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 夏休み期間中は智己と顔を合わすこともなかった。
 特に大きな大会がない陸上部とは違い、サッカー部は練習試合や合宿が続いていたようだ。練習をするにもグランド使用の時間調整が行われていて、陸上部の練習時間にサッカー部の面々を見ることもなかった。
 持ちかけられた相談がその後どうなったか、葉月自身も気にはなっていた。だが部活やアルバイトに追われる日々で、色あせてしまったのも事実だった。
 お盆を過ぎた頃になると、朝夕を通り抜ける風はだんだんと涼しくなる。
 いつもはうるさいくらいの蝉のこだまも耳障りにならない程度へと変わっていった。ふと見上げた空は徐々に高さを増している。ふとしたところで新しい季節が確実に息づいているようだった。
 今年も夏が、終わっていく。


 ――学校が始まった。
 小麦色の肌をかぶっても、ギリギリの時間で駅に着くのは変わらない。葉月はホームでアクアマリンの匂いを軽く吹き付けてから各駅停車に乗りこんだ。
 学生で埋まった電車は夏休み前より活気がある。久々に会う面々、交差する会話。それを肌で感じながら葉月は扉の窓から見える景色を眺めていた。
 電車が高架下にさしかかる。小さな変化に気づいたのはこの時だ。
 いつもはこの辺で見かける智己の姿が、ない――
 電車が駅のホームに入ってもその姿を見つけることができなかった。
 駅を出た葉月は学校までの道のりをだらしなく歩く。途中、コンビニにも寄ろうか、そう思ったが、学生達の隙間から見たことのある背中が見え、それは打ち消された。
 シャツから抜け出した首や腕は、葉月といい勝負の小麦色で包まれている。最近床屋にでも行ってきたのだろうか。刈り上げられた頭の先がつんと立っていた。肩掛けのところには夏休み前には見なかったキャラクターのストラップが、時計の振り子のように揺れていて――
 何だ。同じ電車だったのか。
 おはよう、といつもの調子で声をかけた。たなべ、と言いかけ――最後の一言をひっこめる。尻切れとんぼな挨拶。目が合い、しまったというような顔が自分だけではないことを知って更に気まずくなる。
 智己の隣には女の子の姿があった。
 髪を下ろしているが、それは放課後よく見かけていた横顔――
「佐藤先輩、おはようございます」
 先に挨拶を返したのは理恵が先だった。
 彼女の長い髪がふわりと揺れる。そのそばでは、おう、と智己がうなずくような返事をしていた。
 いつもにない朝の風景。智己の隣にいる自分以外の女の子。
「つまんないなぁ」
 葉月は無意識に声を張り上げた。
「田辺が遅刻するのを期待してたのに。ざーんねん」
「ああ。車両、変えたんだ……」
 答える智己は固い表情をしている。それは緊張を落としきれないようにも見えた。
 ふと目をおとす。理恵のバッグに引っかかっていた新しいストラップが智己と同じデザインだと気づき、はっとする。
「もしかして、お揃い?」
 ごく自然に葉月の口から質問がこぼれた。この展開はドラマで何度もみたことがある。そう、それは――
「もしかして、二人、つきあっちゃってる、とか?」
 智己と理恵が顔を見合わせる。目だけの会話が二人の世界を作っていた。
「まぁ、な」
「へえ……」
 葉月はにやりと笑った。
「そっか。そういうことか」
 葉月は冷静に事実を受け止めていた。ただ、智己は自分の気持ちに決着をつけただけなのだと。智己が言っていた女の子の一人は彼女だったのかと。
 でも――理恵はそれでよかったのだろうか。
 智己に相談された手前、そんな思いが沸き上がったものだから、
「本当こいつでいいの?」
 と、葉月は気持ち半分で理恵を茶化してみる。
「こいつ、サッカーしか頭にないし口ばっかのお調子者だよ。人に対して投げっぱで無神経な所あるし。そんなのが彼氏でいいわけ?」
「そんなことありませんっ」
 速攻で言葉が返ってきた。
「先輩は優しいですっ。それに部のみんなのことだってちゃんと考えているし、みんなも先輩を頼りにしているんです。そんな無神経だなんて……佐藤先輩は誤解してますっ。先輩は素敵な人なんです」
「うん。そうだったね」
「『そうだったね』って」
 葉月が笑ったものだから、理恵はけげんそうな顔をする。智己のためにくるくると表情が変わる理恵を素直に可愛いと思った――この時までは。
 まだ知り合って一年半だが、智己がどういう人間かは葉月にも見えていた。
 サッカーしか頭にないのはそれだけ真剣に取り組んでいるから。ムードメーカーを自ら買って出るのも、素直に楽しいことが大好きなだけ。投げっぱなしにすると言っても、相手に決して出来ないことを求めるわけではない。智己は心の奥でずっと見守っているのだ。部長に指名されたのもそういった部分が評価されたからだろう。
 そんな智己に理恵はもったいないと思わない。それ以上につり合いが取れているといった方が正しいのかもしれない。
「田辺って何だかんだ言って、意外といい奴なんだよね」
 葉月は今まで言わなかった言葉をふいに口にした。すかさず智己が反応する。
「何だよ。その『意外と』ってのは……」
「じゃあ、『超いい男』」
 言って葉月は思った。そういえば、面と向かって智己を誉めるのは初めてのことではないだろうか。
 ――刹那。
 葉月の体が強ばる。急に世界が遠のいた気がした。
 身震い。だがそれは一瞬のことで葉月の体温はすぐに持ち直した。いや、それどころかどんどん上昇していく。動悸が止まらない。智己から視線をそらした葉月はその場にしゃがみこんでしまった。
 風邪? いや、違う。
 この気持ちには憶えがあった。
 あれは小学校の頃、好きな人と初めて話した時だ。
 騒ぐ心臓、火照った頬――想いの深さは別物だったが、おそらく自分が思った答えは正しいのだろう。
 でも――言えない。
 側に理恵がいる。智己は彼女を選んだのだ。
「佐藤?」
 しゃがみこんでしまった葉月に智己が近づく。その気配を感じて、葉月の心は更に高鳴った。
「どうした? 具合でも悪いのか」
 その声は真剣だ。本気で心配してくれる。
 優しすぎて、辛い。だから。
「……田辺誉めたら気持ち悪くなった」
「はぁ?」
「慣れないこと言ったから体が拒否反応? みたいな」
「ひっでぇ」
 せっかく心配したのに、不満そうな声の智己に葉月は笑う。でも、それは耳の中で奇妙な音を響かせ、空回りした。
 本当は早くここから逃げ出したい。
 葉月は必死で理由を探していた。今日は日直ではない。宿題を写すにも、頼りの亜由美がこの道を歩くのはあと十分後。
「ごめん。あたし、部室に教科書置きっぱだったんだ」
 苦しい言い訳だった。無理矢理明るい顔を作ろうとしたが、目元がひきつって顔が上げられない。
「先、行くね」
 葉月は二人から離れた。
 車道へ飛び出し、渋滞に引っかかった車の間をすり抜ける。白の境界線をあっという間に飛び越え、反対側の歩道を走った。学校までの距離を一気に駆け抜ける。
 正門をくぐり抜けた葉月は迷うことなくプレハブで造られた建物へと向かった。
 陸上部の看板が掲げられている部屋に迷わず飛びこみドアを閉める。肩にかけていたスポーツバッグがコンクリートの地面に落ちると、外から持ち込んだ土と埃が曇りガラスから漏れる朝日を浴びて舞った。荒い息づかいは徐々に間隔を広げ、最後に深いため息に変わっていく。
 それでも、この胸の鼓動が静まることはなかった。
 どうしよう。智己を男として意識してしまった。
 今までそんなことなかったのに。
 体の内側はざわついたまま――赤く染まった顔はなかなか冷めない。
 葉月の脳裏に智己と交わした言葉がよぎった。
(俺たちって一体何なんだろうな)
 あの言葉を今、聞いていたら何て答えただろう。この気持ちがもっと前にあったら、何かが変わっていたのだろうか。
 親友とまではいかないけど、智己とは腹を割って話せる友達だと思っていた。
 お互いにバカやって、ふざけあって、時々お互いを励ましたりして――その関係が続くのだと葉月自身も思っていた。
 それなのに、どうして自分だけこんな気持ちになってしまったのだろう。
 智己への想いに気づいても、認めたとしても、今となっては遅すぎる。
 加山理恵は――あの子は自分よりずっと後に智己と出逢ったのに。やはり女の子らしかったから? 真面目で素直だったから? 理恵は智己にとって「どっち」だったのだろう。
 智己は迷っていた。想うより想われた方が幸せなのか、真剣に悩んでいた。
 もしかしたらあの日、智己は答えを出したのかもしれない。別れたあとで、智己と電話で話したのは理恵? それとも智己が言っていた「好きな人」は別の女性のこと、なのだろうか。
 そこまで考えて、葉月の口から笑いが漏れた。
 何を考えているのだろう。
 どっちにしても、智己の心を掴んだ人間に嫉妬しているに変わりはない。自分がみじめになっていくだけだ。
 本気の恋とはそういうものなのだろうか。好きになるほど誰かを疎ましく思うのだろうか。
 人を心から憎むのは初めてで、壊れてしまいそうだった。
 今までにない「好き」の深さは葉月を困惑させ、自己嫌悪に落としていく。
 醜い。
 苦しい。
 こんなのは自分じゃない。
 消えてしまいたい。
 誰も知らない闇の中へ――この気持ちを棄ててしまいたい。
 しばらくして、葉月はスポーツバッグの中から智己に買ってもらったスプレーを取り出した。
 今朝智己と会ったら冗談で吹きかけてやろうと思っていたけど。その必要もなくなった。これから先一緒の車両に乗ることはない。持っていても意味がないのだ。
 瑠璃色のスプレーを噴射した。
 見えないキャンバスに大きく円を描いたあと、落書きをするように何かを描いていく。中身全てを使い切るまでそれは続いた。
 何度もなぞったのは、絶対伝わらないであろう気持ち。霧で作られた「それ」はたやすく空気に溶けていった。形すら残らない。
 葉月は自分が創った海の中でひとり、漂っていた。必要以上の匂いにむせそうになる。粒のひとつひとつが目に染みて仕方なかった。

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