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 7 ナイトは最後に現れる(前)

 繊維から肌に伝わる水の冷たさ。私の気持ちが萎えてしまう。
「最悪ぅ」
 雨上がりの路地、しかも工事中の砂利道で車に泥を跳ねられてしまった。
 今日は特別な日。せっかく決めた勝負服なのに。わざと色を落としたデニムパンツが泥色グラデーションに染まってしまった。これじゃあ台無しだ。
犯人はすぐに車を止めた。黒塗りのベンツ。私は声をかけようか一瞬悩んだ。もし、怖い系の人だったら悔しいけど泣き寝入りするしかない。けど、そうでなかったら。私はわずかな可能性にかけてみる。運はいい方のはず、と自分に言い聞かせる。
 車から人が出てきた。スーツっぽい制服を着込んでいる。見た目年齢は私とほとんど変わらなさそう。人のよさそうな感じの青年だ。よし、私は小さくガッツポーズをする。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけがないでしょう。どうしてくれるの?」
 私は彼をわざとにらんだ。青年は困ったような顔で私のデニムパンツを見る。
「泥ハネしていますね。すみません。弁償します」
 当然だ。バーゲンものだけど五千九百八十円、きっちり払ってもらおうじゃないの。私は意気込む。と、その時携帯電話が鳴った。青年は胸ポケットから携帯を取り出す。
「はい、モリです」
 穏やかな声。その微笑みは和やかだ。だが、しばらくしてその笑顔が消えた。
「分かりました。僕ももうすぐ着きます。あなた方はそのまま待機して下さい」
 そして青年は携帯電話を切る。改めて私にすみません、と言う。
「ちょっと先を急ぐのでこの車に乗っていただけませんか?洋服は用件が済み次第用意させて頂きますので」
「はぁ?」
 私はどっかのお笑い芸人と同じ言葉を放つ。話が変な方向に転がっている。新手の誘拐か? 警戒心が広がる。それを悟ったのか青年は、
「ああ、私は決して怪しい者ではないので安心して下さい」
と、私に名刺を渡した。

 鰍j建設グループ取締役専属秘書 齊藤杜

 モリは杜、と書くらしい。肩書きの横にあるロゴマークに見覚えがあった。K建設といえばその世界で注目の会社だ。テレビでも欠陥住宅や耐震構造の問題が起こる少し前からその対策に打ち込んでいる、先見之明を持つ会社と紹介されていた。ということは。
 げ。私の口から思わず言葉がこぼれた。てっきり同じ中学生かと思ったのに、社会人かい。私は彼をもう一度見る。しばらく考える。うん、と頷く。私の彼に対する見方がころりと変わった。まぁいいか。もし間違ってもこの人弱そうだし。私はこっそり思う。
 私は車に乗り込んだ。ふかふかのシート、向かい合わせのボックス席にため息が止まらない。杜さんは腰の低い人だった。緊張している私に今日は冷えますね、といったたわいのない会話を振る。急いでいる割には落ち着いている様子だ。セレブの時間感覚はわからない。
 杜さんの目的地は偶然にも私が行こうとしていた場所と同じだった。私は運命の巡り合わせに驚いてしまう。目の前には遠くから見ても目立ちそうなガラス張りの小学校の校舎。それは無機質で氷の城を思わせる。門扉は少し開いていた。
「緊急事態ですのでそのまま校内に入って下さい」
 杜さんの指示に運転手が了解、と穏やかに言った。車一台位のスペースを高級外車がするりと抜ける。職員用の駐車場に車が止まった。
「すいません、ちょっとここで待ってて下さい」
 杜さんはそう言って車から降りる。杜さんが小走りで校舎に向かうのをガラス越しに見送った。私も車から降りる。目的地は目の前なのに、新しい服を待つのもめんどうになってきたからだ。パンツについた泥は乾き始めていた。砂の波が広がる。まぁこれもいいアクセントだ、と思いこむ。
「あのぉ」  職員玄関の扉の前で杜さんに追いついた。だが、杜さんは玄関ドアに手をかけたまま動かない。どうしたのだろう? 杜さんが開けたドアの隙間から、様子をのぞき込む。
 目を疑った。広い下駄箱の先。フロアとの段差で宅配業者の制服を着た男が刃物を突きだしている。そして、二メートルほど離れた先に小学六年生くらいの女の子が立っていた。どちらも私達の姿には気づいていない。
「そんなことをして何になるの? 警察に逮捕されるだけよ」
 落ち着いた声で女の子が言う。
「ガキは下がれ」
 男の持つ刃物が揺れていた。女の子は動きを止めた。なんだか、テレビドラマを見ているような錯覚を覚える。だが、凶器を振り回す男に事務員の女性は腰を抜かしていた。ピリピリとした空気がこちらにも伝わってくる。これは現実だ、私は悟る。
「じゃあ、教頭先生に会って何をするの? 殺すの? 復讐か何か?」
 おいおい。女の子の挑発めいた言動にこっちが焦ってしまう。
「はっきり言いなさいよ!」
「うるさい!アイツが……裏切ったんだよ」
 男が一喝する。びくり、と私の体が揺らいだ。挑発に乗った男は自分の身の上を語り出す。
「やりたいことが見つからないならひとまず学校に行けって、ひとまず仕事に就けって。おまえはこれが得意だから、この勉強にこの仕事が向いている。資格をとれば面接も楽だし、給与もいい。俺を信じていればそれでいい、進路を相談した僕にアイツはそう言ったんだ……信じてたのに」
 男は言葉を吐き捨てる。握りしめたナイフに力がこもる。きしんだ、音。
「アイツがねじ込んだ会社は一年もたたず倒産した。しかも、頼ってきた僕をアイツは突き放しやがった。自分で探すことがおまえのためだなんて、今更言うんだ。自分勝手もイイトコだよな。僕だって。思えばあんな仕事イヤだったんだよ。毎日単調な作業で、変わりばえもなくて。」
「だったら最初からイヤだって言えばよかったのに」
 女の子の冷たい指摘に男の感情が揺れる。
「イヤならなぜ自分から動こうと思わなかったの? 逆らうのが怖かった?」
「うるさい!」
 そんなんじゃない、何回もその言葉が繰り返された。嘘を塗り固めるかのように。
「親は僕に期待しているんだ。自分たちは勉強も要領も悪くてバカにされてるけどあんたは違う、自慢の息子だっていつも嬉しそうに言ってる。僕はそんな親をがっかりさせたくなかっただけだ。だから僕ががまんすればそれでいいって……必死に頑張ったんだ。」
 男性の言葉がずしん、とのしかかる。彼の気持ちが分かるような気がした。私もそうだったから。だから今日、私は自分の全てを告白しに来たのだ。
 最悪、女の子の言葉に周りが凍りつく。
「ずっと自分の気持ちから逃げて、ダメだったから他の奴に八つ当たり。お兄さんは人生の責任まで誰かに押しつけるんだ。それこそ自分勝手じゃない?」
 男性の顔がひきつる。女の子の言葉が鋭い刃物となって私の胸に突き刺さる。
「子供が偉そうな事を言うな! おまえに俺の何が分かるって言うんだ!」
「何も分からないわ。巻き込まれたこっちがいい迷惑よ」
「な、なな何ぉお!」
 女の子の挑発に男がしゃくりあげた。私の横で杜さんが一歩前へ出る。
「俺は頑張っているのに、我慢しているのに……どうして!」
 男が女の子に向かってナイフを振り上げた瞬間。杜さんの体が前に傾いた。しかし。
「違う!」
 空気を切り裂く叫び。鳥肌が立つ。鋭い銀色が振り下ろされる直前で男の動きがぴたりと止まった。杜さんの動きも止まった。私は心臓が飛び出そうな思いを押し込めた。声の主を追った。女の子の後方。無精髭を生やして、もさっとした感じに見えるが間違いない。幹先生だ。
「それは頑張りなんかじゃない。人の示した安全な、楽な道を選んでいるだけだ」
 幹先生が問いかける。男に一歩近づく。男がひるんだ。
「俺は楽を選ぶことにとやかく言うつもりはない。けど、自分で選んだ道くらいは自分で責任を持てよ。イヤならイヤでいいよ。そのために家族や他人とぶつかるのは必然なんだから。だけどそれを怖がるな。自分が傷つくことも人を傷つけてしまうことも自分にとって必要なことだ」
「そんなの……そんなのできるわけがない」
 男性が首を横に振る。だだをこねる子供のようだ。幹先生は優しく諭す。
「俺だって傷つくのはイヤだ。誰かを傷つけて悪者になるのもまっぴらだ。怖いよ。でもしょうがないだろ。自分に嘘ついて生きていくのはもっとイヤだからな」
 幹先生は視線を落とす。そして顔を上げた。確かめるように言葉を発する。
「事実に目をそらすな。迷っても、失っても、得るものは必ずある。そうしたら必ず立ち上がることができる。君だって、これからでも素晴らしい人生を歩めるはずだ」
「本当、に?」
「先生はそう信じているけど」
 幹先生が男性に近づいた。ナイフを持っている手を取り、彼の指を一本ずつ開く。金属音が耳に響く。男性は床に座り込むと堰を切ったように泣き出した。解放された悲鳴に、安堵が広がる。その中でも一番ホッとしていたのは男性を責めたあの女の子だった。満足げな微笑み。杜さんはそんな女の子を優しく見守っていた。
 女の子が杜さんの視線に気付いた。杜、と呼ぶ声に幹先生も反応する。そして。
「倉橋……?」
 私がいることに幹先生は初めて気づいたのだった。

               
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