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 終業式も終わり、午後一時から始まった部活もそろそろメインイベントを迎える。
「位置について」
 葉月はお願いします、と挨拶をしてから右膝をつき、クラウチングの姿勢を取った。
 目の前にはこれから走るべき道。普通の百メートルと違うのは、途中に白地に黒の縦ラインを乗せた十個の障害があることだ。
 ハードルとの付き合いは五年目へ突入していた。
 それなりに経験もし、賞も取ったことがある。だが今でもスタート前は緊張が抜けない。用意、の声に心臓から流れる血液が一気に逆流しそうになる。
 ピストルに仕込んだ火薬が、弾けた。
 葉月は音に合わせて右腿を突き出す。最初のハードルまでの距離を一気に駆け抜けた。
 飛び越えた一つ目、踏みきりが微妙にずれた。動きにまだ固さが残っていたらしい。葉月は深く息を吐き、次の足を運ぶ作業に集中した。
 八十四センチの高さを同じ足で踏み切るには、その間の距離を偶数歩で走りきらなければならない。葉月はスタート直前のアップで叩き込んだ歩幅を思い出し、次の障害物を目指した。
 踏み切った二つ目、だいたい思い通りのイメージで跳ぶことができた。
 三つ目、前傾姿勢を崩さないまま、着地点を確実に捕らえる。
 よし、百分の一秒の世界で葉月は小さく頷いた。
 勢いに乗った葉月は次々とハードルを乗り越える。スパイクのピンが地面を引っ掻き、持ち上げた土が宙に飛ばされていく。全部倒さずに跳び越えたところで葉月は腕を大きく振った。
 白線を踏む前に細い体をひねり、肩を突き出す。肩から突入するのは少しでもタイムを縮めるため。胸がもう少しあれば体を前に反らすだけですむのだが、該当する人達にしてみれば走っている最中の方が邪魔らしい。ちょっと羨ましい話だ。
 完走後、しばらく呼吸を整えていると、マネージャーが葉月にタイムを伝える。
 十六秒〇八。
 自己ベストには届かないが、葉月にとっては許容範囲内のタイムだ。おそらく、駆け出しが固かったせいだろう。
 次の大会まではまだ時間があるから、夏休みの間に練習を重ねて克服していけばいい――葉月は自分に言い聞かせるようにうなずいた。
 犬のように頭をふった後でゆっくりと顔を上げる。汗が空気に触れ、少しだけ体温が下がった気がした。短い髪の間を小さな風が抜け、ようやくまわりを見る余裕が持てるようになる。
 砂漠化を始めたグランドでは陸上部の他に、サッカー部の姿がある。一周二百メートルのトラックをはみ出したサッカーコートはとても窮屈そうだ。葉月のいる百メートルコースすれすれに設置されたコーナーから、彼らはシュートの練習をしていた。
 蹴ったボールを反対側から走ってきた別の部員が頭で押し込める。シュートが決まるたびに彼らはサンバ調のステップを踏んでは騒いでいる。
 その中心にはキャプテンになったばかりの智己がいた。
「まるでお祭りだな。あいつら、真剣に練習をやっているのか?」
 気がつくと、葉月の側には陸上部の部長を務める久保が立っていた。
「さあ?」
 葉月は久保から少し距離を置いてから首をかしげた。汗の匂いを届けないためだ。
「おーい田辺ぇ」
 久保が声をかけると、祭りの中からひょっこりと智己だけ抜け出した。一度葉月を見て、軽く手を振る。
「十五分だけサッカー部どけてもらっていいか? トラックで長距離のタイム計るから」
「おう、わかった」
 陸上部とサッカー部にはちょっとした決まり事がある。
 一方の部で試合が近い時や一時的にトラックを使う場合、もう片方の部がグランドを明け渡すのだ。それは暗黙の了解となっていて、三年生が引退した今も変わらない。
 だが、
「この間みたく邪魔するなよ」
 久保の口から棘のある言葉が突き刺さった。悪気はないとは思うが、言われるのも無理はない。前回のタイムトライアルで、久保は智己に妨害をされたのだ。
 トラックを全速力で走っている途中、横からタックルを仕掛けられた久保は勢いに乗って転倒した。当然久保は烈火のごとく智己に掴みかかったのだが、智己は久保の怒りを軽くはねのけた。
(悪い。コンタクト落とした!)
 落としたのは使い捨てのないハードコンタクト。あとあと聞いた話によるとその相場は片眼六千円から一万円、らしい。
(俺にとって一万円は高額なんだよ。あれがないと困るんだ。だから頼む、一緒に探してくれ)
 久保は延々智己に懇願されてくるまれて、結局陸上部総出でサッカー部の面々一緒に探すことになったのである。
 とはいえ、この学校のトラックはお互いのスパイクで荒れており、直径一センチにも満たない落とし物を見つけるのは困難だった。
 最終的にトラックからかなり離れたフィールド内で見つかったのだが、その頃になると日は傾き、せっかく温めた陸上部員達の体は冷えていてタイムトライアルは翌日へずらさざるを得ない状況になってしまった。
 もちろん、智己が久保に説教されたのは言うまでもない。
 そして幾日か経った今。当の智己はというと、
「ああ、この間のことは不幸な事故だったよな」
 と人ごとで返すから素晴らしい。久保が呆れた。
「おまえは相変わらずだなぁ」
「これが俺のカラーなの。つーか、フィールドは使っても大丈夫なんだろ? そしたらこっちは体力メニューやるからそっちの時間延びてもオッケーだぞ」
 体力メニューというのは、各運動部に共通した基礎トレーニングのようなものだ。腹筋に背筋、腕立て伏せを取り入れた動きはエクササイズに近い。だが、普通のそれと違うのは、セットが進むにつれ、回数を変えずに時間を縮めていくことだ。
 最初はスローな動きにも耐えうる筋力を作り、最後は瞬発力を養う――部員達にとってとてもありがたくない練習メニューである。
 智己がそれを告げると、案の定、サッカー部の面々から小さな嵐が起きた。鬼だ、悪魔だとわめく後輩達。それを智己は両手を出してなだめる。
「まぁまぁ。今までのは軽いウォーミングアップだ。ゴール決めたあとに踊れるなら、十分乗り切れるだろう」
「だからって各種百回で十セットは無茶だって。死ぬ」
「俺たち部長みたいに不死身じゃないんだから」
 確かに、炎天下まっさかりの中でそれをやったら十分死ぬだろう。
 陸上部でさえ、質も量もその半分なのに。
「まぁ聞け。俺だって心底鬼じゃない。辛かったら日陰で休んだっていいんだ。水分もちゃんと取れ。その間は水着の姉ちゃんやテニス部のスコートに萌えても許す」
「部長……」
「だが必ず戻ってこい! 俺はいつでも待ってるぞ」
「兄貴ぃ!」
 びしっと拳を突き上げる智己。その先にはさんさんと太陽が輝いている。正直、言っている本人は大根にしか見えないのだが、その言葉で素直に部員達がついてくるあたりが阿呆――いや、信じられないと言ったほうが正しいだろう。
 サッカー部ではこの雰囲気が流行りなのだろうか。
 コーナーに寄っていたサッカー部員達は雄叫びらしき声を上げると、グランドの中心へと向っていく。隣を見れば予想通りというか、久保が引いていた。
「なんじゃあれは……」
「さあ? アレがあっちのカラーなんじゃない?」
 智己が考えることは分からない。だが他人に害は与えてないようだから、大丈夫なのだろう……たぶん。
 葉月はサッカー部から目をそらすと、自分の種目道具を片付ける作業に入った。
 ハードルの高さを何段か下げ、白い部分を抱えるようにして持ち上げる。
「佐藤」
 智己に呼び止められた。てっきり部員達とフィールド内に行ったと思っていたのに。
「陸上部ってあとどの位で終わる?」
「今日はタイム計るだけだから、あと三十分もしないと思うけど」
 それを聞くと智己は少し考える仕草をした。さっきまでのふざけた態度はすでに消えている。
「今日サッカー部も三時半には上がるんだ……そのあとで時間、いいか?」
「何?」
「ちょっと、相談っていうか」
 葉月は校舎の時計を見上げた。
 時刻は二時を回っている。智己からの相談というのも珍しい。
 でも……
 葉月は考えた。待つとなると一時間近く待つことになるだろう。
 本日所持金が少ないことを考えると、時間つぶしになる場所にも行けそうにない。かといってコンビニで一時間粘るのも気が引ける。
 あとは蒸し器になった部室や校舎で待つくらいだが、正直それは耐えられない。
 葉月は首を横に振るしかなかった。
「電話かメールじゃだめ? 暑くて待つ気力ない」
「じゃあ二百円やるから。これでアイスでも食べるか?」
 智己はジャージのポケットから百円硬貨を二枚、葉月に見せた。安いとはいえ、葉月にとってはおいしい条件だ。しかも食べ物が絡むとご褒美をもらったようで、この上なく嬉しい。
 更に、あとで新しいワキシューも買ってやるぞ、なんて言われたものだから葉月はあっさりと返事を翻してしまった。
「じゃ、また帰りにな」 
 智己は葉月に背中を向けた。フィールド内へと戻っていく。途中、何も無いところでけつまずいたので、ばあか、と冷やかしてみる。智己は後ろ姿のまま手を振った。
 葉月は硬貨を短パンのポケットの中に滑らせると、次のハードルを持ち上げる作業に入る。
 どんなアイスを買おうかとにやけ顔のまま頭を巡らすのだが――
 ふいに強い視線を感じた。
 細いピアノ線のような針が刺さったような感覚に、葉月は思わず体をひねる。最初に飛び込んだのは、くりくりとした目。それはまっすぐと葉月を見つめていたが、目があったとたんにそらされた。
 加山理恵だ。
 サッカー部のマネージャーを務めている理恵は今、部員が放り出したサッカーボールをカゴの中へ静かにおさめている。今はアップにしているが、髪はほどいたら背中まで届きそうだ。透き通った肌は、ニキビさえ見えない。ちょっとつまんだらマシュマロができそうな頬がとても柔らかそうだ。
 意を決したのか、理恵から近づいてきた。
 ほどよく潤った唇は真一文字に結ばれている。
「お疲れ様です」
 あぶれた後れ毛を直す姿は亜由美と違った色っぽさがある。顔立ちは中学生に見られてもおかしくないのに、仕草や体つきは葉月よりずっと女の子らしい。
「その……先輩は視力悪いわけじゃないんです」
 唐突に言われ、葉月はぽかんとしてしまった。
「コンタクト落としたの……実は私なんです」
「あ、そういうこと?」
 言われて、葉月はようやく意味を理解する。
「先輩は私をかばってくれたんです。でも、いつの間にか先輩のせいになっちゃって……本当にすみませんでした。だから田辺先輩のことを悪く言わないで下さい」
 理恵は深々と頭を下げた。
 どうやら視線の原因はそれ、だったらしい。理恵はまだ陸上部との間に溝があると誤解しているのだろうか。
 確かに智己が人をかばったのは意外ではあった。だがそれを自分にあやまられても困ってしまうというものだ。葉月も冷やかしはしたが、別に智己を責めたつもりはない。
「その……あたしは全然気にしてないよ。他のみんなだってあの時は部活さぼれてラッキー、って言ってたし。部長もそんなに怒ってないと思う。気にすることないよ」
「本当ですか?」
 理恵の大きな目がすがるように葉月を見つめていた。瞳の奥にあるひたむきさ。葉月は一瞬、自分の体を引きたくなったが、こくりと頷いてみせた。
「よかった……先輩、嫌われたわけじゃないんですね」
 理恵の緊張の糸がほどけた。葉月が浴びたものがはらりと取り除かれる。さっきまでが真剣な表情だっただけに、弾けた笑顔はとても可愛らしく、花が咲いたようだ。
「でも、陸上部の部長さんにはちゃんとあやまっておいた方がいいですよね。あとで改めて伺います」
 じゃあ、失礼します、そう言って理恵は智己の背中を追いかけていった。
 今まで心につかえていたのが取れたせいか、理恵の足取りはとても軽そうだ。それを見送ってから葉月は一度息を吐いた。
 何だかこっちの方が気を使った気がしてならないのだが……
「ま、いっか」
 葉月は姿勢を立て直すと、二つ目のハードルに取りかかる。一緒に重ねてから持ち上げた。
 トラックではすでに次の競技がスタートしている。
 陸上部の仲間達が一斉に走り出し、それを煽るようにサッカー部のかけ声も広がる。どうやらあっちも地獄のメニューが始まったようだ。
 野太い声をBGMに、ランナーはメリーゴーランドのようにフィールドの外側を何度も回っていた。

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