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 6 保健室の姫君(後)

 消すことのできない過去がある。
「お母さんが働いて買ってくれたものだから、大切にするんだ」
 彼女の家は母子家庭で、決して裕福な家とはいえなかった。でも彼女の母親は娘が仲間はずれにならないようにと、彼女に流行のものを買い与えていた。
 しかし、それは全て万引きされたものだった。俺はその事実をうやむやにすることはできなかった。自首を勧めた時の母親の姿は今も忘れられない。顔を地面に伏せたままで、とても小さく感じた。娘にだけは黙ってほしい、何度も繰り返された言葉が耳にこびり付いている。だが俺は自分の正義を貫いた。それが母親を追いつめてしまったのかもしれない。その夜、母親は自殺未遂を起こした。
 原因が娘の彼女に知られた。俺が憎まれるのは当然のことだった。そして噂は巡る。一連の事件はクラス中にあっという間に知れわたった。子供達は大人の複雑な感情を知らない。それ故、純粋で残酷な言葉が彼女へと飛び交った。
「そのノートも盗んだのか? 貧乏人は大変だよな。おまえの母ちゃん、死んじゃってればバレないで済んだのにな」
 はやし立てた男子はちょっとからかうだけだったのかもしれない。だがその発言は俺の神経を逆なでした。気が付いた時、俺は男子を殴っていた。小学生の体はあっというまに吹き飛んだ。ぐったりとした男子にクラス全員が凍りつき、俺は子供達の信頼を失った。そして俺は今の学校へ飛ばされたのだ。
 ふと、人と接するのが怖くなる時がある。自分の考えはまちがっているのではないか? 誰かを傷つけているのではないか? そして誰かに恨まれているのではないか、と。


「その髭」
 ハナコさんが俺のあごを指さす。
「わざとおっさんぽくしていませんか」
 どきりとした。誰もが気づかなかったことなのに。
「身なりを汚くするのは自分を捨てたか開き直りか、あるいは自己防衛の表れ。先生の場合、もとの顔は良さそうだし服のセンスいいから自己防衛って感じですね。人を寄せ付けないようにしているみたい。ま、性格とは正反対の行為で屈折してる、って感じですけど」
 汗がじわり、と浮かんだ。ハナコさんは鋭いところを突いてくる。静かに見つめる大きな目は全てを見透かされそうな感じだ。俺はさりげなくハナコさんから視線をそらす。
 例の一件以来、俺は度々保健室を訪ねるようになった。まぁ、一度は気にしないようにと思ったのだがそう思うと余計に気になり……欲望に負けてしまった。やっぱり俺の性格なのかな。こうなったからには仕方がない。俺はハナコさんをとことん観察することにした。
 ハナコさんは黙々と勉強を進めている。側には読みかけらしきハードカバーの本もあった。ちょっと気になったので本を手に取ってみる。
「うわ。こんなの、よく読む気になるな」
 内容は俺が敬遠しそうな時代小説だった。というか、図書室にない本ではないか。本を開くと千代紙で作られた人形のしおりがひらひらと舞い降りた。机の下へすべりこむ。ハナコさんが俺を睨みつけた。
「人の物を勝手に持ち出さないで下さい」  俺は肩をすくめた。ハナコさんが机の下に潜る。と、どこからか携帯の着信音が鳴った。刹那、「がん!」という音が響く。まさかと思う。三秒後、しおりを左手に持ち後頭部を右手に押さえたハナコさんがゆっくりと立ち上がった。痛みに耐えているのか、頬が紅潮している。着信音はすでに止んでいた。
「今の着信、モリくんからのメール?」
 保健室のキッチンにいた岸谷先生が顔をのぞかせた。モリって、ああ。俺は前に聞いた岸谷先生の話を思い出した。トリビアを見つけた時の新鮮さが俺を取り囲む。ハナコさんがふてくされた顔をした。きっと俺の顔がにやけていたからだろう。
「まぁまぁ、いいことじゃない」
 俺はハナコさんの後頭部をさする。ちょっと動物を可愛がるように。
「それ、セクハラになりますよ」
 少し間を置いてからぽつりと呟くハナコさん。冷たい声。怒らせたかな? 俺は慌てて手を引っ込めた。だが、ハナコさんは怒るというよりは神妙な顔をしている。頭を打ったせいでモリくんからのメールを見ることも忘れてしまったようだ。悪いところでも打ったのだろうか。
「ハナコさん。そろそろ帰る時間じゃない?」
 岸谷先生が時計を指す。もうすぐ昼休みの時間になろうとしていた。
「ハナコさんは明日お休みするのよね」
 岸谷先生の問いかけに、ハナコさんが俺を見る。少し間を置いた後、
「いいえ。明日も来ます」
 と、答えた。何だ? 今の間は。
「明日は朝十時から全校の防災訓練をやるから登校時間少しずらしてね。みんな校庭に出ちゃうから」
 ハナコさんはランドセルを背負うとさようならと、俺たちに挨拶をする。
「幹先生もまた明日。玄関で会いましょう」
 と、不思議な言葉を残して。

「じゃあ室町時代のおさらいテストをします。簡単だから十五分で回収するぞぉ」
 午前九時四十分。いつもと変わらない社会の授業の小テスト。俺は児童の席を歩き回るついでに外の様子を伺う。朝方に降った雨のせいであちこち水たまりができていた。避難訓練に影響はないという。
 ハナコさんはもう登校しているのだろうか。昨日ハナコさんに言われた言葉が気になっていた。「玄関で会いましょう」何故ハナコさんはあんな事を言ったのだろうか。ぼんやりと考えていた。その時だ。
 けたたましいベルの音に全員の体が揺らぐ。予定よりも早すぎる知らせに俺は驚いた。 しかも。
『地震発生。児童のみなさんは速やかに裏庭へ避難して下さい。繰り返します――』
 案内放送が校内を駆けめぐった。みんなにとっては聞いたことがない声。だが俺には聞き覚えがありすぎる。校庭に避難する予定を見事狂わされた。
「昨日の仕返しかよっ」
 思わず言葉を吐く。こっちは真面目に取り組まなきゃならないってのに、何を考えているんだあの姫様は。俺は一回舌打ちをした後で、頭を切り換えた。仕方がない。ひとまず児童を外へ誘導しなくては。俺は教室の扉を開け、生徒を促した。
「ここで動揺したら示しがつきません。放送通りに行きましょう」
 廊下で戸惑う先生方にはそう囁いてなだめた。数分も待たないうちに、裏庭につながる渡り廊下を児童たちが駆け抜けていく。俺は全員が目的地に向かったことを確かめてから、踵を返した。
 ハナコさんの言葉を思い出す。きっとあそこにいるに違いない。
 案の定、ハナコさんは職員玄関から少し離れた廊下の隅にいた。何かをのぞき込んでいるようだ。
「一体何をやっているんだよ! あんたは」
「しっ」
 ハナコさんは自分の口元に人差し指をあてる。俺はハナコさんの視線の先を追った。死角になる壁から職員玄関の様子をのぞき込む。
 配達員の男が荷物を届けに来ていた。事務員の女性が対応している。
「すみません。この荷物、本人確認が必要なんです。教頭先生、いらっしゃいますか」
「申し訳ございません。教頭はただいま避難訓練の指導中でして――」
 ひっ、と事務員の声が裏返った。きらりと光る包丁に緊張感が走る。
「き、教頭を呼べよっ! でないとこいつを、ぶぶぶぶっ殺すぞ」
 きっと男の血圧は緊張で急上昇しているのだろう。俺の血圧も上がっている。思わず飛び出しそうになった。だが、ハナコさんが俺の服をしっかりと掴んで離さなかったため、身動きが取れない。
「落ち着いて」
 その声は穏やかな海を思わせる。
「のんびりしてる場合じゃないだろ。ってか、あれもあんた狙いのヤツなのか?」 
「違う。教頭に個人的な恨みをもっている卒業生」
「はぁ?」
 何故そんなことが分かるんだ? 俺はハナコさんをまじまじと見つめる。
 ハナコさんは襟元についている盗聴器のバッジに向かって囁いた。
「五分待って。説得してみる。こっちにも先生がいるから大丈夫。ダメだったら五分後に突入して」
 先生、って俺のことかい?
「さ、幹先生。行きましょうか」
 ダンスにでも誘うかのようにハナコさんが手を差し伸べる。俺は思わず手を取ってしまった。

               
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