第五章 最初の犠牲者(T)
事態は最悪の方向へ進んでいく。
暗闇が視界を埋める。
どこに行ったのだろう?
俺は踵に重心を置き、ぐるりと一回転する。
すると。
黒い頭がふたつ、藍色の空にゆらめいた。
乳白色のガードレールの上。
俺から逃げようとした少年少女が、いる。
アスファルトの上は車ですぐ追いつかれる。
ガードレールの向こう側に入れば、そうそう追いつかれることはない。
二人はそう考えたのかもしれない。
でも、その先は……
「やめろ!」
俺は二人を砦から引きはがそうとする。
「来ないでよ!」
まだ登りきっていないユウキが、振り向きざまに叫んだ。
右手に振り回しているのは……さっき、俺の車にあった。
血のこびり付いたナイフ。
いつの間に!
「来たらこれ、振り回すから」
武器を持った少年の手ががくがくと震えている。
俺は動きを止めるしかなかった。
両手を挙げ、降参の意を示す。
一歩引き下がる。
「……わかった。これ以上は近づかない。動かないから。そこから降りてくれないか?」
「イヤだ!」
「本当、何もしないから。そこは……とても危険なんだ」
俺は冷静さを失ったユウキを努めて刺激しないように。
「あの、さ」
「何だよっ!」
「暗くてよく見えないけど……その下、崖だから」
「え?」
「落ちたら十メートルは転がる絶壁、だから」
「絶壁……?」
ユウキがチラリと下をのぞく。
ごうごうと不気味な音を立てる闇の穴は子供達を手招いていて。
「うそぉ……」
ユウキの口から間抜けな声が上がる。
「だ、だったら先に言ってよ!」
今更という感じに責任を押しつけられる俺。
何だか緊張感が一気に緩んでしまう。
おいおい……先に登ったのはそっちだろうが。
一方、ガードレールの頂上で待っていたrozeはというと。
ちらりと崖下をのぞき、少し間を空けた後で、
「ユウキ。ここから飛び降りるわよ」
俺の忠告をあっさりと無視する。
「ええっ!」
「ええっ、って。それしか方法ないでしょうが」
「だって、絶壁だよ。十メートルだよ? 落ちたら……痛そうじゃん。てか、死んじゃうよ」
「何言ってるの?コイツは殺人犯よ。コイツの言うことなんて信じられるものですか。この先絶壁だってのもきっと嘘よっ! あたしたちを油断させるための罠なんだから」
「え?そうなの?」
目で問いかけるユウキに、俺はぶんぶんと首を横に振って否定するが。
「……怪しい」
ユウキの手のひら返しに思わずがくん。
「今更取り繕ったって遅いっての」
更にrozeの毒が俺の心にストライクを決めるものだから。
俺の心の中に慟哭が広がってしまう。
もう、一体どうしたら信じてもらえるのだろう?
何だか泣きたくなってきたぞ……
「ほら、早くここに登りなさいよ。それからそんなぶっそうなものは、とっとと捨てる」
rozeがユウキの手首をぶっきらぼうに掴んで引き上げる。
「ひえっ」
ユウキの情けない声、ちゃりんと、金属が落ちる音。
固く握りしめられた手に、ふっと悪寒がぶり返す。
「ま、待てよ」
砦の頂上、俺の引き止める言葉を無視し崖側に足を向けて座る彼ら。
「おい、ってば」
戸惑う俺を少女が捕らえた。
その瞳は何故か笑っているように見えて。
全て覚悟の上だと思うと、鳥肌が立ってしまった。
そして、次の瞬間。
手を繋いだまま。
彼らは空高く、飛んだ。
それはひな鳥が初めて羽ばたく日のように、ぎこちないものだった。
垂直に落ちた体と、置き去りにされる制服の残像。
少年の絶叫。
こっちの息が止まりそうになる。
思わずガードレールに飛びついた。
だが、もう……
間に合わない。
それでも俺は白い砦に足をかけた。
二人の姿を探すために。
ガードレールの頂上に頭を乗せた俺。
いくら目が慣れてきたとはいえ、まだ夜だ。
崖の先は暗くて何も見えない。
見つけられない。
ザワザワと騒ぐ音。
膝ほどの間を伸びた草がドミノのように揺れていて。
それがふたりの存在を消し去ってしまう。
マタ、オレヲオキザリニスルノカ?
ふと、記憶に残る言葉がよみがえった。
闇に消えた少年と少女が。
しっかりと繋がれた白い手が。
心の奥にしまってあった箱を開ける。
絶望と、哀しみと。
苦しみが混在した……あの刹那のことを。
「そんな……」
オレハマタ、タスケラレナカッタノカ?
「そんな……そんなわけ……」
デモ、モウゼツボウテキダヨ。
心の奥で、誰かがねっとりとした声で囁く。
地面に飛ばされたナイフが、生気を失ったように、だらしなく寝転がっていた。
それが、今消えてしまった彼らを見ているようで。
俺は壁から降りた。
「それ」に近づく。
拾って初めて、悲しみと、悔しさが襲いかかる。
俺が、追いつめた……せい。
俺が、俺の存在が。
ナイフを強く握りしめる。
しゃがみこんだまま、動けない。
と、その時。
ちかっ。
左目の方だけ、「何か」がうごめいた気がした。
何だ……今の?
俺は見た方向へと近づこうとする。
が、動く前にまた……視界で何かが動いた。
それはガードレールと地面の隙間を埋めていて。
どこかで見たような、白っぽい影で。
? ? ?
気になった俺は地面に腹這いになり、ガードレールの隙間に首だけ突っ込んだ。
この先、俺は絶壁だけかと思ったけど。
実際は違った。
地面から60cm下の間だけ、コンクリートの世界が広がっていたのだ。
崖沿いに用水路を縦半分に割ったような、L字型のブロックが並んであって。
「L」の下の部分はちょっとした屋根の「ひさし」のようにになっていて。
幅は俺の靴のサイズほど、だろうか。
途中、ガードレール支柱の延長が一定間隔で出っ張っいる。
邪魔ではあるが、支柱にしがみついて動けば乗り越えられなくもない感じだ。
「……まさか」
俺は、羽ばたく直前の、「彼女」の仕草を思い出す。
俺は首をぎこちなく動かした。
すると森側に三メートル。
足下を確認するように、下の崖は見ないよう山側を向いて足を動かす、からだがふたつ。
rozeと……ユウキ!
ユウキを心配して振り向いたrozeと。
ふと、ガードレールの隙間から首を突っこんだ俺と目があった。
彼女はげ、とつぶやき、俺の視界からすぐ消える。
そこは崖っぷちと森の境界線。
rozeは、ユウキの手を引いて、わずかな平面を頼って。
逃げた。
「わっ、待って……」
俺はあわてて、地面に這った体を起こそうとするが。
がん。
支柱に張り付いたレールに思いっきり後頭部をぶつけてしまった。
目の前に一瞬、星が瞬く。
涙がにじんだ。
少しだけ、嬉しさがこみあがる。
……よかった。
rozeのフェイントなんてなんのその、俺は心から安堵するが。
ややあってはっとする。
俺の置かれた立場を今になって思い出した。
まずい。
このまま二人がおじさんや温海のもとに戻ったら。
俺の計画がおじゃんになるではないか。
今のうちに……口止めしなくては。
もちろん、内緒にしてもらえるよう、頼むだけだが。
俺は今度こそ立ち上がる。
すでに少年少女は崖っぷちの難所を乗り越え、森の中に姿をくらましてしまった。
でも、行く場所はひとつ。
俺はナイフを手にしたまま、二人を追いかける。
ガードレールが一段になったところで、乗り越える。
来た道を一気に走った。
三度目はもう慣れた道。
踏み荒らした道を全速力で走り抜けた。
段差を飛び越える。
生暖かい風が追い風となって後押しする。
焦りが、じわじわと追いかけた。
あと少しなんだ。
せめて、最後くらい俺の望みを……
だが。
それでも二人の背中を捕らえることはできなかった。
次に彼らの姿を確認できたのはゴール地点。
ワンボックスに乗り込む瞬間。
遅かったか?
俺は木の陰にかくれると、舌打ちをする。
と、思ったのもつかの間。
「ぎゃあっ」
間髪入れず、二人の悲鳴が聞こえた。
再び、車から飛び出すrozeとユウキ。
一体、何が起きたのだ?
|