甲斐はちょっとすみません、と言って席を外す。
 その間、あいりは残っていた酒をゆっくりと飲みながら今後のことを考えていた。やがてカウンターの向こうからあいりちゃん、と親しげな声を聞く。どうやら店のマスターが長い休憩から帰ってきたらしい。
「どうしちゃったのその格好」
 昼間とは違い、スーツで決めたあいりを見てマスターがぽっかりと口を開ける。あいりはまぁ色々ありまして、と言葉を濁した。話題を逸らそうとジントニックを頼む。
 マスターは慣れた手つきで氷を砕き、予め冷やしておいたグラスの中へ入れた。冷蔵庫からドライジンとトニックウォーターの瓶を出した後、カウンターに置いてあったライムを手にする。流しで丁寧に洗 った後、ナイフでカットし、氷の入ったグラスに果汁を絞り入れる。酒ができるまで、あいりは自分の携帯を開いていた。ネットにつなぎ、音楽サイトを検索する。比較的有名な所を選んでトップページに入ると、欲しかった情報が目に飛び込んできた。
 相当な売れ行きなのか、特集のバナーまで作られている。あいりはバナーをクリックすると、その中で先月発売された曲をダウンロードする。携帯が自動的に曲を保存すると、マスターのお待たせしました、と言う声が聞こえた。
 あいりは小さくお辞儀をすると、携帯の操作を止めグラスに口をつけた。マスターの作るジントニックは女性やアルコール感が苦手な人でも比較的飲みやすいよう、やや甘口に作ってある。グラスに残る氷はいびつでそれぞれの形は違うけど、趣があって美しい。ライムの爽やかな香りが今日の暑さをじんわりと溶かしていく。思わず笑顔が浮かんだ。
「マスターの作るジントニックはいつ飲んでも美味しいですね」
「それはどうもありがとう。で、アキちゃんは見つかった?」
 マスターの真剣な顔を見て、あいりは少し困ったような顔をする。テーブルに置かれたままの猫をちらりと見てからそれがまだ、と小さく呟いた。
「衣咲の言ってたバーとか、心当たりありそうな人の所は行ったんだけど……そこにはいなくて」
「そっか」
 嘆息するマスターを見て、あいりは目の前にアキの携帯があることを話すか少し悩む。話すとするなら甲斐が一緒にいる時がいいだろうとあいりは思う。
 あいりは店の外をちらりと見た。甲斐が戻ってくる気配はない。そわそわしながら待っているとマスターの視線は自然とあいりの携帯に移っていた。
「珍しいね。ここで携帯いじるなんて」
「そうですか?」
「ここに来るとよく携帯の電源切ってたじゃない。そうしないと自分の時間が確保できないって」
「ああ」
 そういえばそうだったな、とあいりは思い出す。
 刑事課に配属された当初、あまりの忙殺ぶりにあいりはげんなりとしていた。そして休日でも仕事の電話がかかってくる。あまりにもひどいので、ある日一晩だけ携帯の電源を切ったら上司から連絡があって、翌日こっぴどく叱られたことがあった。なのであいりは本当に仕事から解放されたい時――休日の一時間だけは電源を切るようにしている。
 あいりはこの店に入ると、携帯の電源を必ず落としていたことを思い出した。今日もランチの時間は切っていたのだが、思いがけず甲斐と待ち合わせることになり、更に調べたいことがあったので今は電源を入れていた。
 マスターは冗談半分であいりに尋ねる。
「彼氏にメールでも打ってた?」
「いやいやいや。音楽をダウンロードしてただけですよ」
 それを証明するかの如く、あいりは携帯を操作した。流れてきたのはtooyaの「光と影」だ。ピアノの美しい旋律が小さなスピーカーから流れてくる。
「衣咲に聞いたら、この人の曲が人気あるとか」
「へぇ……」
 マスターは携帯から流れる音楽にしばらく耳を傾けていた。最初は穏やかな表情でいたが何回かリピートされるうちにマスターの眉間のしわが寄っていく。最後にはううん、と唸り始めたのだ。
 あいりは携帯の音を止める。
「どうしました?」
「このメロディ、ずっと前に聞いたような気がしたから……」
「テレビとかラジオで聞いたとか?」
「いや、そうじゃなくて」
 マスターはそう言って考え込む。たっぷり十秒おいたあとでああそうか、と納得した声をあげた。
「アキちゃんがここで弾いてたんだ」
「え?」
「ライブが始まる時、ピアノの音合わせのかわりにその曲を弾いてたんだよ。だいぶ前のことだから忘れかけてたわ」
「だいぶ前って――いつ?」
「ええと、春の新しいメニュー考えてた頃だから……三月のはじめくらいかな?」
 マスターの話にあいりは口を結ぶ。ふっと、とんでもない想像が下りたからだ。
 まさか、とあいりは呟く。
 もともとアキはtooyaに憧れていた。彼の曲は何度も聞いていたに違いない。熱烈なファンならメロディパターンも熟知していただろうし、曲を作ったら雰囲気がかぶることもあるだろう。あいりはそう自分に言い聞かせた。だが、一度湧いた想像はなかなか消し去ることができない。
   あいりは思った。もし、自分の想像が正しいとすれば――アキと連絡が取れなくなった理由がつく。でも、それはあくまでも推測であって確実な証拠はないのだ。
「ねぇマスター」
 お願いがあるんだけど、あいりはそう言ってマスターにひとつ頼みごとをした。マスターはじゃあバンドの仲間に聞いてみるよ、と言って店の奥へと足を運んだ。
 あいりは手元のグラスを傾ける。カラカラになった喉をライムのお酒で少しずつ潤していると、甲斐が神妙な面持ちで戻ってきた。