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2 deep blue

 懐かしい過去がよみがえる。
 (この絵が欲しいんだけど)
 少女は壁に貼ってあった絵を指した。それは夏休みに家族で動物園に行ったときの記憶を写したものだ。
 思えば奇妙な出来事だった。少女は自分で言っておきながら結局絵を受け取りに来なかったのだから。
 (どうして、来なかったの?)
 問いかけても少女は答えない。絵に描いた太陽のように、にっと笑っているだけだ。やはりからかわれていただけなのだろうか。
 だからもう一度だけ。何故、と問いかけてみる。
 だが次の瞬間、少女は消えていた。それどころか、世界自体が青色にさらわれてしまったのだ。
 全てを包みこむ海に血の気が引く。この世で一番の恐怖におののいた。慌てて吐き出した息が気泡となって天へと昇っていく。空気のかわりに飲みこんだ水が喉を締めつける。
 苦しい。
 もうだめかもしれない。
 また、ここで死んでしまうかもしれない?
 そう思った瞬間、全ては夢に変化して――消えた。


 やはり前世は海で終わったのではないだろうか。
 白いベッドに打ち上げられた青柳彼方(かなた)はつくづく思った。
 生身か船なのか――あるいは飛行機に乗っていたのかもしれない。そのいずれかの途中、海に落ちてそのまま天に召されたのではないだろうか。テレビでよく見る霊能者に聞いたらそんな答えが出てきそうだ。
 彼方の中には記憶のないトラウマが残っていた。
 水の中にいるのが怖いのだ。
 プールはもちろん、海なんてもってのほか。幼い頃はお風呂に入るのを嫌がって親を困らせた。今はそこまでひどくはないが、足がつかない水辺に自分から行こうとは思わない。せいぜい、遠くで見ているのがせいいっぱいだ。
 それでもふいに落ちてしまうことがある。
 夏休み明け早々、彼方は海に落ちた。
 まさか教室で溺れるとは思わなかった――といっても倒れること自体は昔から慣れているからどうでもいい。大事なのは、その原因の方である。
 あれは一体、何だったのだろう。
 クラスメイトとすれ違ったあの刹那。自分は確かに海を感じていた。
 あの独特の潮気はどこにもなかったはずなのに……
 もしかしたら、向こうが海を思わせるものでも持っていたのだろうか。
 きっと、相手に訪ねればその疑問は解けるかもしれない。だが、彼方はそれを躊躇っていた。
 彼方が最後にすれ違ったクラスメイト――佐藤葉月はクラスの中で「陽気」という言葉が一番似合う女だ。
 とにかく賑やかで騒がしい。自分とは正反対の質を持っているだけに、彼方は葉月と必要以上の会話をすることはなかった。いわゆる苦手な人種というやつだ。しかも葉月は周りの空気を読めないときた。あの人間は相手の心を深く考えていないのだ。
 素直すぎるリアクションは時に人を傷つける凶器にもなる。もしそうなった時、それを笑って受け流すほどの余裕を彼方は持ち合わせていなかった。
 まあ、聞かなくてもいいか――
 彼方は心の中でつぶやくと、目を閉じた。
 保健室の中はとても静かだ。開けっ放しの窓からそよそよと流れていく風は、気持ち涼しく感じた。
 倒れてからどのくらいの時間が経ったのだろう。時間の感覚が掴めない。そうなるとカーテンの向こう側にある壁掛け時計が急に気になってくる。
 彼方はふらつく頭を持ち上げ、起きあがった。ぼさぼさの髪を直してから、膝でベッドの上を歩く。壁にある時計を見ようと、反対側にあるカーテンを開けようとした所で――彼方は動きを止めた。
 自分以外に誰か、いる。
 今まで彼方が眠っていたベッドの側にはカーテンを隔てた先に事務机が置かれてあったはずだ。それはこの部屋の主が使っているもの。
 もしかしたら、そこに先生がいるのかもしれない。
 それを踏まえた上で、改めて彼方は白いカーテンをそっとよけた。
 先生はいない。
 そのかわり、彼方が見た海がそこに広がっている。その中心に葉月がいた。
 葉月は頬杖をつきながら鉛筆を転がしていた。
 両方の端が削られた赤青鉛筆が色の境界線を中心に、くるくるとビニールマットの上で踊っている。それを見つめる瞳には今にも割れてしまいそうな薄い氷が張っていた。目に留まったまつげが小波となり満ちては引いていく。頬には細い影が差していて、ちょっとでも触ってしまったらなにもかもが泡になって消えてしまいそうだ。
 ――なんて哀しげな表情なのだろう。
 鳥肌が立った。海への恐怖とは違う身震いに襲われる。こっちの呼吸がままならない。苦しくて、先に彼方の方がむせてしまった。
 葉月が振り返る。彼方を見た瞬間、葉月の頬にじんわり血の色が戻った。
 潮が急に、引いていく。
「大丈夫?」
 葉月は彼方の様子を伺おうとしたのか、席を立った。が、二、三歩歩いてすぐに止まってしまう。そして同じ歩数だけ後退したあと、さっきまで座っていた椅子に改めて腰を下ろした。まるでビデオの巻き戻し画像を見ているようだ。
「気分どう?」
「まぁ……なんとか」
「そっか」
 そこでやっと、葉月の顔にいつもの太陽が戻った。
 時刻は九時半。倒れてからはまだ一時間も経っていないようだ。葉月の体には、まだ海の気配が残っている。だがこの距離なら耐えられる範囲だ。
 彼方は葉月の姿が確認できる程度にカーテンを開けるとベッドの上であぐらをかいた。
「そういえば倒れた時に頭ぶつけてなかった?まだ痛む?」
「……」
「痛いの?」
「いや、思ったより平気」
 気持ち悪い、の一言につきた。葉月が心配しているからだ。雨でも降るのではないのだろうかと思ってしまう。
「ならいいんだけど」
 唐突に静けさが訪れる。間の悪い会話に彼方の方が緊張してしまう。
 再び葉月が問いかけた。
「あのさ。倒れた原因って、もしかしてあたし?」
「え?」
「ほら、あたしとすれ違った直後に倒れたから」
「……どうしてそう思った?」
 葉月は口を閉ざした。一度迷うような表情を見せたあとで匂い、と答える。
「今のあたし、ワキシューで海くさいから。もしかしたらそれで気持ち悪くなったんじゃないかな、って」
「ワキシュー?」
「ほら、汗かいたときに脇の下にする――」
 制汗スプレーのことだと聞いて彼方は納得した。
 なるほど匂いの正体はそれだったのか。
 そうなると今距離を置いているのは葉月なりの気遣い――なのだろう。
「違うの?」
「いや……当たってる」
 たぶん香水に比べたら可愛い方だ。むしろ自分の方が特殊なのだと思う。そもそも、夜更かしを続け、体のリズムを狂わせた自分が悪いのだ。
「まぁ、匂いだけが原因じゃないんだけど……俺、体調悪い時に海っぽいの感じると貧血起こすから」
「へぇ」
「面白い体質だね」と葉月は続けた。素直な反応にこっちが傷つきそうになる。
 だが――
「そういうのってやっぱりあるんだね。あたしだけじゃなかったんだ」
 葉月からそんな言葉が出てくるなんて、意外だった。
「あたしも、自分の体臭気になるからワキシュー手放せないんだ。面白いっしょ?」
 そう言って葉月は笑った。自身のことすら笑いに変えている。ある意味で尊敬してしまうが、一方で不思議だった。葉月には隠している秘密に恥ずかしさはないのだろうか。
 だが、その疑問はすぐに打ち消されてしまう。
「でも今日はつけすぎちゃって大失敗……ホント、バカ」
 ――瞬間。
 見えなかったはずの青色が葉月を取り囲んだ。
 最後の一言が底に沈んでいく。彼方を守っていた境界線も崩れはじめ、言われようのない感情が感染った。同時に、懐かしい衝撃が心を揺さぶる。
 やがて一限目の終了を伝えるチャイムが鳴り響いた。
「今日はこのまま帰ったら?」
 葉月の声がいつもより半音上がった気がした。
「どうせ午前中で学校終わっちゃうんだから帰っちゃいなよ。担任にはあたしから言っておくから」
 じゃ行くね。
 そう言って葉月は海を引き連れ去ってしまった。扉が閉まる音で空気が変わる。それでも、儚い海の雫は跡を残していた。ゆったりとした風に乗って飽和状態となって溶けていく……
 今のは――何だったのだろう。
 ふと、彼方の視界に小学生の頃使った二色鉛筆がとびこんだ。
 赤というより朱色の芯は太陽、濃い青芯は空というより――やはり海、だろうか。
 天と地を真ん中で割ったその姿が葉月と重なっていく。そう、色は違ってもふたつは繋がっている。鉛筆には変わりない。
 つまり、葉月の本質もそれと同じかもしれないということ。
 まさか。
 彼方は自分の想像を否定した。あそこまであけっぴろげな葉月に、誰にも言えないような闇があるなんて。考えられなかった。
 それでも、あの強烈な青の表情はなかなか離れずにいる。
 ふつふつと沸き上がる懐かしい衝動を、抑えきれずにいる自分がいる。

 

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