9 タイムカプセル
ガラス張りの応接室に少女と中年男性が顔をつきあわせていた。年齢は十二歳と四十歳半ば。端から見たらお父さんと娘、とも思える二人だがちょっと違う。涼やかな顔で書類を読んでいる彼女に対して、中年男性の方は気が気じゃないような、おどおどした顔をしている。手に持っているハンカチで何度も額の汗を拭っていた。休憩明けの女子社員が物珍しそうに二人を見ながら通り過ぎる。
僕は携帯電話をしまうと、二人のいる部屋へ入った。彼女へ近づき、立ち止まる。紙同士がこすれる音。A4のコピー用紙がテーブルに積み上げられていく。コストを見直して下さい、そう言って彼女は積み上げた書類を男性に渡す。
「多少アシが出ても構いませんからもう少し良い素材を集めて下さい。今回のお客さま達は安全性をかなり求めています。それと、販売期間中、社員間でインフルエンザが流行るのでモデルルームは必ず暖房と加湿器を置くように指示し、来店されたお客さまにも最初からおしぼりやのど飴を渡すなどのサービスを行って下さい。薬も数種類買っておいて、切らさないように。あとはこのまま進めてかまいません」
「は、はいっ」
「着工まであと少しです。いろいろと大変でしょうが、頑張って下さい」
彼女の激励にありがとうございます、と男性は頭を下げる。すっかり大人の喋り方が身に付いている彼女。ここ二年間の成長ぶりは驚異的だ。そしてそうさせてしまったことを僕は少しだけ悔やんだ。
男性は部屋をあとにする。真っ先に喫煙室に向かっていく姿がガラス越しに確認した。そうとう緊張していたらしい。彼女は男性が見えなくなったのを自分の目で確認してから、で誰からだったの? と僕に聞く。先ほどのしっかりとした口調が和らいでいた。
「電話、長かったけど」
「ああ……幹先生です。貴方のことを心配していました」
「そう」
彼女はテーブルに用意されたココアを飲んだ。甘い匂いがこちらにも届く。
「明日六年生全員でタイムカプセルを埋めるそうです。参加しないかと言われました」
「学校に行けなくなった事、話したんだよね」
「はい」
「ならいい」
次の打合せは何時から?彼女は話題を変えようとする。いつもより語尾が強い。自分の気持ちを押し込めた時、彼女はこんな喋り方をする。だから、
「いいんですか?このままで」
僕は彼女の気持ちを確かめる。答えはだいたい想像できていたが、聞かずにいられなかった。彼女は僕を見上げる。そして、
「仕方ないよ。この間仕事に穴あけちゃったし。今は自分が早く自立することを優先しなきゃ。思い出はそれからでも作れるし」
自分に言い聞かせるように彼女は言う。やっぱりと思う。彼女の言葉はいつも前向きだ。
「せっかく学校に通わせてもらうよう杜くんが頼んでくれたのに……ごめんね」
彼女は二人きりになると僕を「くん」づけで呼ぶ。普段僕の前にいる時は自分らしくいたいから、と彼女は言っていた。
「それよりも。杜くんのお母さん、まだ入院しているんでしょ? 側にいなくていいの?」
私は大丈夫だよ、彼女が笑う。
「こういう時こそ家族は大事にしなきゃ」
言葉が心に響く。家族に憧れている彼女ならではの言葉だな、と思う。
彼女には母親との思い出がない。シングルマザーを選んだ彼女の母親は、彼女が生まれてすぐに病気で亡くなったからだ。彼女を育てた祖父も二年前に他界している。十歳にして身寄りを失った彼女がこの会社の社長を訪ねたのもその頃だ。顔も知らない父親を頼るしかなかった。
あの時彼女を会社から遠ざけていれば彼女も普通の生活を送れたのかもしれない、と思う。僕は彼女の存在をずっと前から知っていた。彼女の祖父と面識があったからだ。彼女に未来を予知する力がある事を会社には黙ってほしいと頼まれていた。
――社長の隠し子だけならそれなりの生活は与えてくれるだろう。だが、あの力のことを知ったらきっと会社は孫を利用する。それだけは避けてくれ。
あの約束を僕は守ることができなかった。必死でもがいても、会社の権力の前で僕の力は無力だった。
杜くんのせいじゃないよ、大人達の言いなりになることを選んだ彼女は僕にそう言った。大人と戦うにはまだ幼すぎるって分かっているからそうしたの、でも私は諦めないから、自分の好きなように生きていくことを諦めないから。そう言った彼女は凛としていた。だが、僕の罪悪感は消えない。
今僕は彼女を護ることでそれを埋めようとしている。それが僕にできる精一杯だと思った。彼女はそんな僕を慕ってくれる。その想いに救われる自分がいた。
母は大丈夫です、僕は彼女に微笑んだ。
「僕は貴方を命がけで護ることが仕事ですから。その方が大事です」
その言葉に彼女がうろたえた。その顔はあどけない十二歳の少女のままだ。ガラスをノックする音に耳が応える。僕が訪ねてきた社員を出迎える。彼女は必死で冷静を取り戻そうとしていた。
その日、彼女が自分の部屋にたどりついたのは夜の九時すぎだった。今日は会議や打合せがいくつも重なった。彼女の顔に疲れが見えている。彼女は部屋に入るなり、ベッドにダイビングした。飾ってあるくまのぬいぐるみがぶるん、と震える。流行のワードローブ、白とピンクを基調にした部屋は年齢相応にかわいらしくまとまっている。
「杜くん」
彼女が体を起こした。
「これを先生にわたして。一緒に埋めてほしいの」
彼女が机の引き出しの中から古いカメラを取り出した。塗装が剥げている。レンズも傷がついている。フィルムを手巻きする所が時代を感じさせた。デジカメが主流になるというのに彼女はこれを大切に持っている。祖父の宝物だそうだ。僕もそのカメラを使って彼女を撮ったことがある。最近撮ったのは、あのガラス張りの校舎の前だったはずだ。
僕は彼女からカメラを受け取った。そしてあることに気づく。
「……フィルムが一枚残っていますね」
「そしたら適当に撮って。ああ、写真撮る前は前のフィルムが巻き取られているか確認してね。間違ったら二重撮りになっちゃうから……って前にも言ったよね」
はは、と彼女は照れを笑いで隠す。言葉の深い意味を僕は理解した。
「分かりました。良い写真を撮ってきますね」
翌日、僕は彼女に託されたカメラを持って幹先生を訪ねた。
「そういえば初めてまして、でしたね。彼女がお世話になりました」
僕が改めて挨拶をすると、幹先生は恐縮した顔でこちらこそ、と返事をした。前に一回見かけただけだが、その時と何か雰囲気が違う。髪型が変わっているようだが。ああ、髭がないのか。僕がそれを口にすると、
「もう、伸ばすのは止めました」
と幹先生は恥ずかしそうに言った。それを聞いていた岸谷先生が饒舌に語る。
「おっさん臭さが抜けたら急にイケメンになっちゃって。児童も先生もびっくりよ。絶対別人だ、整形だって話が飛び交っている位」
「ひっどい言われようでしょ?」
先生達の間を和やかな雰囲気が取り囲む。二人の未来は彼女から聞いていた。でも口に出すのは止めておこう。
「今日ハナコさんは来てないの?」
幹先生が僕に聞く。ハナコさん、というのは彼女が学校にいるときの呼び名だ。
「すみません。まだ家の方がたてこんでいまして」
「……そうですか」
「でも品物は彼女から預かっています。でも、その前に」
写真撮ってもいいですか? 僕は二人の先生に問いかける。
「できれば校舎をバックに、子供たちと一緒にいる所を撮りたいんですけど」
「あ。ちょっと待って」
幹先生が近くにいた子供たちに声をかける。幹先生の受け持ちクラスの児童だろうか? 数名の児童が集まった所で、僕は彼らに指示を出す。
「校舎が全部入るように撮るので、この辺に立って下さい。はいそうです……もう少し寄れますか?」
僕は手を右方向に仰ぐ。
「え? ずいぶん端に寄ってない?」
「いいんです。これで」
この位置がちょうどいいのだ。僕はシャッターを押した。笑顔の瞬間をおさめる。手巻きレバーを回した時、残りのフィルム数を示す数字がゼロに変わった。
「じゃあ、一人づつ中に入れて下さい」
思い出に残したい宝物が金属製のタイムカプセルの中へ入っていく。その中には教科書や遊び道具もある。手作りの工作や、七不思議怪奇レポートと書かれたノートもある。自分宛の手紙を書いている人もいる。幹先生に渡したカメラも丁重に梱包され、収められた。
そして最後に校長先生が細長い筒状の物をカプセルの中へ入れた。
「あれ、ハナコさんの卒業証書です。校長からのプレゼント。名前は本名で書いてあるそうですよ」
岸谷先生がそっと僕に耳打ちする。中身がすっごく気になるんですけどガマンして見なかったの、という言葉に僕は思わず笑ってしまった。
校長の手で蓋が閉められる。あらかじめ掘られた穴の中へ沈められ、土がかぶされた。
タイムカプセルが開けられるのは彼らが二十歳になる八年後。その時彼女はどうしているだろう。もしかしたらこの地を再び訪れることはないのかもしれない。でも、確かに彼女はここにいた。その証拠がここにある。
フィルムを現像した時、みんなは何を思うだろう。出来上がった写真を想像しながら僕は校舎を見上げた。(了)
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