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 ホームに着地した葉月は先に降りた智己を追いかける。その手には特大サイズのワキシューがあった。
「田辺っ! これ弁償しろ」
「あ。じゃあこれで」
 智己がズボンのポケットから何かを取り出す。差し出したのは小さな袋に入った飴玉だった。変にしわになっているところを見た限り、だいぶ前から入っていたのか、さっき走ったせいで汗ばんだかのどちらだろう。
 智己はそれを葉月に押しつけた。
「これでチャラってことで」
「はぁ?」
「あ、同じクラスの奴発見。じゃあな」
「ちょっと待て!」
 智己は葉月からするりと抜けだし、あっという間にたくさんの人の中に埋もれてしまった。
 畜生。相変わらず逃げるのだけは速い男だ。
 葉月は口をへの字に曲げる。
 それでも――すきっ腹の葉月にとっては甘いものほど魅力的なものはない。
 仕方なく葉月は溶けた飴玉を口に放りこむ。空っぽになったスプレー缶を無理矢理バッグに押し込めるしかなかった。
 改札を抜け、駅を出る。
 この道は葉月達の通う学校はもちろん、先の海岸まで真っ直ぐに伸びていた。
 葉月は同じ方向に向かうバスを無視し、人と車に溢れた道を歩いていく。最初に迎えたのは商店街だ。ちぐはぐな高さの建物たちはこの時間、当然ながら閉まっていた。
 長さ百メートルほどのそこを抜けると街の景色はがらりと変わる。時々見られる更地には住宅分譲中ののぼりが立ち、人口の増加を促していた。
 この辺はもともと高速のインターが近いのもあるが、数年前この駅を含む私鉄沿線がJR直通となり、都心までの通勤時間が縮まったことが影響を及ぼしている。
 その反面、今度は一般道路の方が追いつかなくなった。
 今歩いている道は両方向ともバスや車で渋滞していて、学生のほとんどが駅から歩いている。そっちの方がバスよりも早いからだ。
 そう、生徒たちはこの三年間のうちに約二十分の距離に慣れていくのである。
 じりじりと照りつける太陽はゆっくりと生徒たちを燻製に仕上げていた。
 梅雨も明け夏は本番を迎えたようだ。周りからはちらほらと、油の乗った肌がほんのりと黄金色を見せていた。その一方で、海から流れる風は暑さに耐えようとする彼らの髪を優しく揺らしている。
 ちょうど半分の距離を歩いたところで、葉月は通り沿いにあるコンビニに寄ることにした。少し広めの駐車場を斜めに歩き、店内に入る。
 雑誌コーナーで思いがけない人物を見つけた。
「亜由美」
 葉月に呼ばれ、足立亜由美は読んでいたファッション誌から顔を上げた。
 長い漆黒の髪がさらり揺れる。雑誌から今抜け出したような顔は美人の系統だ。切れ長の目に乗ったまつげは綺麗な弧を描いていて、ほんのり色づいたグロスが実際よりも年上の女性を思わせる。
「おはよ葉月」
 艶のある髪が耳に引っかかり、のぞかせた銀色のピアスも葉月に挨拶をした。バラの香りが嫌みなく葉月の体に飛びこんでくる。
「おはよー、さっきの快速に乗ってたの?」
 亜由美はいつも十分後に到着する快速で通っているはずだ。この時間、ここにいるのは珍しい。
「今日は日直。同じクラスなんだからそれくらい覚えておきなさいよ。で? 葉月は今日も田辺と一緒の電車だったの?」
「そう。でも田辺の奴、私のワキシュー全部使いやがった。ひどくない?」
「レモンの香りか……男の柑橘系は微妙だな」
 葉月の匂いを軽く嗅いだ亜由美が口元をほころばせた。
「最近は男性も匂いに敏感だからね。私は賛成派だけど」
 亜由美が雑誌を閉じ、置いてあった場所へと戻す。
 二人は雑誌コーナーを離れると、店の奥へと向かった。
 今朝は買い物に来ている生徒もまばらだ。きっと今日が夏休みの前日だからだろう。
 生徒の大半は午前中のうちに下校してしまうが、葉月は午後から部活が待っていた。
 今日のお昼は何にしよう――
 葉月は並べられた商品をのぞき込みながら考える。
 今の季節は喉ごしがいい商品が充実していた。そばやうどん、冷し中華や冷製パスタ……それにおにぎりを合わせるのも悪くない。
 それとも王道で弁当にしてみようか。最近は栄養やカロリーを考えたメニューも揃っている。とはいえカレーも捨てがたい。
 でも……
 葉月は逆説を繰り返した。学校の教室にはレンジや冷蔵庫がないのだから、食べ物はその必要もなくて、物持ちするのを選んだ方がいいのかもしれない。
 だったらおにぎりや冷たい麺類ではなく、密閉されたパンの方が――
「葉月、聞いてる?」
「は」
 思わず間抜けな声を上げてしまった。
 葉月の頭の中はすでにお昼ご飯でいっぱいで、つい亜由美の話を聞くのを忘れている。
 そうやって一つのことに集中してしまうと、他のものが見えなくなってしまうのだ。
「やっぱりそうだ」
 亜由美は容赦なく葉月を小突いた。
「田辺もよく続くよね、って言ったの」
「何が?」
「駆け込み乗車。次の電車でも間に合うんだからそっちにすればいいのに」
 亜由美はちらりと葉月を見る。何か理由でもあるんじゃない? と勿体つけたように言う。
 だが、葉月には亜由美がそんな態度でいる理由が分からない。
 それよりも、少ない所持金で満足のいくお昼を買えるかどうかが葉月にとって重要なことだった。
「単に朝寝坊なだけじゃないの? あっ、それより見て見て。これ、すっごい美味しいんだよ」
 葉月は商品を手にしながらはしゃいでいる。その頭の中に、智己のことはすっぽり抜けていた。
「……葉月の頭の中は食欲とワキシューしかないのね」
「え?」
「なんでもない」
 亜由美がそっとため息をついていたのに、葉月は気づくこともなかった。

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