昔のだから重いんだよ」
「持てないものを無理に運ぶなっての」
貸せ、そう言って智己はスタブロと呼ばれる金属を葉月から横取りした。
軽々と持ち上げ、あっちに捨てればいいのか? と粗大ゴミの山を顎で示す。
葉月が慌てた。
「いーよ手伝わなくても。あとちょっとなんだし」
「ばあか。こういうのは通りすがりに押しつけるべきだろうが。まったく、困ってることとか――何かあったら俺に言えばいいのに」
沈黙が訪れる。
葉月が一度うつむいた。やがてその視線はゆっくり浮上し、はるか天上へと伸びていく。
「どうした?」
「言葉が超寒いなあって。だから雪でも降るかなと」
「ひでぇー」
「あはは。嘘だよーん」
そう言って葉月は智己を追い越した。こっそりと見せた笑顔は、ポスターに描いた人魚そのものだ。
偶然見つけた彼方は絶句する。夏が終わってからはじめて葉月が心から笑った気がした。そして同時に前に描いた想像が正しかったことを確信する。
だが、それも長く続かなかった。
「理恵」
智己に呼ばれた一年生は恋人を見つけると、背中まである長い髪を揺らしながら近づいてきた。もちろん、制服のスカートの下は生足だ。
「おっ。彼女名前で呼び捨てですか? 部活じゃ苗字で呼んでなかったっけ?」
葉月は声を高らかに響かせる。テンションがいきなり跳ね上がった。
「うるせぇ。俺の勝手だろうが」
「あーっ。ガラにもなく照れてる。じゃあ加山ちゃんも田辺のこと名前で呼ぶわけ?」
「……まぁ」
「うわーっ。聞きたいっ。田辺が呼び捨てにされてるとこ。愛情こめて言ってくれない?」
「でもそれは……」
「いいじゃん。ね」
「さーとーおっ!」
馬鹿だ。
彼方は呆れた。これでは自分から地雷を踏みに行っているようなものではないか。
それでも葉月は一人道化師を演じ続けている。本当の気持ちを隠しているぶん、誰もいない所でひとり沈んでいくのは目に見えている。
息苦しいのに付き合う気はさらさらなかった。そう、こっちが避ければいいだけの話。
なのに――
彼方の足はいつの間にか葉月たちの方向へと向いていた。
三人の間に割り込む。佐藤、と呼びかける声が少しだけ震えてしまう。
「部活終わったならこっち手伝えよ。俺ひとりじゃ終わらない」
「は……」
「人手が足りないんだよ」
葉月が反論する間を与えないよう、手を取った。ぽかんと口を開けている智己と理恵を置き去りにしたまま、彼方は葉月を引きずるように連れて行く。葉月はいわれのない誘いに困惑を隠せないでいた。
まだだ、あの二人の姿が完全に見えなくなるまで。
彼方は握っている手に力をこめる。繋いだ手が汗ばんでいた。
「痛いってば、離せっ。靴ぐらいは脱がせろ」
気がつくとすでに校舎の中に入っていた。彼方がようやく手を離す。
「あいつのこと、好きなんだろ?」
彼方はずっと心にしまっていた言葉を葉月に突きつける。見上げた葉月の目が見開き、頬に緋が走った。
同時に、彼方の胸に小さな棘が刺さる――
「あんな顔するぐらいなら、告りゃあいいだろ」
「青柳……」
「何だよあれ」
彼方は言葉を吐き捨てる。じわじわと押しよせるのは憤りだけだった。
「あいつら冷やかす真似ごとして、自分傷つけて。惨めになるだけじゃないか」
言いながら、自分は何をやっているのだろうと思う。
他人ごとなのに本気で怒っているなんて。葉月の恋に首を突っ込むなんて。
「あんなことして悲しくないのかよ!」
「うるさい!」
悲鳴が、彼方をはじいた。
「何も知らないくせに――勝手なこと言うな!」
彼方と同じ感情がするすると渦を巻いて、葉月に取り憑く。さっきまで触れていた手が拳を作っていた。
「田辺、彼女ができて幸せなんだ。彼女だってすごくいい子で……できるわけない。田辺を困らせるようなこと、できないっ」
葉月は頑なだ。声は震えているのに強がって、反発して。
それが無性に腹立たしくて仕方ない。こっちがムキになってしまう。
彼方は自ら渦の中に飛びこんだ。
「だからってずっと友達ヅラ続ける気かよ!」
「悪い?」
「二人の前できれいごと言って嘘ついて! あとで泣くのはそっちだろ」
「泣かないし!」
「じゃあ何で今にも泣きそうな顔してるんだよ!」
彼方が吐いた真実に葉月が息を詰まらせた。そのまま、黙りこんでしまう。
言って、彼方はひどく後悔した。
本当はそんなことを言うつもりじゃなかった。葉月がこれ以上沈んでいくのを見たくなかっただけ。なのに、これでは自分が葉月をいじめているようなものではないか。
諦めろと簡単に口にできたらどんなに楽だろう。父親のように全てを切り捨てられたら。
でも、それを葉月に言っても何も変わらない気がした。
葉月のことだ。卒業するまでのあの二人に振り回されながら嘘をつき続けるのかもしれない。だったら――
「俺の側にいろよ」
無意識に言葉を叩きつけてしまった。すぐに血の気が引く。
自分は何を口走ってしまったのだろう――というより、違う。
「いや、あの……そういうのじゃなくて」
彼方は慌ててしまった。うっかりこぼれた言葉の理由が見つからない。頭の中が真っ白だ。
その時、彼方の携帯が鳴った。
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