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 一点に神経をとがらせていると頭を叩かれた。
「何しやがるんだよっ」
 最後の最後で、危うく違う色を乗せてしまう所だったではないか。
 彼方は自分よりも五つ年上の姉、遙(はるか)を睨みつける。だが遙は鼻息でそれを吹き飛ばした。弟によく似た奥二重の目が、かっと見開く。
「何しやがる、じゃない! 何なのよこれは!」
 遙はフローリングの床を指でさした。そこは新聞紙で敷き詰められ、数十種類の絵の具やパステルが散乱している。色があちこちに飛び散っていて、アトリエの雰囲気そのものだ。
「ここは誰の家だ?」
 遙が借りているアパートである。
 それを(新聞紙を敷いているとはいえ)ここまで汚くしたものだから主が怒るのも当然だ。
 仕方なく、彼方は最後の色を染み込ませると、後片づけを始めた。
「……男の家に行ってたんじゃないのかよ」
 遙は週末を男の家で過ごしている。その間、彼方は学校にも近いこの部屋を使わせてもらっていた。
 自宅はあまり好きではない。
 数年前に父親が買った中古の日本家屋は築五十年の代物で、彼方はそのいかにも的な古くささが苦手だった。襖で仕切られただけの畳部屋はプライバシーも何もない。それに比べ、遙のアパートは全てにおいて正反対だ。
 自分の時間を過ごすのに、ここは最高の場所だった。
 今日は遙の帰りがやけに早い。アナログ時計の短針は七時台だ。日曜の夜とはいえ、恋人たちにこの時間は早すぎる。
 が――なんとなく、嫌な予感がした。
 彼方は遮光カーテンを開けてそれを確認する。案の定、刺すような光が包んだ。夜の七時にこの明るさはありえない。どうやら彼方が絵を描いている間に夜が明けてしまったようだ。あらためて開いた携帯の待受画面は月曜日を示している。
「うわ。マジかよ」
「マジかよ、なのはこっちだって。ちゃんと食事睡眠取ってたのか?」
 ……絵に夢中ですっかり忘れている。
「親に怪しまれたらこっちの生活がヤバイんだから。ちゃんとしてよね」
 さすがに、口答えはできなかった。
 遙は彼方が反省しているのを感じ取ると、ローテーブルに目を移した。そこには長い髪をなびかせた人魚が白い空間の中、愛おしそうな表情で体を丸めている姿がある。
「珍しい――あんたが絵を描くなんて久しぶりじゃない? 何か頼まれた?」
「ああ……って、おい!」
 彼方の声が急に裏返った。遙がポスターと一緒に置いてあったファイルを開いたからだ。
「へぇ。人魚ちゃんのモトはこれかぁ」
「何勝手に見ているんだよ!」
 ファイルの中には新学期に見た葉月の姿がいくつもあった。青い輪郭は当時の面影を残したままだ。
 彼方が倒れたあの日。
 葉月がいなくなった直後、彼方の手は自然と青鉛筆を握っていた。葉月をまとっていた色を今描かないと絶対後悔する、そんな思いがよぎったのだ。
 青色がほどよい高さの鼻や唇を通り、顎をなであげる。頬に触れ、微妙な影を作っていく。途中、体に海が染みこんで何度もむせかえったが、鉛筆を動かすことだけは止めなかった。
 やがて保健室にあったプリントの裏面は様々な方向から見た葉月で埋め尽くされていった。保健の先生が戻ってこなかったら、延々と葉月を描いていたかもしれない。
 好き嫌いに関係なく、魂が揺さぶられたのはこれが初めてのことだ。
 それは彼方に一つのきっかけをもたらすことになる。
 ――学園祭のポスター描いてみないか?
 そう声がかかったのはつい先日のことだ。絵を描いていたことが先生から実行委員に流れたらしい。
 だが、コンセプトも何も出されていなかったので引き受けた方は困ってしまった。一晩中考え、そして最後の最後に浮かんだのが葉月をイメージした人魚なのである。
 それをよりにもよって遙に見破られてしまうとは。被らないよう髪も伸ばして、表情も微妙に変えたつもりなのに。
 これも女のカンというやつなのだろうか。
 その遙は、ポスターに視線を戻すと、
「でも、これってまだ未完成だよね?」
 と聞いてくる。
 無理もない。人魚と文字の輪郭以外は真っ白なのだ。
「これはパソコンに取り込んで背景と合成するんだ。文字は背景に合わせる。それ、遙でやってくれないか?」
 遙は今こそアパレルの仕事をしているが、その前はITの専門学校に通っていた。技術とセンスは問題ないだろう。ここにスキャナーが置いてあるのもありがたいことだった。
「ネットの素材サイトとかでいいから適当に保存しといて――って何だよ。気持ち悪そうな顔をして」
「だって。『俺の絵には絶対触れるな』オーラを出していたあんたが人の手借りるなんて……怖いわ」
「仕方ねぇだろ」
 本来なら全て自分でやりたかった。だが、このモチーフだと背景の色は限られる。だからこそ、遙に頼んだ方が賢明な気がしたのだ。
「へぇ。人に頼ることを覚えるなんて、ちょっとは成長したんだ」
「悪いかよ」
「あの時も今くらいの冷静さがあればよかったのに。そしたら父さんもあそこまでしなかったのにね」
「そうか?」
 彼方は眉間にしわを寄せた。
 あの頑固者は夢という言葉を信じていないような気がする。息子の可能性さえ平気で潰すような奴だ。
 中学時代、彼方は父親に絵を予告なしに燃やされたことがある。
 人生で初めての挫折。あれ以来、美術という言葉さえ口にせず避けてきた。
 なのに――あの日の葉月が彼方の心の奥底にあった本心を引き出してくれたのだ。本当は諦めたくない、と思っている自分を。
「結局、戻っちまった……か」
 ファイルを手にしたまま、彼方はつぶやく。
「まぁ、彼方が美術系進みたいって言うなら私は反対しないよ。それなりにフォローしてあげるし」
 姉が妙に優しいから、今度は彼方が気持ち悪そうな顔をした。遙が優しいもの言いをする時は絶対裏があるのだ。
「おまえは何を企んでいる?」
「あ、ばれた?」
 聞いてみると来月、彼氏と旅行に行くからフォローよろしく、とのことだった。
 彼方は適当に返事をしておく。大きな欠伸がひとつ彼方の口から漏れる。
 とにもかくも、まずは眠ってからだ……


 次に彼方が目を覚ましたのは、それから四時間後だった。
 遙はもう仕事に出たらしい。
 彼方は用意してくれたおにぎりをかじると、隣に置いてあったコピー用紙を手に取った。相変わらず、行動が早いなと思う。彼方の人魚はすでに背景と合成した状態で印刷されていた。
 遙が選んだのはやはり紺碧の海だった。
 人魚は小さな泡に囲まれている。守っているのは大好きな王子への想い。それを引き連れて海に溶けていくさまは、昔聞かせてもらった物語の最後を見ているようだ。レタリングされた文字も映える色で染め抜かれ、遠目に見ても目立ちそうだ。
 だが、あまり見てはいられない。
 彼方はそれをファイルにしまうと、体の調子がいいうちに学校へと向かう。たどりつくとちょうど昼休みの時間に入っていた。
 彼方は実行委員長のいるクラスへまっすぐ向かう。
 ポスターの原案を見せた瞬間はさすがに緊張した。久しぶりに描いた絵が良いのか悪いのか、自分でも分からない。もしかしたら却下されてしまうかもしれない。そんな気持ちでいっぱいだった。
 だがそれは取り越し苦労で終わる。
 委員長は満面の笑顔をくれた。それはブランクのあった彼方に自信を取り戻させてくれた。自分はまだ、やれるのかもしれない、と。
 ――葉月にお礼くらいは言っておこうか。
 自分の教室に入った彼方は葉月に声をかけようと近づく。でもすぐに思い留まった。
 冷静になって考えてみると、本人の承諾もなくスケッチしていたのだ。ストーカーどころか変態に思われても仕方がない。自己申告したところで、怪しまれるのがオチではないか。
 ここは自分の為に、黙っておいた方がいいのかもしれない。
 彼方は小さな罪悪感をそっとしまうことにした。
 一方、葉月はというと――
「やばっ、リーダーの教科書忘れた」
 といつも通り騒がしい。夏の終わりに見せた顔はこれっぽっちもない。前の席には葉月と仲のいい――足立亜由美が呆れた顔で葉月を見ていた。
「どうしよう。今日当たり日なのに……」
「田辺のトコに行って借りてくれば? あっちも今日授業あったでしょ」
「そう、だよね……」
 亜由美の提案に葉月は奥歯にものが挟まったような返事をする。動きの鈍さにそーいえば、と含みを持たせたような言葉が飛ぶ。
「最近、田辺と絡まなくなったよね」
「そうか?」
「あっちに気い使ってるの?」
「そうじゃないけど……ほら、二人外で一緒にお弁当食べてるって聞いてるから。邪魔するのもどうかなって。向こうもなかなか二人っきりで居られないみたいだし」
「昼休みも何もあと五分で終わるんだけど」
「あれ? もうそんな時間?」
 あはは、と葉月が笑った。その足元に、紺色がしのびよる。斜め四十五度から見える頬が、一瞬だけ震える。
「……わかったわよ」
 何かを悟ったらしい。亜由美が自分の教科書を葉月に渡した。
「葉月がそれ使いなさい。私が教科書借りてくるから」
 亜由美が教室を出ていく。その背中が見えなくなると、葉月はそっとため息をついた。
 彼方の中にあの日の海がよみがえる。もがいても這い上がれない錯覚が、葉月を呑み込んでいく。
 彼方はそれを波打ち際で眺めていた。それでもしたたか、酔いそうになる。
 自分だったら必死で水面の先を必死に求めていたのかもしれない。
 だが葉月は違った。海の底で留まっている魚でいようとしている。濃い碧に囲まれて、じっと堪えて――それは昔、絵に挫折した直後の自分を見ているような気がした。
 ふと、亜由美との話に出てきた言葉を思い出す。田辺、と聞いて出てくる人物がひとりいた。
 田辺智己――
 クラスは違うが、底抜けのお調子者は葉月と同様、嫌でも目に入っていた。
 葉月や亜由美とも仲がいいらしく――確かサッカー部のキャプテンだったはずだ。最近は一年の女子と一緒にいるのを何度か目撃したことがあり、その雰囲気は葉月たちとは違った「そういう」関係なのだと、うすうす感づいていた。
 彼方の中で想像が膨らむ。今の葉月の表情から、もしかしたら、と思う。だが、それを口にするには軽率すぎるような気がした。
 葉月からそっと目を逸らし、見ないフリを決めこむ。沈んだ感情はゆらゆらと流れ――やがて、予鈴とともに見えなくなっていった。

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