backtopnext


 3 眠れる世界

 体温計が三十九度を示している。カゼをひいても熱とは全く無縁だった私は絶句した。
「どうりで体が動かないと思った」
「そういう問題じゃないと思うけどなぁ、アオイさん」
 担任の幹先生があきれた顔をする。中途半端に伸びた無精髭に手を当てていた。まだ三十前だというのにお尻をかく姿は私のパパ以上にオヤジくさい。隣にいる保健の岸谷先生と並んだら美女と野獣もいいところだ。
 それにしても。昨日夜中までチラシを作っていたのがまずかったなぁ。おそらくそれが熱を出した原因かな、と思う。
 <ハナコさんそうさく隊員より。ハナコさん情報をぼしゅうしてます>
 うちのクラスでもハナコさんの話題で持ちきりだった。その中でも今注目されているのは、ハナコさんは実際に生きている、というウワサだ。それを調べるべく、クラスの何人かで探検隊を結成した。こんな楽しい事、もちろん先生にも秘密だ。
 授業開始のチャイムが鳴った。幹先生はベッドに私が横たわるのを確認すると、さっきお尻をかいた手を私の額に乗せる。最悪。けど、だるさで叫ぶ気力もない。
「ひとまずご家族に電話して迎えに来てもらうから、それまでここで寝てなさい。じゃ、先生。また来ますんで」
 幹先生が保健室を出て行く。静けさが私を囲んだ。体が鉛のように重い。熱があると知ったら天上も歪んで見えてきた。病は気からなんて言葉は本当だったんだな、と思う。そして。
 ぷつん、糸が切れたように私の意識は突然途切れた。

 目を開けると私は校庭にいた。幹先生と岸谷先生が私を挟むようにして腕を抱えている。何でここにいるのだろう。幹先生に聞くと、
「お前が外で待つって言うからついてきたんだ。最近は物騒な事件が多いからな」
 と、言われた。
 しばらくして一台のワゴンが減速して近づいてくる。
「あの車か?」
 幹先生が聞いてくる。うちの車と同じ色。私はうなずいた。車は私達の目の前でぴたりと止まった。熱のせいだろうか、いつもよりエンジンの音がうるさいような気がする。それに鼻につく排気ガスの匂い。ウチの車ってこんなすごかったっけ? 疑問がわき上がる。答えはすぐに分かった。
 岸谷先生が車の扉を開けた瞬間、無数の手が私の服を掴んだのだ。私を車の中へ引きずり込もうとしている。きゃ、鋭く叫んだ私を本能的に引き留めたのは幹先生だった。状況を把握した不審者はすぐさま私から手を離そうとした。だが、幹先生の手は不審者の腕をすでに掴んでいる。勢いが良かったのか、先生達は不審者ごと私を釣り上げてしまった。
「逃がすかっての!」
 地面にたたきつけられた不審者は幹先生の手から逃れようとする。腰に下げているナイフを取り出した。きらり。刃の輝きが左から右へ移ると同時に幹先生の表情が歪む。
「幹先生!」
「岸谷先生、彼女を頼みます!」
 幹先生が私を思いっきり突き飛ばした。くらり、私はめまいに似た感覚を覚える。岸谷先生は私を受け止めるとかばうように抱きしめる。私の心臓がいつもより早く走った。自分の体が震えている。一体何が起こっているのだろう。今更ながら思ってしまう。
 私は岸谷先生の脇のすき間から幹先生と不審者の戦いを見守っていた。不審者の腕を取り、ナイフを手から離す幹先生。だが、白い車から仲間らしき人物が二人降りてきた。幹先生に押さえられた仲間を助けようと、バットのようなモノをふりかざす。
「あぶない!」
 私が思わず声を上げた、その時だ。
 巨大な影が私の後ろから現れた。手には大きな銃を持っている。戦場で着るような服をまとったその人は、自衛隊とか、軍人を思わせるいでたちだった。校舎から、茂みの中から、壁を乗り越えた外からも同じような人達がぞくぞくと現れる。
 彼らはあっという間に幹先生と犯人の間に割り込んだ。一人が幹先生を不審者から引きはがして、ぽいっと放り投げる。じゃれついた猫を追い払うかのように。そして不審者もあっというまに取り押さえられてしまった。車の中にいた仲間らしき人物達も彼らによって引きずり下ろされた。私の熱が更に上昇する。
「確保ぉっ!」
 彼らの中でも一番の大男が声を張り上げた。そしてその声を合図に校舎からこちらに近づいて来る人がいた。大男がその人物に敬礼をした。やってきたのは女の子だ。しかも私と同じくらいの背の高さの小学生。女の子は落ち着いた口調で大男に問いかけた。
「黒幕の手がかりはあった?」
「野党の過激派と思われます。腕章がありました。あらかじめ網を張っておいて正解でしたね」
 大男がにやりと笑う。女の子がため息をついた。
「やっぱりきたか……首相に会ったのが失敗だったなぁ」
「偶然とはいえ、生徒さんと先生方を巻き込んでしまいましたが」
「こちらは私と先生でなんとかします。数名は犯人たちを警察に引き渡して他は持ち場に戻って下さい。あと、このことは彼に伏せておいて。心配かけたくないから」
「はい」
 女の子の指示通りに彼らは動き出した。十秒後には車はどこかへ走り去り、沢山いた彼らも校庭の茂みに消えてしまった。排気ガスの匂いと女の子だけが取り残される。静けさが辺りをとりかこんだ。まるで何もなかったかのように。
「ハナコさん……」
 静けさを破った岸谷先生の一言は弱々しいものだった。だが、私の体がぴくりと反応するには充分だった。ハナコさん、ってあのハナコさんのことなのだろうか。一気に熱がひいた。
「一体どうなっているんだ?」
 幹先生も呆然としていた。服は砂まみれ、腕からは赤い血がにじみ出ている。だが、幹先生は傷の痛みより突然現れた女の子の方が気になっているようだ。幹先生は怪訝そうに女の子の顔を見つめた。
「君は誰だ? ウチの児童じゃない、よな」
 私の体を電流が通ったような震えが襲う。それってやっぱりハナコさんじゃないのか? ハナコさんは私に近づいた。私は思わず身構えてしまう。そんな私にハナコさんは優しく微笑んだ。
「怖い思いをさせてごめんなさい。でももう大丈夫だから」
 ハナコさんの手が私の瞼に触れた。心地よい冷たさ。私は思わず目を閉じた。ゆっくりと意識が遠のく。
「これは夢だから」
 ハナコさんの言葉が私の体にしみわたっていった。

 私が目を開けると、見慣れた風景が飛び込んできた。学校の保健室。体の寒気は抜けていた。汗を吸収した服がまとわりついて気持ち悪い。
「気が付いたか?」
 側にいたのは幹先生だった。私はうなずく。だがすぐに我に返った。今までの出来事が走馬燈のようによみがえる。
「先生は? 大丈夫なの?」
「何が?」
 幹先生は私が誘拐されそうになった時、犯人と取っ組み合いになってケガをしたはずだ。服も切れてしまったはず。しかし幹先生の服は新品のように綺麗だ。私は先生の腕を掴むと服をまくった。だが治療のあとどころか傷すら見つからない。いったいどういう事なのだろう。それとも。
 今までのは全部夢だったということ?
「どうした?」
 幹先生の声と一緒にため息を漏らした私。夢でよかった、とも思う。だがちょっと勿体ない気分だった。だって。
「ハナコさんの顔、ちゃんと見ておけばよかったぁ」

               
backtopnext