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 第七章 償い

 目の前が真っ暗だった。


 ここはどこだろう。
 と、いうより。
 今まで自分は何をしていたのだろう?
 一生懸命考えを巡らすけど。
 ……思い出せない。
 おかしいな、自分はここにいるはずのに。
 記憶がないなんて……


 ぐるりとあたりを見渡す。
 闇だけが広がるこの世界には。
 自分以外、誰もいなかった。
 人の気配すらない。
 ひとりぼっちだった。
 なのに。
 淋しさも、不安も。
 恐怖すら沸いてこない。
 まるで自分が冷たくて、人間以外の何かに変わってしまったような。
 そんな感じで。
 ただ、体だけが羽のように軽かった。


 ……そうか。
 これは夢、なのかもしれない。
 でなかったら。
 記憶がすっぽり抜けることなんてないはずだ。
 こんな世界にいるわけがない。
 目を覚まさないと。
 夢なら、早く目覚めなくちゃ。
 早く……早く。
 ………


「今更何しに来た!」


 突然、誰かに怒鳴られた。
 はっとする。
 目を開けると、「僕」はケーキの入った箱を抱え、畳の上に座っていた。
 箱の横にはビニール袋に入ったロウソクが全部で十二本貼り付けられていて。
 そうだ。
 今日は僕の誕生日。
 「父さん」と「母さん」に連れられて。
 初めて「じいちゃん」の家に来たんだっけ。
 僕はあらためて思い出す。
 目の前にたたずんでいる、今住んでいるアパートより、前の家よりもずっと広い、畳の部屋ばっかりの家。
 初めて見るじいちゃんは、客間で眉の間にシワをたくさん作っていて。
 はっきり言って、鬼のようだった。
 何故、こんな所に来たのだろう?
 僕の誕生日なのに……


「この後に及んでまだ生きていたとは……ああやだやだ。ムシズが走るわ! 生き恥さらすならとっとと死ねと言ってるだろうが」
「……相変わらず息子に優しくねぇジジイだよな」
 父さんは苦笑する。
 何故か、安心したような、そんな顔で。
 それが気にくわないのか、じいちゃんは更に顔を赤くする。
「何が息子だ! 母親の葬式も出なかったくせに。金の無心か? それともこの家乗っ取って、わしを老人ホームにでもぶちこむか?」
「……言っただろ」
 父さんは僕をちらりと、見た。
「俺の息子の誕生日位祝ってくれ、って。あんたにとっちゃ初孫なわけだし……」
「は。孫をダシにして今更親孝行か? わしゃ騙されんからな」
「勝手に言ってろ……今日は泊まるからな。二階の部屋、借りるから」
「ふざけんなっ。金は一銭もやらんからな! でもって、泊まるなら宿代出せ! それから……っっ!」


 瞬間。


 ひゅうという音がじいちゃんの喉から発せられる。
 一気に怒りを爆発させたせいで、変な呼吸でもしたのだろうか。
 老いた体がくの字に曲がる。
 じいちゃんは手で口を覆い、げほげほと派手な咳をした。
 その咳き込みが尋常に思えなかった。
「おい!」
 一番近くにいた父さんがじいちゃんの背中をさすろうとする。
 が。
 ごふっ。
 じいちゃんの口から何かが吐き出された。
 床に転がる。
 赤いぶよぶよとした「それ」は学校の人体模型で見た、心臓の形に似ていて。
「うわあっつ!」
 僕は思わず悲鳴をあげてしまう。
 そのリアクションに、
「ひゃっ。引っかかりおった」
 背筋を伸ばしたじいちゃんが笑う。
 と。
 手のひらが、禿げた頭ををすくうように後頭部から前に、抜けた。
 今度は入れ歯が、畳に向かって吹き飛んでいく。


「おいジジイ! くだらねぇバカやってるんじゃねぇよ! こっちがびっくりしたじゃねぇか!」
「てふぇ! ほひゃひふはっへはひぼほがぁ! (てめぇ! 親に向かって殴るなんて何事だ)」
「うるせぇっ! 人間として言ってるんだ」
 ぴしゃりと言い放つ父さんに。
 入れ歯を含み直したじいちゃんは、はん、と息をまく。
 にやっと笑う。
「そう簡単にくたばってたまるか。わしゃ、てめえらが死ぬまでピンピンしておるわい」
「……」
 斜め四十五度から覗かせる憮然顔。
 父さんの手がじいちゃんから離れ。
 偽物の心臓は、どこかで見たような木細工の箱へとしまわれた。
「二度とこんなバカ、子供の前で見せるんじゃねぇぞ……」
 そのまま、父さんは荷物を置きに行ってしまった。
 その後ろ姿が不思議と気になった……僕。
 どうしてだろう……胸騒ぎがする。


 父子のいがみ合いにやれやれ、と苦笑したのは母さんだ。
「話には聞いてましたが……仲悪いですねぇ……」
「あんたも早く別れた方がいい。あいつといるとロクなことにならんぞ」
「……でも、彼本当は優しすぎるんですよね……それはお義父さんが一番知っているんじゃないんですか?」
 けっ、と言葉を吐き捨てるじいちゃん。
「その同情が命取りなんだよ」
「かも、しれませんね……」
 母さんの笑み。
 僕に二度目の胸騒ぎが、広がる。
 でも、それを打ち消すかのように母さんは、
「冷蔵庫、借りますね」
 ケーキの箱を持ち、席を立った。
 僕だけ、部屋に取り残される。
 ふと、じいちゃんと目が合った。
 僕はさっきの悪戯を思い出し、頬を膨らます。
 一方、自分への憎悪を感じ取ったじいちゃんは、俺を面白がっていて。
「ひゃひゃ」
 妙な声で笑う。
 口元に何かがついていた。
 俺はその香ばしい色合いが、何故か気になって。
 どうしてだろう、初めて嗅いだ匂いなのに。
 懐かしいと、僕の体が感じているなんて……


「おまえの顔はあいつの小さい頃そっくりだなぁ……」
 お茶を口にしながら、じいちゃんがぼやいた。
 それがイヤミのように聞こえて、僕はじいちゃんを睨みつけるけれど。
 息を呑む。
 ふっとうつむいたじいちゃんの顔。
 そこに優しい目があったからだ。
「でも性格だけは似てほしくないなぁ……」
 その一言が、僕の中で何かを呼び起こした。
 どうしたんだろう?
 苦しくて、悲しくて……でも嬉しくて。


 溢れる感情が、止まらない。


「おまえ……どうして泣いているんだ?」
 言われて、初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「何だ? わしがあいつを虐めたからか?」
 僕は首を横に振る。
「わかんない……でも」
 じいちゃんに、謝らなきゃならない気がした。
 僕は訳のわからない切なさに耐えきれなくなってしまい。
 顔をくしゃくしゃにする。
 じいちゃんの胸の中で僕は何度も謝っていた。
「ごめんなさい……僕、僕っ……」
「……わしこそ悪かったな」
 しわしわの手が頬に触れる。
 気が付くと、さっきよりも年を重ねた顔が微笑んでいる。
「そもそもおまえは……」
 その時だった。
 体の中から何かが抜ける。
「あ」


 意識が……飛ばされる!


 だめだ。
 「俺」、は。
 ここにいなければならない人間、なのに。
 俺は必死に抵抗する。
「じいちゃん!」
 必死でじいちゃんを掴もうと、手を差し伸べる。
 でも。


「また……いつか」


 そう言ってじいちゃんが手を振った。
 後ろで父さんと母さんが、笑っていた。
 周りだけがもの凄いスピードで流れていく。
 更に加速し。
 彼らがあっという間に豆粒くらいの大きさになってしまう。
 生きろ。
 生きて。
 生きるんだ。
 彼ら言葉が、体の中を駆けめぐり。
 懐かしい声は、歪んで、色を変え。
 つい最近、知ったばっかりの声へと変わっていく。


 目を覚まして。
 逝くな。
 死ぬんじゃない。
 ――生きなさい。


 ああ、そうか。
 俺……は……
 意識が遠のく。
 今度こそ、覚醒する。
 そして。


 瞳に光が――差し込んだ。


               
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