8 明日への扉
それからあたしは屋上で気を失ってしまったらしい。
気がつくと、あたしはベッドの上にいた。
天井の防音壁があたしの視界に入る。
二度目のその光景に、ここが病院であることがすぐに分かった。
姿勢をくずしてみると、ずっと側にいてくれたのか、横ではお姉ちゃんがはっとしたような顔をしている。
「美香」
「お姉ちゃん……?」
時がはじまりに戻ったのかと思った。
でも、それもつかの間のこと。
体を起こした直後、いきなり頬を叩かれたあたし。
ばか! と病院中に響きわたりそうな怒声があたしの耳をつんざく。
「心配かけるんじゃないわよ! あんたが髪切り魔に殺されたかと思ったじゃない!」
叩かれた事よりお姉ちゃんが感情を剥き出しにした事がびっくりで、言葉、出なかった。
「犯人分かって学校に来てみればあんたの悲鳴聞くし。中庭に人が落ちたって騒いでいるし。あんたが落ちたかもしれないって思って……このばかっ!救急車とか警察とかいろいろ……とにかく大変だったんだからねっ! ああっ! 今となったらほんっとムカつくっ」
がん、と側にあったテレビに拳をぶつけるお姉ちゃん。
涙をうるませた表情は嬉しいのか怒りなのか、正直分からない。
感情のコントロールがうまくできてないらしい。
お姉ちゃんはそんな自分を落ち着かせようと、長く深いため息をついた。
「ごめん、ちょっと自分取り戻すから」
その言葉が滑稽だった。
そして、ようやくお姉ちゃんが普通に戻ったところで、あたしは最初に聞きたかったことを問いかけた。
「聡さんは?」
「今、集中治療室にいるわ。意識はないけど……生きている」
よかった。
ほっと胸をなでおろす。
はっきりいって、屋上から飛び降りたときは死んじゃったんじゃないかって思った。
きっと自分が生き延びたことよりも安心したのかもしれない。
お姉ちゃんは、そんなあたしを見て少し余裕が持てたのかと思ったのか、それよりも、と話を続ける。
「記憶、戻ったんでしょ?」
「お姉ちゃん、知ってたの?」
「なんとなく。記憶戻ってなかったら、屋上にいないと思って……」
事件後、犯人は現場に戻るのは鉄則でしょ、とお姉ちゃんは続けた。
強引な考え方だな、って思うけど。
漠然と、ここなら会えるかなって思っただけなんだけど……
「どうして、犯人と対峙しようなんて考えたの?」
あたしの行動、すべてお見とおしのお姉ちゃん。
さすが、頭いいな。
あたしはお姉ちゃんに微笑もうとするけど、ほおがひきつってうまく笑えない。
皮肉ってこういう時をいうんだろうね。
「好き、だったの?」
あたしは答えられなかった。
そのかわり、涙がとめどなくあふれる。
ぽつりぽつり、頬を伝うことなく、毛布に染みこんでいく。
お姉ちゃんはそれ以上、何も言わなかった。
やさしくあたしの頭をなでてくれる。
屋上で聡さんの言ってたことをありのまま、お姉ちゃんに話した。
「……聡さんが飛び降りたのは罪から逃げるためじゃない気がする」
お姉さんへの償いだったのだと思う。
あの時。
聡さんがうやむやにした言葉はきっと、自己嫌悪だ。
お姉さんの死を受け止めた今、聡さんは彼女を死なせたのは自分だと責めている。
まして家族なら、たった一人の身内なら。
自分が死ねばよかったと思ったのかもしれない。
だから……隠したんだ。
命を絶つことで全てを終わらせようとしていることを。
お姉ちゃんはいつもと違い、聞き手に回っている。
あたしの想像にそうね、と同調する。
「たった一人の肉親をそんなかたちで失ったら、自分が生きているのも辛く感じていたかもね。それを解くことのできるのはたぶん、死んだお姉さんだけで……」
けど、死人に口なしだ。
どんなに言いたくても言えないだろう。
……静かな時間がゆるやかに過ぎていく。
窓の外はすでに夜だった。
「とにかく、もうすぐお父さん達が来るからおとなしくしてなさい。少し、休んだほうがいいわ」
ゆったりとした口調でお姉ちゃんはそう言うけど。
そんなことしてる場合じゃないってのは分かってた。
お姉ちゃんの手から離れ、ベッドから飛び起きると裸足のまんまであたしは病室を出ていく。
「ちょっと、美香、どこに行くの?」
お姉ちゃんの言葉に答える必要もなかった。
あたしは走りだす。
足の裏がひんやりとして気持ちいいのも忘れ、集中治療室を探した。
どんな姿でもいい。
聡さんに会いたかった。
あたしはフロアを一周したとこで集中治療室とかかれたドアを見つける。
関係者以外、立入禁止の看板つき。
けど、断固無視。
この中に聡さんがいる。
そう思うと、少しだけ緊張した。
あたしは一回深呼吸してからゆっくりとドアを開ける。
ガラス張りの壁が目に入った。
そして、その奥に聡さんはいた。
一瞬、心臓が止まる思い。
包帯が全身に巻き付けられ、ミイラのような聡さんは医療機械に囲まれていた。
眠ってるというより目を閉じてるだけのような、そんな感じ。
酸素を作る水の音と血圧の音が不気味なほどかみあっている。
「聡さん……」
これが、つい二、三時間前まであたしと一緒にいた人なのか。
やりきれない思いでいっぱいになる。
きゅっと唇をかみしめた……
「……君、この人の知り合いなの?」
突然の声にびっくりした。
振り返ってみると、いつの間にいたのかドアの前に一人の男の人が。
ちょうど、パパぐらいの年のお医者さん。
普通だったら無断侵入したあたしを怒るとこだけど、その人は別にあたしにつっかかることなく、知り合いなの?と聞いてきた。
あたしはこくりとうなずく。
「あの……聡さん、どうなんですか?」
「全身打撲の上、頭を強く打ってるし出血もひどい。手術は全力を尽くしたけれど、今夜から明日がとうげだろうね」
「助かりますよね?」
「本人に生きようとする力があればね。けど今の彼は体力的にも、精神的にも衰弱してる」
「そんな」
「彼の生命力を信じましょう」
そう言いつつも、医者の目はほんの少し伏し目がちだ。
そんな自信なさそうに言わないでよ。
患者を助けるのがあんたの仕事じゃない。
思わずそう言いそうになるけど、こんなとこでやりあっても仕方ない。
ガラス越しの聡さんをもう一度みすえる。
死なないで。
いくらお姉さんへの償いだからって、生きることを諦めないで。
何度も、あたしは聡さんの心に呼びかける。
けど、それすら届いていないのかもしれない。
届く声はたったひとつ。
それなら……
あたしの中にひとつの答えが出る。
聡さんに生きる希望をもたせるたったひとつの方法。
「先生、聡さんと話をしたい。五分間だけ、お願いします」
考えてみればかなり無謀なことだと思う。
意識のない人間と話をしようなんて。
でも医者はそんなあたしの願いを受け止めてくれた。
「もしもの時は私が責任を取る」
その言葉があたしの緊張を少しだけ和らげた。
今のあたしに聡さんにできること。
それはあたしがお姉さんになって今の気持ちを伝えることだ。
あたしは白衣に身を包み、白い帽子をかぶると聡さんの待つ場所へと足を運んだ。
聡さんは眠ったままだ。
「聡」
彼に優しく呼びかける。
自分は聡さんのお姉さんだと思いこむ。
昔、こんなふうに呼びかけていたのかなと想像しながら。
「聡、お姉ちゃんだよ」
あたしは帽子を取った。
長い髪が聡さんの指に絡まる。
瞬間、彼の指がぴくりと動いた。
聡さんの唇が何か言おうとしている……
だが、それは危険を呼び起こした。
聡さんの血圧が急に下がったのだ。
けたたましく鳴り響く警告音。
聡さんは苦しみながら、何かを訴えようとしている。
一瞬、恐怖感が襲う。
でも逃げてはいけない。
彼の手をあたしはしっかりと握りしめた。
「大丈夫。何も話さなくてもいいから」
大丈夫、大丈夫だから。
聡さんの呼吸が落ち着くまであたしはその言葉を何度も何度も繰り返した。
彼が背負ってしまった傷を埋めるために。
……機械から奏でる音が、落ちつき始めた。
一定したリズムがあたしの耳を通り抜ける。
あたしはその音を確認してからゆっくりと語り始めた。
「聡は自分が髪を結わなかったから、お姉ちゃんが死んだんだって……ずっと自分を責めているのよね」
聡さんの頬にひとすじの涙がこぼれる。
「でもね。そんなことしなくてもお姉ちゃんは殺される運命だったの。間がわるかったのよ。誰にもどうすることができなかったの。聡にも。お姉ちゃんにも」
好きという言葉のかわりに。
あなたが一番ほしい言葉をあげる。
大好きなお姉さんからの願いを。
「あんたのせいじゃない。だから生きて。お姉ちゃんの分も生きて……」
これが精一杯だった。
あたしは聡さんの手をベッドへ戻す。
涙でぬれた頬をそっと指で払ってあげた。
聡さんは安心したのか、深い眠りに入っていく。
今度こそ、いい夢が見られるといいね。
あたしは指に残った涙のかけらにそっと口づけた。
それは別れを惜しむ最後の儀式。
あたしは自分の涙とともに心の奥へしまった……
「ありがとう…ございます」
ガラス越しの世界から戻ったあたしは医者に深々と頭を下げる。
医者の顔から苦笑が広がった。
「最初はどうなるかと思ったよ……でも君のおかげだ。ありがとう」
感謝の言葉が心に染みわたる。
でも、これは先生が許してくれたからできたことだ。
「聡さんを、よろしくお願いします」
あたしは聡さんの姿を目にやきつけた。
聡さんの中にいつかあたしがいなくなっても。
あなたが生きてくれれば。
幸せになってくれれば。
それだけで、いい……
「いつの間にかそんな顔をするようになったんだな」
ふと、パパの声がした。
振り返るとパパだけじゃない、ママやお姉ちゃんもそこにいる。
いつからそこにいたんだろう?
「美香が大人になるなんて。パパはちょっと淋しいなぁ」
「しょうがないじゃない。子供は成長するんだから」
「んなこと言ったってぇ」
甘えるようにあたしにすり寄ってくるパパ。
ママはそんなパパに呆れぎみ。
お姉ちゃんはというと。
「何が成長してるって? 無茶するのはまだガキな証拠じゃない」
口を尖らせている。
けど目がうるんでいるのは気のせいじゃないかも。
まったく素直じゃないんだから。
あたしはこんな家族を微笑ましく思ってしまった……
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