数時間ぶりに店へ戻ると、店員があいりを快く迎えた。
「おかえりなさいあいりさん。ワンコちゃん、お待ちですよ」
 その言葉にあいりは苦笑する。ゆっくりと店内を見渡すと、店員が言ったとおり甲斐がカウンター席に座っているのが確認できた。さっきあいりが座っていた席でウーロン茶をちびちび飲んでいる。
「甲斐くん、お待たせ」
 あいりが近づき、声をかける。すると甲斐は、ああ瀬田さん、仕事お疲れ様です、と挨拶をしたした。まるで仕事帰りの人間をねぎらうような台詞にあいりは首を横にかしげる。何でそんな風に聞かれるのかと一瞬思ったが、今自分がスーツを着ていることをすぐ思い出してああ、と納得する。でもいちいち説明するのも何なので、そこは省略する。
「ごめんね。急に呼び出して」
「別に大丈夫ですよ。今日は非番ですし」
 そして下戸の甲斐はお茶を口につける。半分まで飲んだ所であいりは事の経緯を説明した。
 甲斐が拾った携帯の持ち主である安芸翠という女性がここ最近消息を絶っていること。一週間前、ピアノの弾き語りをしていたバーで客と揉めたこと。その客は音楽関係者で、彼女の才能を認めていて、デビューさせようとしていたが、その契約内容に行き違いがあったらしいこと――
 それらをかいつまんで説明したあとで、あいりは一度言葉を切る。目の前に出されたサワーをを一口飲んで喉を潤した。
「彼女の消息はそこで途絶えたんだけど、そんな時に甲斐くんから電話があったわけ」
 それはまさに偶然の悪戯だったとあいりは思う。事実、そのおかげで閉ざされた道に風穴が開いたのだから。
 甲斐はあいりの話にそうなんですか、と呟く。
「甲斐くんはその携帯、どういういきさつで見つけたの?」
「ええと、それが――」
 甲斐はあいりをちらりと見た後に体を委縮した。口をもごもごさせ、何かを躊躇う仕草。そわそわした動きにあいりはどうしたの? と声をかける。
「携帯拾ったんでしょ? なんか迷い猫探してたって言ったけど」
「ええっとその、事情がちょっと複雑でして」
「何か、良からぬ方法で手に入れたとか?」
「いいえ、そんなことは。ただ」
「ただ?」
「その、最終的には犯罪になっちゃうのかなーという感じでして」
「まどろっこしいなぁ。とりあえず話聞くから、包み隠さず話して。ヤバイかどうかの判断はあとでする」
 さあ、とせかすあいりに、甲斐はわかりました、と頷く。
「ええと、まず最初に。これがアキさんという人の携帯なんですけど――」
 そう言って甲斐が出したのは、もこもこした毛玉にくるまれている携帯電話だった。携帯を大事そうに抱える猫の姿にあいりはあら、と目を輝かせる。可愛い、という言葉が思わずこぼれた。
「何これ、すっごい癒されるーーっ」
 あいりは携帯を手にとってみた。
「これ、カバー? おなかの部分はクリーナーになってるんだ。うーわー可愛い。欲しいなぁ。これ、何処で売ってるんだろう」
 くっついてるぬいぐるみを取ったり外したりするあいりは楽しげだ。あいりが携帯に夢中になってしまったため、甲斐の話は出鼻からくじかれてしまう。
「あのぉ、瀬田さん?」
「え?」
「そろそろ話をしてもいいでしょうか?」
「は、はい。そうだったわね」
 あいりは我に返る。自分のはしゃぎっぷりに赤面した。アキの携帯をテーブルの上に戻すと、緩んだ顔を手で戻した。呼吸を整え、余計な感情を払拭する。
 あいりが可愛いもの好きだということは、実は周りにあまり知られていない。そのいでたちや男気たっぷりの性格に周りもそういった結びつきは考えられないらしく、刑事になってからはあいりも意図的に隠していた。今自分の趣味を知っているのは、以前の捜査でたまたま知ってしまった甲斐ひとりだけ。もちろん衣咲に知られるなんてご法度だ。
 衣咲の前でこんな反応したら、きっとそれを山のように集めてくるだろう。そしてそれをネタに自分を懐柔しようと企むのは目に見えていたので、あいりは極力隠していた。
 甲斐はこっそり息をつくと、ええとですね、と改めて話し始める。
「僕は最初、アパートの大家さんから近所に迷い猫がいるらしいって聞いて。鳴き声が気になるから探してほしいって頼まれたんです。猫の鳴き声がしたのは民家の――って言っても売りに出されてる家なんですけどね。そこから聞こえまして」
 そう言って甲斐は家の間取りを説明する。相変わらず甲斐の説明はたどたどしかったが、要所を拾うと、どうやらそこには地下室があり、その換気口から猫の声が聞こえてくるのを甲斐は確認したのだという。
「このままだと猫が死んじゃうかもしれないって思って。外側から換気口に入ろうとしたんですけど、蓋が閉まってて内側からじゃないと駄目で。だから売主に連絡して鍵開けてもらうよう頼んだんですよ。でもその売主の人ってのがすごく変で怖い人で。事情を話しても鍵を貸してくれなかったんです。
 それで一旦家に戻ったんですけど、そのあともう一度その家に行って、家の前で道路工事していた人の力を借りて、その蓋を開けてもらったんです」
「つまり、外から壊して侵入したってこと?」
「壊してはいないけど、まぁそういうことです。で、中に入って探したら猫のかわりにこの携帯が出てきまして。そしたら工事の人が持ち主探すのに電話かけ始めちゃって」
「そしたら私に繋がった――と」
「はい」
 甲斐の話をひととおり聞き、あいりはそっか、と呟く。背中を丸め、頬づえをついた。テーブルに置かれた猫を見つめながら考えを巡らせる。重要なのはアキの携帯が何故そこにあったかという所だろう。
 ひとつの可能性としては、その家にアキが一度訪れたということだ。そして何らかの理由で携帯を手放した(落とした)ということになる。その仮定が正しかった場合、家がいつから売りに出されたかが鍵となる。そして売主が誰かということも。
「甲斐くん。その家、いつから売りに出されたのか分かる? あと売主の名前とか」
「売りに出された時期は知らないですけど、売主だったら表の貼り紙にかいてありましたよ。長島さん、とか。そんなことよりも、教えてくれません?」
「え?」
「え? じゃないですよ。さっき言ったじゃないですか。『ヤバイかどうかの判断はあとでする』って」
 僕、罪に問われるんですかねぇ。甲斐はそう呟くと肩を落とした。今にも泣きそうな――まさにしょげた犬の雰囲気にあいりは推理を中断せざるを得ない。
 あいりの判断で言うなら甲斐は不法侵入と器物破損、個人情報略取の疑いがある。更に深く突っ込めばその罪は甲斐を手伝った工事現場の人物にも当てはまる。
 だが猫を助けたいという正当理由があり携帯も善意でかけた故、それらが完全に適用されるかというと判断は難しい。甲斐のしたことは犯罪や法令に抵触する行為とは言い難く、ぶっちゃけていえば確保した警察官の裁量によって逮捕か厳重注意かが決まるといった所だ。それに――
 この時、あいりの脳裏には中上の言葉が浮かんでいた。甲斐が何か困っていたら助けてやってくれと。借りを返すなら今のかもしれないとあいりは思った。
「まぁ、この話は私の胸だけにおさめておくわ。くれぐれも口外しないでね」
「ということは――無罪ですかっ?」
「厳重注意ってことよ。今度から気をつけてね」
 あいりの言葉に甲斐の顔がぱあっと明るくなる。見えない尻尾がぱたぱたと揺れた。
「ありがとうございますっ。この借りはいつかお返ししますから。というか、何か奢りましょうか?」
 その聞いたことのある台詞にあいりは思わず苦笑する。
「別にいいわよ。私は借りを返しただけだから」
「え? 僕、瀬田さんに貸しありましたっけ?」
 その時、甲斐が自分の胸元に手を当てた。甲斐の持っていた携帯が震えたのだ。