backtopnext


 8 ナイトは最後に現れる(後)

「こんなことをするのもほどほどにして下さい。あんな挑発までして。一歩間違えればケガをする所だったんですよ」
 杜さんは怒っていた、のだと思う。口調が穏やかすぎて迫力もないのが今ひとつだが。
「挑発したのは作戦です。それに、もしもの事も考えて護衛も待機させてました」
「そういうことを言っているのではありません」
 あれから大騒ぎをした男は別室で教頭先生が来るまで待つこととなった。今、幹先生がつきっきりでなだめている。男を警察に引き渡すのは誰もが望まなかった。私達は今、女の子の案内で学校の保健室にいる。杜さんの説教は続いた。
「いくら見えたからって、勝手に行動されては自分の首を絞めるだけです。自分の立場をわきまえて下さい」
「そんなの……分かってます」
 女の子はそれ以上何も言わなかった。そのかわり憂いの顔を見せる。大人びた表情に私はどきりとした。彼女は杜さんの妹、なのか? それにしては杜さんとの間に距離を感じる。のけ者にされた私は部屋にあった体重計に乗った。思わず舌打ちをしてしまう。体重計の目盛りは先月測った時より増えている。
「とにかくすぐ戻りましょう。皆さんが貴方を待っています」
 女の子がランドセルを背負う。フックにかけられたR.Kの文字がきらりと光った。杜さんが私に近づく。
「すみません、変なことに巻き込んでしまって。服を手配しますね」
「ああ、大丈夫です。シミもすぐ取れる範囲だし、タクシー代わりにもなったし。チャラってことで」
「そうですか? もし何かありましたら名刺の場所へ電話して下さい。それと先ほどの先生には、恐縮ですが彼女が失礼なことをして申し訳なかったとお伝え下さい」
 じゃあ私達は失礼します、会釈をした杜さんは保健室のドアを開けた。女の子を先に通してから部屋を出て行く。杜さんは最後まで低姿勢を崩さなかった。不思議な二人だなぁ。
 数分たって、幹先生がやってきた。
「ようやく教頭帰ってきたよ……あれ、ハナコさんたちは?」
「ハナコさんってさっきの女の子のこと? だったら帰りましたよ。失礼なことをして申し訳なかったって言ってました」
「マジで? さては逃げやがったな」
 幹先生は舌打ちする。逃げた? 一体どういうことなんだろう。
「あのぉ。連絡取りたいなら杜さんの名刺ありますけど」
 私は幹先生に名刺を差し出す。
「驚きですよね。杜さん、あの若さで取締役付きの秘書だなんて。しかも今話題の会社だし。テレビで見たんですけど、この会社っていつも問題が起こる直前に回避しているんですって。だから株で損をしないとか。ラッキーどころかまるで先を読む予言者がいるみたいだって……あれ?」
 幹先生の様子がおかしい。何かを考えている。沈黙が長い。幹先生は何かを確認するように空いている人差し指で空に何度も縦線を描いていた。ぴたりと止まる。そういうことかよ、幹先生は長机を抱えてうなだれた。へこんでいるのかと思ったら違った。幹先生は笑っている。
「そりゃあ秘密になるわけだ。狙われるわけだ」
 私はいまだ、ここに来た理由を話せないままでいた。ようやく話せたのはそれから五分後のこと。空気を入れ換えようと幹先生が窓を開けた時だった。
「お母さんは元気か?」
 不意打ちをくらった。緊張が走る。
「はい」
「そうか」
「……あの。私、謝りにきたんです。母のことで」
 ごめんなさい、私は一番言いたかった言葉を幹先生に伝える。
「あの頃母が何をしていたのか、私はずっと前から知ってました。知ってて隠していました」
 幹先生の動きが止まった。
「母との幸せな時間が壊れてしまうのが怖かったんです。母があんなことをしてしまって、私は先生を責めてしまいました。本当は自分も悪いのに。私はそこから逃げたんです。学校を追い出してしまったこと、ずっと後悔してました。こめんなさい」
 私は深々と頭を下げた。そうか、と幹先生がつぶやいく。沈黙。開けた窓からは校庭の湿った土の匂いが入り込んだ。
「でも、学校飛ばされたのは俺がバカやったからだよ。根本殴っちゃって。あいつには申し訳ないことをした。ちゃんと謝れないまま別れちゃったし。今頃どうしてるのかな」
 私は顔を上げた。先生にもう一つ伝えなきゃならないことがある。
「この間同窓会があって……会いました。根本くん、小学校の先生になりたいって言ってましたよ」
「え?」
 幹先生は驚く。信じられないというような表情。
「殴られた時の言葉は今も覚えている、って。先生は覚えてますか?」
 私は当時の言葉をそらんじる。
「『人の命はそれぞれの親からもらった大切なものだ。それを死ねばよかったなんて言葉で片付けるな。人を、命を慈しむ人になれ』根本くん、先生と同じ思いを未来の子供達に伝えたいって。そう言ってました」
「……だからって何で教師を選ぶかなぁ。あんなことあったら普通選ばな」
 言葉が途切れた。幹先生は口元に手をあてている。感情がこぼれないように天上を見上げている。私は微笑んだ。再び静けさが取りかこむ。
「ありがとう」
 幹先生の感謝の言葉が私の中を駆けめぐった。私の中で背負っていた重い何かがほどけた、そんな気がした。
 人のざわめきが聞こえる。保健室の前をいくつもの人影が通り過ぎる。ドアが開いた。部屋の中に入ってきたのは白衣姿のスレンダーな美人さん。保健の先生だろうか? 開口一番、 「幹先生何をやってたんですか?」
 と、声を張り上げた。彼女の手が自然と腰に回る。
「避難訓練で突然いなくなったから児童達が慌ててましたよ。避難場所は急に変わるわ、点呼を報告する人がいないわって、大騒ぎだったんですから」
「ああ、そうでしたね」
 幹先生は苦笑する。その裏で事件が起きたとは想像もしないだろう。そうでしたって……オウム返しした保健の先生は呆れた顔をする。
「もう。フォロー大変だったんですからね。教頭先生なんか幹先生は逃げ遅れました、って全児童に説明しちゃうからもう……あら?」
 お客さんでしたか? 保健の先生の問いかけに私はぺこりとお辞儀をした。

               
backtopnext