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1 ワキシュー

 死ぬ。
 このままだと絶対死ぬ。
 佐藤葉月は意識が途切れないよう、電車の扉に自らの頭をぶつけた。バカだ、と心の中でつぶやきながら。
 ごん、ごん、と強化ガラスからにぶい音が広がった。体を電車の扉にあてたまま床にしゃがみ、一回二回と深呼吸をくり返す。胸の鼓動はまだ十六ビートを刻んでいて、その下で胃がぐるぐると騒いでいる。
 バカだ。気づくのが遅すぎる。
 一体何をやっているのだろう。
 こんなことになるなら――パンぐらい口にくわえておけばよかった。
 葉月はがっくりとうなだれた。
 ……財布がないことに気づいたのは電車に乗った直後だった。
 いつものようにバッグを探っていると、見慣れた色がない。そして葉月はすぐに思い出した。昨日買い物をした時、商品と一緒に紙袋の中に入れてしまったのだ。
  一体どうしたものだろう。財布が――いや、金がなかったらお弁当はおろか飲み物さえ買えないではないか。それは困る。ただでさえ炎天下の夏日だというのに。もう電車は動き始めているのに。
 最悪なのは朝食を抜いてしまったことだ。このまま飲まず食わずのまま一日を過ごせというのだろうか。
 いやだ。それは絶対耐えられない。今だって目が回りそうだっていうのに。
 なんとか心音が四ビートに下がったところで、葉月は何か食べるものはないかとバッグをあさった。
 まず目に入ったのは女子高生たちが「ワキ(脇)シュー」と呼んでいる制汗スプレーだ。
 文字を見て、思わず喉が鳴った。
 レモン――確かに食べ物だ。とても惹かれる。
 でもこれは匂いだけを集めた偽物、さすがにガスを食べるわけにもいかないだろう。というより人間性を疑われる。
 葉月はかぶりを振るとあらためてバッグの奥へ手をしのばせた。
 ぐるぐると引っかき回してみるが、他には部活で使うジャージとタオルしかない。こういう時に限ってお菓子は不在だったりする。
 バッグの中にめぼしいものがないと判断すると、葉月は半袖と膝下十センチのスカートについているポケットに手をつっこんだ。ここはたまに小銭をつっこむことがある。
 そこにも携帯や定期入れはあった。が、携帯にクレジット機能なんてつけていないし定期入れにも金の気配は感じられない。
 やはり使い切ってしまったのだろうか。
 葉月はがっくりとうなだれる。
 あとは使ったこともない生徒手帳だけ。それもあまり期待が持てないだろう――
 葉月は半ば諦めかけていた。
「ん?」
 首をかしげた。気のせいだろうか、心なしか重い気がする。
 まさか――
 葉月は手帳を軽くゆすってみた。すると百円玉が数枚、手のひらの上を転がったではないか。
 無造作に入れたおつりたちは生徒手帳の隙間に間借りをしていたらしい。
「うお! やった!」
 突然の歓声に、今度は近くにいた何人かの体が揺らぐ。そこで初めて自分が注目されていた事に気づいた。
 失礼しましたと不特定多数に会釈をしてみるが、周りからは更に視線を逸らされてしまう。
 ……少しはしゃぎすぎたかもしれない。
 葉月は首をすくめた。
 ゆっくり立ち上がり電車の扉に上半身を預け車窓から朝の景色を臨む。見おろすと、高架線路と寄り添うように街路樹が連なっていた。
 若葉たちはさんさんと輝く太陽の恩恵を受け、艶やかな表情を見せている。その一方で夏の陽差しをよけようとする人々に向け優しい影を作っていく。
「――来た」
 木々の側を走る少年を見つけ、葉月の鼓動が再びテンポを上げた。
 見たことのある顔が一度電車を見上げ、更に加速する。
 葉月は腕にしているデジタル時計に手をかけた。
 高校の入学祝いに買ってもらったそれは、文字盤の周りが綺麗な流線型を描いていて、ストップウォッチとしても使える代物だ。葉月は目下を走っている少年が最後の信号機と重なった瞬間を狙ってスイッチを入れた。
 電車が少年をあっさりと追い越していく。葉月を乗せた細長い体も、やがて分岐点に入った。
 車両が駅の構内へ入り、停車する。
 目の前にあった扉が開き、人が動き始めた。下りだからすし詰めになることはないが、それでも座席は学生とサラリーマンで埋め尽くされてしまった。
 この電車は後から来る快速を先に追いやってから出発する。それまでの余白を葉月は流れる数字と過ごすことにした。賭けをしているようなドキドキ感が心地よい緊張を与えてくれる。
 しばらくして、ホームを挟んだ向かい側で、快速電車が通過した。
 追いつけなかった空気が風となって、スカートを揺らす。ショートカットと呼ぶには短すぎる髪は風にあおられたままだ。サイドに残ったくせ毛はすでに子鬼の角となっていた。
 電車の出発を伝える音楽が鳴り、突然階段付近が騒がしくなる。そこから顔を見せたのはさっきまで高架下を走っていた少年だ。少年は階段を昇りきると最後の一小節を残して車内にダイブした。
 足が扉の中へ入った所で葉月も腕に刻んでいた時を止める。
 ――数字を見て、驚いた。
 スタートの交差点から駅のホームまで正確な距離は掴めないが、ここ最近の計った中ではベストタイム。この調子なら葉月の所属する陸上部のエースといい勝負になるのかもしれない。
「田辺。大会前だけでもウチに来い。いい助っ人になれるぞ」
 葉月は飛びこんできた少年――田辺智己に声をかけた。
 智己とは一年の時同じクラスで去年の今頃は二人で委員もしていた。
 今はクラスが別々になってしまったが、毎朝同じ電車に乗り合わせる事が多く顔を見ない日の方が少ないくらいである。
 その智己はというと自分の体から吹き出た汗をハンドタオルで吸い取っていた。着ている開襟シャツは熱を持って汗ばんでいる。
 これがスポーツをした後なら爽やかにも見えるのだが、朝の電車内では見ていてもただ暑苦しいだけだ。
「相変わらず汗っかきだねぇ。着替えくらい持ったら? 乾いたら汗くさくなるし。ほら、脇の下だって濡れてる……って」
 まさかワキガ?
 葉月は一歩足を引いた。その気持ちを表情で悟った智己はそのぶん一歩、葉月に近づく。
 百七十二センチの等身大は葉月よりも頭ひとつ飛び出ていて、がっちりとした体もサッカーで鍛えた筋肉がほどよくついている。
 智己は大きく息を吸い込んだ。
「そういう佐藤も人のこといえないんじゃないのか? 実は俺みたいに駅までダッシュ、してるとか」
「ないない。勝手なこと言うな……」
「あ、寝ぐせ」
 咄嗟に葉月は短く切られた髪を何度もなでつけた。その数本が、途中でくねって目尻に襲いかかる。
 本当は葉月も毎日ギリギリの時間で電車に飛び乗っていた。制汗スプレーを持っているのはそれがばれないための盾で――
 葉月はかぶりを振った。
「あたしは田辺と違って規則正しい生活しているしぃ」
「本当かぁ? おまえ、汗くさい」
「嘘」
 電車に乗る直前、軽く吹き付けたはずなのに。
 葉月は思わず自分の脇に顔を近づける。柑橘系の匂いが鼻を刺激した。
 何だ、ちゃんと効いているじゃないか。
 ほっと胸をなで下ろす葉月だったが、その表情はすぐに変わる。
 バッグにしのばせたはずのワキシューが、ない。
 とっさに智己を見上げるが遅かった。レモン色の缶はすでに智己の手の中にある。
「返せ」
「いーじゃん。汗臭いよりはいいんだろ?」
「田辺がやるとキモいっ」
「ちょっと使わせてもらうだけだからさ、いいだろ」
 智己が自身の上半身に吹きかけようとする。
「ああっ!」
 葉月が智己の腕に掴みかかったその時、車内が揺れる。電車が再び分岐点に入ったらしい。
 片足が宙に浮き、葉月はバランスを崩してしまう。すぐにがっちりとした胸元が葉月の細い体を受けとめた。智己の左手は扉そばのポールをすでに掴んでいる。服越しに触れあったまま二人の動きが止まった。
「あっぶねぇ」
 葉月を抱えたまま、智己が呟く。
 何事もなかったかのように、電車が穏やかな運転を再開する。
 最初に葉月の目に飛び込んだのは湿った首。瞬間、汗の臭いがするかと思ったが意外としない。自分と同じ爽やかなレモンの香りがほのかに漂っているだけで――
「ん?」
 葉月の顔から徐々に血の気が引いてくる。智己の右人差し指の下で、涼やかな音は続いていたのだ。
 エアコンから流れる風に乗って、車内は柑橘系の香りで充満する。それはまさに収穫期の果樹園そのもので。
「離せバカ。ってか返せ」
「あ、やば」
 智己から離れた葉月は、やっとワキシューを取り戻すことができた。だが、缶を手に乗せた瞬間に違和感が走る。さっきより極端に軽いのだ。
 いやな予感がして葉月は一度だけ自分にスプレーする。案の定、ガスの間抜けな音だけしか残っていなかった。
「あ、全部使い切っちゃった?」
 智己の緊張感のない笑みに葉月の中にある何かがぶちんと切れた。
「信じらんないっ。今日はこれ一本で乗りきろうとしたのに!」
 怒鳴るのにもちゃんと理由はある。小学生の頃、葉月は初恋の人に「汗くさい」と言われたことがあって、それ以来、人前では神経質なほど匂いにこだわっているからだ。
 人が不快感を与えない程度の香りをまとうのにワキシューはちょうどいい。匂いはもちろん、細かい粒が空気に溶けていくさまやつけすぎて残ってしまう白いさらさらは雪にも似ていて、心を静かに冷やしてくれる。とても落ち着く。
 率直に言えば、ワキシューが一本があれば他の化粧品はどうでもいいのだ。
 葉月にとって、ワキシューは食べ物の次に大切な生活必需品。
 それなのに。
 お昼代だけで手持ちの金がない今日、新しいのを買う余裕もない。騒ぎを起こした当の智己はというと反省の色さえ見えない。それどころか、
「佐藤が暴れたからだろう」
 と言うものだから、今度は血の気が上がってしまう。
「その前にワキシュー盗った田辺が悪い!」
「その前に騙された佐藤が悪い」
「何をっ」
 突然他の乗客の咳払いが聞こえた。
 匂いにむせたのか二人の会話がうるさかったのか。両手でそれらを追い払う仕草は露骨だが、二人の言い争いを止めるには十分だ。
 冷たい視線に葉月はここが電車の中だと思い出す。
 やがてレモンの匂いに囲まれた車両は葉月達が通う学校の最寄り駅へと到着した。

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