重い空気が俺たちを取り囲む。
「死」という言葉がねっとりとまとわりついていた。
そんな中。
「あのー」
静けさを破ったのは、おじさんだ。
「もし、よかったらご両親のサインもらえますかね? 娘がファンなんですよ」
と、今までの重さをあっさりとぶちこわすものだから、俺はずっこけそうになる。
サインも何も……これから死のうって人が何をいってるんだか。
「遺書に一言添えてくれればいいんですよ。『一緒に死んでいるおじさんの子供にサイン書いてあげて下さい』って」
「はあ……」
おかげでユウキは泣くどころか、感傷にひたる時間すらなくなってしまったようだ。
「べつにいいけど……僕、遺書は家に残してきたから……」
「じゃあ、私の遺書に書いておきますね」
そう言って胸ポケットから遺書を出すおじさん。
中年男に似合わないピンクの便せん。
右の太腿の上に紙を広げ、縦にペンを走らせたおじさんは、
「えーと。『P.S. ちーちゃんの誕生日プレゼントは「福笑」のサイン色紙を頼んでおきました。楽しみにして下さいね』……っと」
と、内容を口にしながら書き込む。
ちょっと癖のある字。
でも遺書にP.S.って。
楽しみにしてくださいねって……何か違う気がする。
「ん? 誕生日?」
最初に反応したのはrozeだった。
「そういえばおじさん、さっきケーキ買ってなかった?」
「ええ、下の娘が今日誕生日なんですよ」
と嬉しそうにおじさんは言うけれど。
rozeの足が一歩後退する。
うわ、という声とともに。
「娘さんの誕生日に自殺って、後味悪っ。何かの嫌がらせ?」
彼女はまるで変なものをみちゃった、というような顔でおじさんを見ていた。
だが、おじさんはそんな空気すら気づくことはない
「別にそういうわけじゃないんですけどね……日が重なっちゃったっていうか」
「そういう場合って普通変更しない?」
「でも今日は家に帰りたくなかったんですよ。帰っても一人で淋しいし……」
「奥さんいるって言ってなかったっけ?」
「いるにはいるんですけど、少し前に娘連れて出ていっちゃって、しかも私が外に出ている間に家財道具、ほとんど持って行っちゃったんですよ。
テレビとか電子レンジとか。帰ったらびっくりしちゃいましたよ。空き巣かと思って警察呼んじゃって。もう恥ずかしいったら」
あはは、とまるで人ごとのようにおじさんは笑っている。
そのめでたい性格に、rozeの顔も引きつっていく。
無理もない。
「おじさんってさー、絶対自殺とか考えなさそうなんだけど。全部イヤになったとかって、掲示板に書いてたけどさぁ……何でこんな所にいるわけ?」
「まぁ、これでもいろいろあったんですよ。それなりに」
そう言っておじさんはrozeの質問をかわすけど。
俺は知っている。
おじさんの本当の理由。
おじさんが遺書を広げたとき、右隣にいた俺だけが内容を見ることができたのだ。
俺も全部見たってわけじゃないけれど。
いくつかの単語が俺の目に飛び込んでいた。
「リストラ」に「離婚」、「老後」と「孤独」
そして「不安」
「ごめんなさい」の言葉。
それだけでもこの人がここに来た理由が想像できてしまう。
社会に貢献した男は全てを失い、未来に絶望したのだ。
「おじさん」
ユウキがおじさんに声をかけてきた。
「お笑い好きならこれあげる」
そう言ってユウキが差し出したのは。
「うそ。エムワンの観覧券っ」
rozeが目を輝かせるのも無理はない。
今、ユウキが手にしているのは年に一度、最高に面白い芸人を競う大会のチケットで。
「これって葉書出してもなかなか当たらないのに」
「この間、親からもらったんだ。僕のぶんしかないから、娘さんに」
「うわぁ、いいんですか?」
チケットをもらってほくほくした表情のおじさん。
「じゃあお礼にこれをあげましょう。若い二人で食べて下さい」
そう言っておじさんはケーキを差し出した。
三角に切られた苺のショートケーキがふたつ。
プラスチックのケースにきちんと収まっている。
いかにもコンビニとかスーパーで売っているって感じ。
でも。
「本当に?」
ユウキの目がきらん、と光る。
俺が見た中で一番幸せそうな、満面の笑みが広がっていた。
「じゃあ、いっただきまーす」
ユウキは手でケーキを掴むや否や、大きく口を開けてかぶりつく。
あっという間に平らげる。
小さい体に似合わない豪快さ。
こっちがあっけに取られてしまった。
「僕、甘いのも大好きなんだ」
幸せのオーラがユウキを取り囲む。
彼の頬についた白いあとをおじさんがそっと指で払った。
笑顔の会話。
彼らは親子じゃないけど、錯覚しそうになる。
その雰囲気だけで……
ふと、昔を思い出した。
ユウキと同じ位の年に、誕生日を祝ってもらった時のことを。
父さんと、母さんと。
あの時はじいちゃんも、いた。
初めて家族が一緒に過ごした時間。
もう、戻らないのだと思うと……
いや。
今更感傷に浸った所で、何かが変わるわけがない。
事実も。
現実さえも。
……視界が何かに遮られる。
気づくと甘い匂いが俺のところまで届いていた。
rozeが残ったケーキを手に、食べる? と聞いてくる。
俺がそれを丁重に断ると、
「あっそ」
臆することなく、rozeはケーキの上にあった苺を口に含んだ。
赤い実の味。
彼女は一回、目をつぶった後で、数回、瞬きを繰り返す。
「すっぱ」
喉に押し込んでようやく感想が聞ける。
食べた苺は甘みより酸味が強かったようだ。
俺は思わず苦笑してしまった。
晩餐会は静かに幕を下ろそうとしている。
「ねぇ」
制服のスカートで軽く指をなでながら、rozeが俺に聞いてくる。
「管理人、ここまでは車で来たんだよね?」
「そうだけど……」
「じゃあさ」
腕を絡ませるroze。
俺の腕を引いて、そっと耳打ちをするけれど。
「はぁ……って、ええっ?」
思いがけない言葉に俺は変な声をあげてしまう。
動悸が走った。
「ばかっ。声大きいっ」
「どうしたの?」
俺の奇声にびっくりしたユウキが俺に問いかける。
「あーいや、なんでもない……」
答えたのはrozeだった。
怪しまれないように、そっと俺から離れる。
そろそろ片付けようか、と話題をそらす。
……冗談だよな。
俺は二人のもとへ走る後ろ姿をまじまじと見つめた。
言葉がまだ、こびりついて離れなかった。
――ここから抜け出さない?
一体何を考えているんだ?
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