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 第九章 浄化 ―joker―


 何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。


「ほら。ちゃんと見て!」
 rozeの両手が俺の耳を塞ぐ。

 俺の頭が右に九十度。
 回転するようにひねりも加えられた。
 それがあまりにも強引なものだから。
 ぐき。
 間接のずれた音が、頭蓋骨の中でやたらと響いた。
 強制的に目に映ったのは思いっきり白よりの、グレー色の床。
 倒れた温海の体。
 だが。


「え?」


 ぴくりと動いた黒い塊にぎょっとする。
 長い髪がゆっくりと立ち上がった。
 不本意だと言わんばかりの顔は恨めしい表情にひどく似ていて。
「どうして……」
 温海の問いと俺の驚きがユニゾンする。
 よく見ると、血が流れた形跡は服にも床にも……どこにもなくて。
「ね?」
 彼女の手から解放された俺は一歩前へよろめき。
 振り返った。
 rozeとユウキから見えた笑顔。
 その奥ではおじさんは、安堵のため息をついていて。
 そう、みんなは最初から知ってたような感じで。
 知らないのはのは俺と温海だけで……


 一体どういうことだ?


「ついでに言うと、あんたも人殺しじゃないから」
 は?
 rozeの言葉の意味が分からなくて。
 俺は最初、きょとんとしてしまう。
 そして言葉を一度頭の中でなぞって。
 理解してよけいに目に力が入る。
「どういうことだよ!」
 ようやく、疑問を言葉に出せた。
「見てて」
 彼女は床に落ちていたナイフを拾うと。
「えい」
 ためらうことなく鋭い刃先を俺の腕に突き刺した。
「えいって……おい――っっ!」
 俺の顔が一気に青ざめた。
 目が引きつり、顔が強ばる……
 が。
「え……」
 俺が受けたのは衝撃だけで。
 痛みどころか、血すら出てこない。
「? ? ?」
 rozeがナイフを引き抜くと、中で軋んだ音がした。
 それは錆びたバネが擦れ合ったような、そんな感じで。
 嘘だろ?
 このナイフ。


 押しつけた分だけ刃が枝に収まっている――?


「温海さんが倒れたあとに気がついたの。で、警察にいたおじさんに確認してもらったんだけど……」
「ちょ、ちょっと待った」
 俺はrozeの言葉を遮る。
 まだ、狐につままれたままだった。
 そんな……だったら。
「血は?刺されてないんだったら何で血が……?」
 あの紅は克明に憶えているというのに。
「あれは血のり。そうだよね、おじさん」
「ええ。ぶつかった衝撃で服の中に仕込んだ袋がはじけるように細工してあったと……警察の方が言ってました」
「つまり、おじいちゃんはあんたが刺した時は死んだふりをしてた、ってこと」
「な」


 俺はじいちゃんを殺していなかった……?


「じゃあ……」
 わずかな希望が期待を膨らませる。
「じいちゃんは生きているのか?」
 だが、それは一瞬のこと。
 おじさんは首を横に振った。
 声のトーンが少しだけ下がる。
「昨日のニュースは本当です。でも、原因は窒息死だって……」
 窒息死?
「犯人はこいつよ」
 そう言ってrozeが見せたのは。
 じいちゃんの大好物だった。
「五平餅?」
「おじいちゃんを調べたら喉から出てきたって」
「はぁ?」
 その、あっけない結論に。
 俺の頭がぐらん、と揺れた。


「まぁ、イタズラが上手くいきすぎちゃったから、うかれてうっかりって感じ? こう言うのも何だけど……あんたのおじいちゃんって悪趣味の上に相当な間抜けっていうか。はっきり言って、バカ?」
「結局、騙された私たちって……何なんでしょうねぇ」
 遠い目で語るおじさんに、
「呆れるどころか、僕、そのおじいちゃんに殺意を覚えたんだけど」
 ぼそっとつぶやくユウキ。
 食べる?
 rozeが五平餅を俺に差し出した。
 渡された五平餅はプラスティックのパックに入っていて。
 できたてなのか、温かさが手に染み渡った。
 みそと醤油の香りが鼻をくすぐる。
 それはじいちゃんがにっと笑った、あの夢の続きを見ているようで。
 ふっと想像がかき立てられる。
 もしかしたら。
 あの時、じいちゃんは「あの頃」に戻っていたのだろうか。
 だからあんなにも鮮やかで、大胆で。
 見事なたちふるまいを見せていたのだろうか。


 そんな、こと……


「はは」
 笑いがこみ上げた。
 床に手をつき、しゃがみこむ。
 子供だましに騙されたことがばかばかしくて。
 けど、ほっとして。
「よくないけど……よかったぁ」
 安堵のため息が、塩気を呼ぶ。
 殺めてなくて、よかった。
 でも逝ってしまった。
「じいちゃん……」


 ……誰かの気配を感じる。
 俺の頭をやさしくなでてくれて。
 rozeだった。
「まぁ……人殺しにならなくて、よかったじゃん」
 触れた手が心地いい。
 彼女の指先が、心の奥に絡まっていた蔓をほどいて。
 ずっとせき止めていた感情を引き出してくれる。
「……生きてて……よかったね」
「――っ」


 手をのばし、rozeにすがりついた。
 制服は病院の乾燥機で渇かしたのだろうか。
 クリーニングするしかない制服に。
 かすかに残る、雨の匂い。
 その奥にあたたかいぬくもりがある。
 それは彼女が生きている証。
 俺が生きているという、真実――
 彼女は嗚咽する俺を静かに受け止めくれる。
 溢れる涙が、止まらない。


「……ひとりはいやだ」
「うん」
「でも……生きたい」
 生きよう。
 rozeの言葉が、俺の中にある負の感情をゆっくりと浄化していく。
「……いいヤツだって、分かっているから。絶対幸せになれるって……信じてるから。生きて――諦めないで」
「roze……」


 抱きしめた腕に力がこもる。
 この手を離したくなかった。
 徐々に引いてくる涙の波。
 高鳴る心音。
 ……やばい。
 俺ってば、本気でrozeのこと――?


「だったら、ずっと……そばにいてくれる?」
 俺は告白のつもりで問いかけた。
 見上げた先のrozeは、大きな目をぱちくりとさせていて。
 言葉を理解したのだろうか。
 何度も瞬きをしていた。
 そして、考える仕草をしたあとで。
 答えを口にしようとする。
 だが――


 つんざくような笑い声が、それを止めた。


 病院に響き渡るその声は。
 この世の中の全てをバカにしているようで。
 泣いてるようにも聞こえる。
 笑っていたのは――温海。
「阿呆らしい。で? 結局みんな生きるわけ?」
 そう温海は問いかけ、
「でもそんなの……どうでもいっか」
 すぐに言葉を投げ捨てる。
「ま、みなさんはせいぜい頑張って生きなさいよ」
 投げやりな励ましは、自分を更に追いつめるための虚勢のように思えて。
 息を呑んだ。


 彼女の意志は、まだ変わっていない――


「温海さん」
 俺はrozeの手から離れた。
 立ち上がる。
「誰も死ぬ必要、ないじゃないか。温海さんも何も悪いことしてないじゃないか」
 そう。
 この中で温海の闇を知っているのは――俺だけ。
「だってそうだろう。遺書も嘘だって……本当は無実で、利用されただけだって!」
「……だから何? 他に方法があるとでも?」
「それは……」
 ああ、やっぱり浮かばない。
 困ったような顔をする俺に。
 ふっ、と。
 温海が笑った。
「責任なんて感じることないわ……これが私の望みなのよ」


 そう言って、温海は起きあがろうとするけれど。
 何かが引っかかったような感覚に、振り返る。
 側にユウキが立っていた。
 その手は温海の服をしっかりと掴んでいて。
「こんなのイヤだ」
 それが温海の動きを止めている。


「みんなで生きなきゃ。死んじゃダメだよ」


 はっきりと拒否を示したユウキは。
 昨日キレた時と様子が違った。
 強い、落ち着いた口調は今まで聞いたことはなくて――
 一体、どうしたんだ?
 温海も一度、きょとんとした顔をしてしまう。
「……今更何を熱くなっているの? あんたに私を止める理由なんて」
「あるよ!」
 ユウキは一度うつむいて。
 僕は、と言葉を紡いだ後。
 キッと睨みつけるように彼女を見た。
「温海さんが好きだから。だから止める!」
「は……」
 不意打ちの爆弾にこっちが面食らってしまう。


 何ですと?


               
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