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 彼女はまだ、諦めてはいなかった。
 不意打ちだった。
 温海は俺のわきを通り抜け。
 ひったくるようにバッグを抱え込む。
 その中から透明なビンだけを選び、他はあっさりと捨ててしまう。
 ――こっちは睡眠薬
 昨日のセリフが脳裏をかすめた。
 その間にもビンの蓋が開いてしまい、真珠の粒が、彼女の手のひらを白く変えていき……
「させるかっ」
 彼女の手が口元に運ばれるよりも先に、足が動いた。
 車を蹴った方が一瞬だけ、痛みを伝える。
 でも。


「やめろ!」


 俺は温海の手をはたくと、睡眠薬の入ったビンを取り上げた。
 白い粒がはらはらと落ちていく。
 勢いに任せたまま、俺はビンごと窓の外へ放り投げるが。
 その前に引かれていたカーテンに阻まれた。
 すべり落ちたビンが砕け、錠剤が床にこぼれていく。
 それでも、温海の手がそれを掴もうとするものだから。
 今度は水差しをそこ目がけて叩きつけてやった。
 二種類の破片が光を跳ねていく。
 きらきらと輝かせながら。
 水差しに閉じこめられていた水が一気に溢れた。
 錠剤が温海から離れたところへ流れ。
 あっ、と温海の声が詰まり。
 彼女の厳しい顔が上げるのと同時に。
 死をいざなう凶器たちが温海の手に渡らないよう、俺は破片の前に立った。
 一歩も通さないつもりだった。


「何てことするのよ!」
「だめだ! こんなこと……」
 俺ははっきりと拒否を示す。
「温海さんは生きなきゃ。生きて……償ってよ」
 俺も一緒だから。
「できることがあったら何でもするから!」
 しかし。
「あんたに何ができるというの?」
 低く、冷たい声が俺を跳ね返す。
 温海の引きつった顔が、そこにあった。
「……あんたが脳に障害を持った人間をを治してくれるの? 元に戻せるっていうの?」
 予期せぬ問いかけ。
 彼女の抱えている問題に、俺は。
 具体的な答えなど、すぐには出せなくて。
 感情論で喋った自分が浅はかだったのかもしれない。
 でも、なんとかしたいと思った気持ちに嘘はない。
 温海を助けたいと思ったから。
 だから……
「俺は――何にもできないかもしれない。でも……」
「気持ちは分かるから? 大丈夫だともいいたいわけ? 自分がついているからがんばれとでも?」
 思いついた言葉を先に言われてしまい、困惑する俺。
 は、と気の抜けた笑いが温海からこぼれる。
 その瞳が鈍く光った。
「言葉だけの励ましなんて……当事者じゃないから、自分が私よりまだマシだって、そう思うからできるのよ。単なる同情。実際の苦しみなんて……ちょっと知っただけの傍観者にわかるわけがない!」
 温海の言葉は残酷な現実を見つめていて。
 当たっているのかもしれない。
 でも、だからこそ。
 何かを言わなければと思ってしまうのは……俺だけだろうか?
 なのに。


 俺はかけるべき言葉を探し続けたままだった……


 温海とのにらみ合いは終わらない。
 時間が経つにつれて強ばる表情。
 無言の重さ。
 奥深くへと沈んでいく、答え――
 しばらくして。
 ドアをノックする音にびくっとした。
 俺の中の時間が動き出す。
 温海も、引きつったままの顔を戻すしかなかった。
 そして。
「あ」
 ドアが開かれた刹那に漏れた声。
「……気がついたんだ」
 髪をアップにしたrozeがそこにいた。
 聞き慣れた舌ったらずの言葉には、戸惑いが含まれていた。
 その後ろにユウキとおじさんがいる。
 でも、俺は本能からか、緊張感を緩められずにいた。
 気まずい空気。
 でも。


「あーよかった。気がついたんですねー」
 この時ほど、おじさんの脳天気さが救いになったことはない。
「最初心臓止まった時はびっくりしましたよー」
「あ、ああ……うん」
「でも生きかえってよかったぁ。もう、温海さんのおかげですよ。応急処置バッチリだって、お医者さんも誉めてたそうじゃないですか」
「まぁ、ね」
 素っ気なく言葉を返す温海。
 彼らは(と、いうよりおじさんは)俺たちの間に何が起こったのかを知るよしもなかった。
「いやぁ。私もパトカーとカーチェイスなんて初めてだったからドキドキしちゃいましたよぉ……結局、捕まっちゃいましたけどね」
「そっ、か。やっぱりみんな……警察……行ってた、の?」
「ええ。でも私だけですよ。スピード違反の切符切られに……ああ。もちろん自殺がどうのとかは話してないですから安心して下さい。 まぁ、例の事件の話もでましたけど、私管理人さんのこともバラしてませんし。あくまで『事故』で運んだんだと言い張っておきましたから」
「……そう」
 俺はおじさんの心遣いに、少しだけ安堵する。
 少年少女は、口を閉ざしたままだった。
 二人とも俺の方を見ないようにしているのか、ずっとうつむいていて。
 固まったまま、動かない。
 その反応にちょっと胸が痛んだ。
 でも。
 俺は忘れないように、肝心な言葉を彼らに伝えようと。
「その、ありがとうというか……ごめん」
 俺は深々と頭を下げた。
「俺、すっげー酷いこと言って、みんな傷つけてるし……なのに助けてくれるなんて……本当、申し訳なくて」
「管理人さん……」
「俺、自首することにしたから。罪を償うよ……本当、迷惑かけて、すまなかった」
 ごめん、二度目の謝罪の言葉を、俺は自分自身にも刻みつけた。
 きっと、ここを離れたら、俺は塀の中で。
 彼らには一生会えないかもしれない。
 だから、これだけは言いたくて。
 伝えたくて。


               
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