過去編 〜ニシの事情〜
1 ヤツは何にも分かっていない
バイト前に店のショーウィンドウを覗いていると、何をしている、と声をかけられた。振り返るとニシが立っている。
「最近付き合いが悪いと思ったら、こんな所にいたのか」
その台詞に私はあんたとつき合った覚えはないんですけど、と毒を吐く。ニシがうっ、と言葉に詰まった。これでHPが10ほど削れたか? と思ったがそうは問屋が卸さない。
で、何を見ていたんだ? とすぐに復活したニシが聞いてくる。いつもだったら絶対に教えない所だけど今日は機嫌が良かったので教えることにした。
私は店頭に飾られた商品の一つを指す。
さっきからずっと見ていたのは女物の腕時計だ。円盤で文字は銀色、背景は薄いピンクで覆われている。ベルトもチタン製で上品な仕上がりだ。
「型落ちだが、なかなかのセンスだ。さすが俺の親友」
ニシの評価には余計な単語が多かったが、それをスルーし、そうでしょそうでしょ、と私は頷く。
この店の前を通った時、一番に目を引いたのがこの時計だった。たぶん、一目ぼれだったんだと思う。
私が目をきらきらとさせながら時計を眺めていると、ニシが不思議そうな顔をした。
「買わないのか?」
「え?」
「たかが時計だろ? 欲しいなら買えばいいじゃないか?」
私は頬をひきつらせる。そりゃあ金持ちのニシにとって五桁の金額は「たかが」な物だろう。でも私にとっては高い買い物なのだ。
私はこの時計を手に入れるために今まで週三だったバイトを週五に増やした。土日は朝から晩まで詰めて、がむしゃらに働いた。
あと一週間で給料日だ。お金が振り込まれたら速攻で買いにいく。
時計ちゃん待っててね、すぐに迎えにいくからね。
私は心の中で呟くとにっこりと笑う。
「じゃ、私バイトだから」
私はニシに手を振ると、軽い足取りでバイト先へ向かった。
次の日、バイト前に店を覗くと、ショーウィンドウに飾ってあった時計がなくなっていた。
私は硝子にはりつく。どこかに移動したのかと思ったけど、何度見てもない。
その時丁度店の人が出てきたので、私はあの、と声をかけた。
「ここに飾ってあった一点ものの時計、売れちゃったんですか?」
「ああ、あれねぇ」
店員は私の顔を覚えていたのか、ばつの悪そうな顔をする。それでも正直に話してくれた。
今日の昼間、若い男が買っていったらしい。高校生なのにブラックカード出され、店員は仰天したのだとか。
その話に私は凍りつく。そんなことができるのは私が知っている中でただ一人だけだ。
その後のことは記憶にない。あまりのショックでどうやってバイト先にたどりついたのか、そこで何をしたかも覚えていない。
のろのろとした足取りで帰途につくと家の前に黒塗りのベンツが停まっていた。扉が開く。私の目の前に現れたのはニシだ。
「親友よ、待っていたぞ」
「……何の用?」
「おまえに渡したいものがある」
そう言って差し出されたのは小さな紙袋だった。見覚えのある店のロゴに私は眉をひそめる。
「開けてみろ。きっと喜ぶ」
「いらない」
私は即答する。今はその顔を見るのも嫌だ。
「変な物が入ってるわけじゃない。中身は――」
「時計でしょ? 昼間買ってったんだって?」
「だったら早い。じゃあ受け取れ」
「いらないって言ってるでしょ!」
私はニシの手を払った。紙袋がニシの手から離れ地面に落ちる。
私の拒否っぷりにさすがのニシもキレたらしい。なんだよ、と言葉を荒げる。
「ずっと欲しかったんだろ? だからお前の代わりに買ってやったのに。なんで断る?」
「そうね。簡単に買えるあんたには、私の気持ちなんて絶対わかんない!」
私は言葉を吐き捨てると、ニシに背を向けた。鍵を差し、家の中に入る。拳が震えた。こみ上げてくるのは悔しさばかりだ。
ニシは私の気持ちを踏みにじった。
ヤツが放つ親友なんて言葉は偽善だ! ヤツは何にも分かっていない。
確かに私はあの時計が欲しかった。
でも私は自分の稼いだお金で買いたかったのだ。
努力して手にした証が欲しかった。自分への褒美が欲しかった。
それなのに――
あまりにも悔しくて私は鞄を床に叩きつける。それでも気は一向に晴れなかった。