迷わず運転席から乗り込んだrozeは。
助手席に座った俺の指示をしっかりと聞き取って。
差し込んである車のキーをひねる。
一発でエンジンがかかった。
rozeがギアをD(ドライブ)に合わせ、手元のサイドブレーキを降ろした。
アクセルペダルをゆっくりと踏み込んでいった。
動くタイヤ。
フロントガラスについた吸盤のお守りがぶらぶら揺れる。
「きゃーっ、動いたーっ。面白ーいっ」
rozeは初めての運転に興奮しているようだが。
俺は苦笑する。
教習所の教官の気持ちが今になって分かった。
助手席にもブレーキペダル、つけておくべきだっただろうか?
まぁオートマだから、どんな人間に対しても運転しやすいとは思うけど……
夜の山道を相棒がのらりくらりと走っていく。
登りで、曲がりくねった道だからスピードはそうそう出せるものではないけれど。
rozeの運転は初心者にしてはマシな方だった。
スジがいいのかもしれない。
あっという間に車は広い場所にたどり着く。
そこは田舎に作られた小さな観光スポット。
昼間なら自然のパノラマを楽しめる展望台だ。
rozeは自販機のそばに車を近づけるが。
機械が右側にあるのに、わざわざ時計回りに一周して、止まった。
「さあって、何にしよう」
彼女はブレーキペダルを踏んだ状態で。
俺の向こう側にある自販機のメニューを見る。
「うーん、炭酸もいいけどなぁ……コラーゲン入りってのも惹かれるし……」
rozeは土にまみれた財布を手に、ちょっと考えるような仕草をしたあと。
俺をチラリと見た。
悪いんだけど、と前置きしてから、
「管理人が行ってきてくれない? おごるから。ね?」
買い物を俺に押しつける。
俺は思わず苦笑してしまった。
やっぱり。
彼女は、ここから逃げようとしている。
「別に……こんな姑息な手段使わなくてもいいんじゃない?」
「え?」
rozeに緊張が走る。
俺はわざと間をおいたあと、
「ここから逃げるんだろ。俺が外に出た隙に」
男の低い声に、少女の目が見開いた。
小銭が音を立て、車内に消えていく……
「な、なに言ってるのかなぁ?」
「そのでっかい財布。逃げるならある程度金があった方が安心だよなぁ……」
食事が終わるまで、ずっと車内にあった財布。
他人が側に居ても気にも留めなかったのに。
貴重品は手元に置きたいと言ったroze。
「卑怯者」
つい意地悪を言ってしまった。
でも、それは自分に対して言っているようなものでもあって。
彼女はうろたえている。
そのオドオドした顔は、数分前の自分に似ていて。
最初に見た強気と、ギャップありすぎで。
「ぶ」
こんな自分は不謹慎だと思った。
本人は必死なのに。
けど。
俺は思わず口元に手をあてる。
やばい。
笑いが止まらない。
もしかしたら、俺自身が完全に壊れたのかもしれない……
俺の様子に何かがおかしい、と気づいたのか。
rozeはいぶかしげに俺を見ていた。
「な、に……笑ってるのよ」
「いや。マジでビビってるから。冗談なのに」
俺は必死で笑いをかみ殺すと。
rozeの顔が赤みを帯びた。
「……性格悪っ」
「それはそっちだろ」
「……」
笑いを十分満足したところで、俺は顔を引き締めた。
自分から、空気を現実に戻す。
「別に止めやしないよ」
自分でも驚くほど落ち着いた声で、言った。
そう。
俺の中で答えは最初から決まっていたのだ。
俺はカーナビのリモコンに手を伸ばした。
「な……何してるの?」
「ナビ設定。駅まで案内してくれるから。今なら終電に間に合うだろ?」
メニュー画面から<目的地をさがす>を選び、ゴールをこの近くの駅にする。
近くっていっても……20km先だけど。
rozeはしばらく黙り込んでいた。
警戒しているのかもしれない。
でも。
「本気なの?」
彼女はわずかな希望にすがりついた。
俺の口元から笑みがこぼれる。
ごく自然に、素直に。
「じゃ行こう。車、出して」
俺はrozeを促す。
登ってきた道を、今度は逆方向からトレースする。
「ナビに従って運転するんだ。もし、警察に聞かれたらこの車はA町に放置されてたって言ってくれ」
もっとも……駅に着く前に警察に捕まる確率の方が高いのだが。
A町は隣町でこの山からはるか離れた所にある温泉街。
敷地も広く観光客もいる、警察の目をそらすには十分だ。
聞きこみが始まれば、命を落とすまでのいい時間稼ぎにもなるだろう……
それでも駅に着いたら車を捨てろと念を押しておいた。
話の中に警察、という言葉が出た時rozeは、ん? というような顔をしていたが。
それでも素直に頷いてくれた。
とてもいい子だ。
「あとは、さっきの場所で、俺を降ろしてくれればいいよ」
「……逃げないの?」
「俺は逃げないよ。あの人たちもいるし」
逃げたとしてもいいこともない。
「そっ、か」
rozeの声のトーンが少しだけ下がる。
……別れの場所まで、あと300mを切った。
「ごめんなさい」
彼女は目の前に続く道を真っ直ぐ見据えながら謝った。
通りすがりの外灯が横顔を照らす。
申し訳ないような表情は、死から背く罪悪感を背負っていたのかもしれない。
「それでいいんだよ。生きたいと思ったのなら、それで……」
rozeが唇を噛む。
最後の別れにちょっとだけしんみりとした、その時。
ラジオもつけていないのに軽快な音楽が流れる。
携帯が電波を拾ったのだ。
「うそ」
さっきのしんみりが嘘だったかのように。
rozeの目の色が変わる。
ぐおん、とエンジンが唸る。
rozeのそばにある「交通安全」の文字が大きく揺れ。
あれよあれよという間に別れの地点を素通りしてしまった。
え、と驚いたのは俺。
穏やかだった気持ちに波が立ち、あっさりと呑み込まれてしまう。
着信音はすぐに止んでいた。
rozeはハンドルから右手を離し、スカートのポケットを手探りするが。
うまくつかみ取ることができないらしい。
しかも、ハンドルを握ったまま視線を落とすものだから、俺の方が慌ててしまった。
「わ、ばかっ! 前っ! 前見ろって」
「だって携帯、メールが……」
「運転中の携帯使用は禁止だって。ってか、振り向きざまにハンドルを動かすな」
身を乗り出し、なんとかハンドル手にしてを元に戻す俺。
速度メーターを見てぎょっとする。
ゆうに60キロを超えているじゃないか。
そういえば、さっきアクセルを踏む音が……したような。
この速さ、平坦な道だったら何て事はないのだが。
起伏の激しい山道、しかも初心者にこれは殺人的だ。
しかも。
「げ」
目の前にカーブが見えた。
そこは俺が最初に車を止めた場所から50m下ったところ。
二段に連なったガードレールが俺の相棒を迎え。
ライトに照らされた乳白色にぎくりとする。
やば、ここって……
ガードレールの先は草に隠れた絶壁。
地元の人はここを走る時、いつも以上に慎重になる……つまりは事故の名所!
まずい、これは非常にまずい。
「おい! 左側の、おっきいペダルを踏め!」
「え?」
「今ここで死にたくないならブレーキ踏めって言ってるんだよ!」
俺はありったけの声で叫んだ。
自分だけならともかく、彼女を巻き添えにしたら後味が悪すぎる!
rozeがブレーキペダルを思いっきり踏んだ。
俺は側にあったサイドブレーキを、めいっぱい引き上げる。
アスファルトとタイヤが擦れる音。
俺は体が前のめりになるのを必死でこらえる。
背もたれに背中を押しつけるroze。
「きゃああああ」
恐怖の悲鳴がレクイエムのように車内を響かせる。
俺はシートベルトを外すと、彼女からハンドル奪い、思いっきり右に切った。
車体が傾く。
遠心力。
後輪が滑り。
そして。
ガードレールに、後ろのバンパーが軽くこつん、と鳴った。
完全停止。
自殺から逃げたい少女と。
2年連れ添った相棒の命がつながった。
「よかった……」
サイドブレーキが脇についていたおかげだ。
これがフットブレーキタイプだったら……どうなっていたことか。
俺は深いため息をつく。
俺は上半身を起こすと、rozeの様子を伺うが……
「!」
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