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 保健室での里美はまるで引きこもりのようだった。
 布団を頭から被ったまま、横になっている。
 時々、鼻をすする音が聞こえる。
「あたしの髪、切ろうとしたんだって?」
 ベッドに近づいたあたしは、ストレートに問いかけた。
「……ごめん」
「謝るんなら人の顔を見て言って欲しいんですけど」
「明日美っ」
 ふてくされたような口調のあたしを先生が戒める。
「さっきの素直なお前はどこへ行った?」
「それはそれ、これはこれ」
 あたしはお姉ちゃんみたくさらりとかわしてみる。
「大丈夫よ。神崎君はここにいないから」
「……」
 のろのろとした動作で起きあがった里美はおそるおそるあたしを見上げた。
 その唇が、何か言おうとした刹那、
「ごめんなさいっ」
 と、同時にあたしも謝った。
 突然のことに里美はもちろん、先生も呆然とする。
「あたしが優柔不断でした」
「美香?」
「あたし、お姉ちゃんいるんだけど、ウチのお姉ちゃんってあたしと違って何でもできるし頭もよくて。いつも劣等感を感じてた。でも唯一勝てたのがこの髪だったわけ。だからあたし、自分の髪は特別なものにしたかったの。神崎くんの誉め言葉はきっかけにすぎなかった。だから今まで髪を縛らなかったわけ。あの時、聞いてくれそうな雰囲気じゃなかったからずっと言えなかった」
「そっ……か」
「あたし、すっごい好きな人がいるの」
「な」
 あたしの発言に、里美より先にぎょっとしたのは、先生。
「誰?」
 あたしはその人の名前を声にする。
 里美が目を丸くした。
「詳しいことは明日教えてあげる。だから」
 学校休むなんてことしないでよ、とあたしは続ける。
「だって……あたしの親友なんてあんただけなんだから。だから正直に話したの」
「美香…」
 里美のつぶやきの後。
 涙で腫れた顔に笑みが広がる。
 それはあたしが欲しかった、親友の笑顔。
「じゃあ、また明日」
 あたしはそう言い残し、保健室をあとにする。
 待たせていた神崎君の元へ向かおうとする。
 と。
「明日美」
 あたしを引き止める先生の声。
 先生はもごもごと唇を動かし、言いにくそうな顔をする。
 その顔ちょっと変、と思う。
「何ですか?」
「あの、さっき言った……お前が好きな人ってのはその……あれだな」
 先生の遠回しな聞き方がまどろっこしい。
 イラっときたのであたしはだから何ですか? と聞き返す。
 先生はそんなあたしに難しい顔をした。
「……やめておけ」
「どうして?」
「恋をする暇があるなら勉強しろ。教育的指導だ」
 絶対やめておけ、と言い残して吉田先生はあたしに背中を向けた。
 里美を送るために保健室に戻っていく。
 なにあれ。
 あんたの奥さんはあたし位の頃からあんたに恋してたって自慢したくせに。
 言葉の矛盾にあたしは口を尖らせてしまう。
 一体何だっていうのよ、まったく……

 月がオレンジ色に見えた。
 道がいつもより明るく見える。
 あたしは神崎君と肩を並べて歩いていた。
 声が聞こえる範囲の間隔、ちょうどいい速度。
 車道側を自らすすんで歩く神崎君は、相手にさりげなく気を使えるひとだな、と思う。
「きょうだいの話……途中だったね」
 話題が神崎君の口からこぼれた。
 そういえば、と思い出す。
「神崎くんのお姉さんって……今」
「ああ」
 バツが悪そうな感じに神崎君は自分の頭をかく。
 一瞬だけ、バッグに付いている鈴に目を落とした。
「昔、離婚した母さんについて行ったんだ。今は違う中学にいる」
「そっか……」
 じゃあ美容師のお母さんは、お父さんの再婚相手……なのかな?
 聞きたかったけど、人の家の事情をあれこれ聞くのもどうかなと思った。
 お姉ちゃんなら、構わず聞いていたかもしれないけど、ね。
「で、明日美さんは?」
「え?」
 不意打ちのように問い返されたあたしはぽかんとしてしまう。
「さっき同時に何か言おうとしたよね」
 さっきって……ああ。
 あたしは苦笑した。
 あたしのこと、よく見ているなって思う。
「告白の返事、していいかな」
「うん……」
 お互いの足がぴたりと止まる。
 ちりん、と鈴が鳴った。
 月明かりにてらされた神崎君の顔に緊張が走っているのが分かる。
 真剣な、顔。
 かっこいいな、素直に思った。
 あたしは深呼吸をする。
 そして神崎君から目をそらすことなくきっぱりと言った。
「あたし、すきなひとがいるの。だからつき合えない。ごめんね」
 あたしは深々と頭を下げた。
 たとえ泣かれても、憎まれても。
 あたしはそれを受け止めなければいけないんだと思った。
 傷つけることで、返すしか方法がないと思った。
 それが本当のやさしさだと思ったから。
 聡さんが教えてくれたこと。
 これが、あたしの答え。
 あたしは聡さんに恋をしている……
「……わかった」
 神崎君がぽつ、とつぶやく。
 低い声は強がりだったのかどうかは、分からない。
 あたしは顔を上げる。
「でも、今日は家まで送って下さい」
「……ん」
 それ以降、あたし達は言葉を交わすことはなかった。
 夜空の月は変わらない。
 あたし達をやさしく包んでいた。

               
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