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 今日という一日が終わろうとしていた。
 真っ赤な夕日がビルの間から沈んでいく。
 街を朱色に染める。
 あの日も、そうだった。
 「あたし」は屋上である人を待っていた。
 この場所に柵と呼べるものはない。
 膝の高さほどの段差が周りを囲っているだけだ。
 あたしはそこに座り、中庭を見おろす。
 三階下で秋桜が揺れているのは変わらない。
 あたしは目を閉じる。
 耳をすます。
 階段を登ってくる音が聞こえた。
 金属音は、ない。
 緊張が走る。
 同時に、迷いもわき起こった。
 本当にこれでいいのか、と。
 ガチャン、とドアが開く。
 あたしは段差から降りた。
 屋上のドア一点を見つめる。
 目の前には沈む太陽。
 その輝きにくらくらしそうになる。
 一吹きの風があたしのほどいた髪を宙に舞わせる。
 ドアの向こう側にいた人物はひどく動揺した。
 その反応はあたしには悲しすぎた。
 目の前にいるのはTシャツにジーンズ姿の。
「聡さん」
 あたしの声が震える。
 はじめは信じられなかった。
 というより、信じたくなかった。
 聡さんは声の主があたしだと気づくと、表情をゆるめる。
 けど、側まで来なかったのは何かしら気づいていたんだと思う。
 あたしの言葉をじっと待っていた。
「聡さん。あたし」
 ひとつ間を置いて、覚悟を決めて、あたしは言う。
「思い出したの。あの日のこと」
 聡さんは何も言わない。
 けど、あたしは見逃さなかった。
 彼の顔が少しだけ歪んだのを……
「あの日もこうやって、聡さんと顔を合わせたんだよね」
 あの日。
 あたしはどこかでドアが閉まる音を聞き、ゆっくりと目を覚ました。
 帰らなきゃ。
 けだるい体をむりやり起こし、あたしは屋上を下りようとしていた。
 途中、屋上から見える景色を眺めて。
 がちゃん! きい。
 ドアの開く音が聞こえた。
 あたしが振り返った。
 誰? あたしは尋ねた。
 ゆっくりと近づき、夕日が建物の影になる場所までたどりつく。
 長い髪がまとわりついていた。
 その時の聡さんがどんな顔をしてたか、よく覚えている。
 最初は驚いて、一瞬笑ったと思った。
 でもその表情もすぐに消えた。
 違う、低い声が耳に届いた。
「そのあと、突然ハサミを出したよね」
 あたしは聡さんの腰に下がっている落とし物袋に視線を落とす。
   学校で共用しているハサミは、名前が書かれているわけじゃない。
 落とし物として扱われても不自然じゃない。
「急にあたしに襲いかかったよね」
 それは衝動的、といっていいくらいだった。
 その手に光るハサミの刃を見たとき、あたしは危険を感じる。
 ――何なの……?
 とにかく、ここから逃げなきゃ。
 はやる気持ちが更に焦りを生む。
「あたしは、聡さんのスキをついて逃げた。けど、」

   ――もう騙されたりはしない!
 狂ってる、というより悔しがってるみたいに聡さんは叫びつづけていた。
 屋上のドア付近。
 ハサミがあたしの髪に食らいつこうとする。
 金属どうしがこすれる音が何度なく頭に響く。
 ――はなしてっ。
 何度も叫びつづけてた、あたし。
 あたしは聡さんを突き放した。
 バランスを崩す。
 体が宙を舞った。
 そして引力にひきつけられるまま、あたしは頭から落ちた……

「あたしが階段から落ちたのはパニくったから。けど、その原因を作ったのは……聡さん、でした。聡さんがあたしの髪を切ろうとしたから」
 事実を口にするのが苦しくてたまらない。
 そして、真実に気づくことが怖かった。
「髪切り魔の正体は……聡さんなんでしょ?」
「……」
「どうして?」
 あたしは問いつめることしかできなかった。
「あたしのそばにいてくれたのは、記憶がいつ戻るのか見張っていたから? 髪切り魔だっていうのを知られたくなかったから? なんで髪切り魔なんか……」
 足が今ごろになってがくがくする。
 泣きそうになる。
 ここまで言ってどうなるか、自分にも分からなかった。
 お姉ちゃんに話したらバカって言われるかもしれない。
 でも知りたかった。
 知って、確かめたいことがある。
 だから覚悟を決めたのだ。
 しばらくの沈黙の後。
 びくびくしているあたしをずっと見ていた聡さんが、ため息をついた。
 思い出したんだね、とここに来てはじめて、あたしに言葉を返してくれる。
 やさしい、声。
「よかった」
 聡さんが微笑む。
 言葉に偽りはないようだった。
 あたしは……どう返していいのか分からず、立ちすくむ。
「おれはずっと姉貴を捜していたんだ」
 聡さんはあたしから少し離れたところで、段差に腰を下ろした。
「昔、姉弟ゲンカしたんだ。おれ達、両親がいなくて施設にいたんだけど、おれだけ里親が決まって……離ればなれになるのがイヤだった。でもその日から姉貴はいなくなったんだ。
その後警察から姉貴が髪切り魔に襲われたって連絡が入って……おれが里親に引き取られた直後だった」
「それって……」
 七年前の事件のこと?
「あの日、おれが意地張って姉貴の髪を結わなかったから、いなくなったんだ。きちんとしていれば姉貴は……」
 自分を追いつめる言葉。
 でもどこか違和感をおぼえる。
「後から聞いたら、姉貴の体は子供には見せられたものじゃない位酷かったって。解剖のあと、最後の別れもできないまま姉貴は火葬されたらしい。葬式なんてやることもなく、埋められたって」
 聡さんの笑みはとても悲しげだ。
「あれからもう一人の自分が問いかけるんだ」
 自分の目で見ていないのに、本当に姉貴は死んだと言えるのか?
 実は大人達が嘘をついているのではないか?
 本当は隠れてておれが捜し当てるのをずっと待っているんじゃないか?
 そう、聡さんは心の中で葛藤を続けていたと言う。
「でも里親はおれをかわいがってくれたから、そんなこと言うことも聞くこともできなかった。うやむやのまま、時だけ流れて……」
 心に巣くった「それ」は親から自立した彼を徐々に蝕んでいった。
 そのうち彼は姉を捜しに出かけ、姉の面影を追いかけるようになる。
 彼の中の歪んだ真実が思考を狂わせたのだ。
 姉と同じ制服、長い髪をなびかせた少女達は別人で。
 その度に彼は落胆し、次は間違えないよう印をつけていく。
 髪を切り落としていく。
 それが髪切り魔事件の真相……
 聡さんは穏やかだ。
 それは自分の罪の重さを軽くみているから?
 聡さんはあたしが難しい顔をしているのを見てか、
「軽蔑した?」
 と、聞いてくる。
 確かに最初、軽蔑もした。
 嘘の優しさに裏切られたかと思った。
 悲しくて、そして怖かった。
 でも。
「それだけだったら……ここには来なかった」
 もし、記憶のかけらが聡さんのを見つけてくれなかったら、あたしは一生許さなかったのかもしれない。
 ケガしたあたしを助けた聡さんがいたこと。
 逃げても……戻ってきてくれたのを、私は知っている。
 そう自分の気持ちを素直に話したあたしに、聡さんはそっか、とつぶやいた。
「本当は聡さん、分かっているんでしょ?」
 お姉さんを捜してもどこにもいないことを。
 その後、髪切り事件が起こらなかったことが何よりの証拠だ。
「君が気づかせてくれたんだ。服装の違う君にも襲いかかって、ケガまでさせて。自分のやっていることは七年前の髪切り魔と変わらないって思い知らされた。きっと姉貴もこんなふうに殺されたのかもしれないって思ったらやりきれなかった。やっぱり……」
 聡さんは続けようとした言葉をかき消す。
 かわりにごめん、とあたしに謝る。
「ひどいことをしてすまなかった。謝って済む問題じゃないけど……でも、君と一緒にいて楽しかった。素直に、昔に戻った気持ちでいられた。姉貴といるようだったよ」
 言葉が、あたしを惹きつける。
 切ない気持ちが、溢れそうになる。
「自首……するの?」
「警察にはもう話しているんでしょ?」
 あたしは首を横に振った。
「なぜ……?」
「あたしは……確かめたかっただけ」
 本当の聡さんの姿を。
 聡さんの全てを知っても、ここにある気持ちに変わりがないかどうかを。
 答えはもう、出ていた。
「あたしじゃ……お姉さんの代わりにならない?」
 聡さんが驚いたような顔をする。
「あたしは、聡さんに学校にいてもらいたい。側にいてもらいたい」
 いつものように朝、花壇に水を撒いて。
 銅像の側のテーブルでご飯を食べて、髪を結ってもらって。
 他には何も望まない、それだけでいい。
 聡さんがあたしにお姉さんを重ねてても、それでいい。
 堪えきれず、涙がこぼれる。
 でも今度は聡さんが首を横に振った。
「君は姉貴じゃない。誰も……姉貴の代わりなんてできないよ」
 君は君のままでいればいい、そう聡さんは言った。
 ほら、と聡さんが何かを指す。
 追いかけるようにあたしは踵を返した。
 聡さんの指が示したのは、暮れなずむ街、茜色の空。
 自然の美しさに見とれてしまう。
 潤んだ目に染みる。
「昔はこの時間が辛かった。でも……今は夕焼けが綺麗なものだと心から思える。君のおかげだよ」
 ありがとう、聡さんの言葉が空に溶けた。
 偽りのない気持ちがあたしの心を浄化する。
 あたしの中の全ての感情を、聡さんはさらっていってしまった。
 聡さん……
 空気が変わったのは、次の瞬間だった。
 ふわっと、風らしきものを肌で感じた。
 耳慣れない、音。
 振り返る。
 聡さんの姿はもうなかった。
「聡……さん?」
 返事は、ない。
 徐々に血の気が引いていく。
 まさかと思う。
 一歩を踏み出すのが……怖い。
 あたしは屋上から身を乗り出し、おそるおそる地面をのぞき込んだ。
 ――空から舞い降りた聡さんを取り囲んでいたのは、秋桜。
 聡さんの罪と苦悩を全て受け止めたかのようだった。
 信じがたいその光景は妖しいほど綺麗で、悲しすぎて。
 あたしの心に深く突き刺さった。

「いやあああああっっ!」

 どうして?
 あたしは何度も聡さんに問いかけた。
 でも答えは返ってこない。
 二度とその声を聞くことは……できなかった。

               
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