駄菓子屋でアイスを買った後、超特急で楓を大家の元へ送り届けた甲斐はその後、暑さと慣れない運動のせいで貧血を起こした。次に目を覚ました場所は大家の家の一室で、大家からは相変わらずひ弱な体だねぇとのっけから苦言を吐かれた。
「こんなんじゃ嫁の貰い手もつかないわ。アンタ、もっとしっかりしなさいよ」
 甲斐は余計なお節介だと思いつつも、はぁ、と返事をする。そして楓からは猫は? いつ猫ちゃん助けるの? とせがまれた。
 結局甲斐が再びあの家を訪れたのは夕方五時を回ってからだ。甲斐は暑さの和らいだ道をゆっくり歩く。家の前の工事はだいぶ進んでいて、今日の仕事は終わったらしい。工事現場にいた男たちは片づけを始めていた。
 不審がられても仕方ないので、彼らがいなくなったら行動に出よう、甲斐がそう判断した矢先だった。工事現場にいた男の一人が甲斐に近づき、声をかけてきた。
「よぉ。さっきここにいた兄ちゃんじゃねぇか」
 五十代前半とおぼしき男の言葉に甲斐はえぇ? と声をしゃくりあげる。
「さっき子供背負って勢いよく飛び出していったろ?」
「げ、さっきの見てましたか?」
「そりゃ真っ青な顔してたからなぁ。何かあったのか?」
「ええとその。実は迷い猫を探してまして――」
 その時、甲斐の耳にみゃあ、という声が届いた。
「今、鳴きましたよね?」
「鳴いてたな」
 甲斐は工事の男から離れると、再び家の敷地に足を踏み入れた。あの鬼畜な売主の姿がいないか念入りに確認しながら声のする方へ向かう。鳴き声は何回かしたあとでぴたりと止まった。たどりついた所はやはり地下の換気口のあたりだ。
 甲斐は持ってきた工具箱を地面に置いた。グレーチングの蓋を改めて見据え、つくりを確認する。だがボルトの位置も良く分からず、どうすれば外れるのかも分からない。甲斐が口をへの字にして考え込んでいると、
「ふーん。ここにその迷い猫がいるのか?」
 気がつくと、工事現場の男が後ろにいた。顔に滴る汗をタオルで拭いながらグレーチングの下をのぞきこんでいる。
「こんな所に猫が迷ったら助けるのも骨折りだろうに。あ、あそこの窓から出られるじゃないか。この家の鍵借りて家の中に入るってのは?」
「それが、売主の人に連絡したらちょっと――」
「無理なのか?」
「せめてこの蓋が開けられればなんとかなるかと思ったんですけど」
「なら俺がその蓋はずしてやろうか?」
「え? できるんですか?」
「蓋開ける位ならなんてこたねぇよ。仕事でよくやってるし」
 工事現場の男の言葉に甲斐はそういえば、と思い出す。歩道を作る時は道の脇にある側溝の整備も行われることが多い。つまり工事現場の男にとって側溝の蓋開けなどたわいもないことなのだ。
 思いがけない幸運に甲斐の心は晴れやかになる。早速彼にお願いすると、持ってきた工具を渡した。
「ああ、兄ちゃんの持ってる家庭用の工具じゃ使いづらいんだ。俺の道具持って来るから待っててな」
 そう言って工事現場の男は一分もたたないうちに、長いスパナと太い針金二本を持って戻ってきた。
「外すのは一枚分でいいかな」
 そう言って男性は一番隅にある蓋に手をつける。ボルトが締まっている部分にスパナを当て力を込めて捻ると、軋む音とともに部品が動きだす。ネジの緩みを感じとった男はそのあと小気味よくスパナを回した。あっという間にボルトを外すと、今度はフックのついた太い針金を両手に持つ。カギの部分をグレーチングの升目に引っかけ上に持ち上げると、金属の重々しい音とともに蓋が開いた。
 蓋の下に広がる世界を覗いた甲斐はごくりと唾をのみこむ。すぐ下に錆びた鉄の梯子があったので、甲斐はそれを伝って降りた。地面に足がついた所で一度マスクを外す。土と埃とほんの少しのアルコールが鼻腔をくすぐる。
 甲斐が降り立った小さな空間は部屋の換気と、地下室の湿気防止のために設けられた、いわゆるドライエリアと呼ばれる場所だった。そこは人が二人ギリギリ入れるかどうかの幅で、高さも甲斐の背より少し高いくらいだ。
 甲斐は四つん這いになりゆっくり進む。薄暗い中を進んでいくと先ほど見つけた小さな窓の近くで柔らかい「何か」にぶつかった。よく見ればくすんだ色の毛玉が地面に転がっている。小さな三角の耳が二つあるのを見つけ甲斐は安堵した。壊れ物を扱うように、両手で丁寧に持ち上げる。だが――
 甲斐は首をかしげた。持っている腹の部分が非常に固い。それに、動物の体温も獣らしき独特の臭いもしない。甲斐は猫の体をくるりとひっくり返す。小さな腹が出てくるかと思われたはずの場所にあったのは携帯電話ではないか。
「何だこれ!」
 甲斐は思わず叫んだ。声を聞きつけた工事現場の男が上から、どうした? と聞いてくる。
「猫がみつかったのか?」
「いや、それがその……」
 何ともいえぬ気持ちで地上に戻った甲斐は自分の戦利品を見せる。地下の空洞から出てきたものに工事現場の男も呆れていたが、まぁ、猫の死体じゃなくよかったじゃないかと笑った。
「せっかく手伝って頂いたのに――なんだか申し訳ないです」
「別にいいってことよ。それにしても良くできてるなぁ。最近はこんなのが流行りなのかねぇ」
 携帯にひっついた猫のぬいぐるみを見ながら工事現場の男は言う。まるで大事な物を抱きしめるように存在するそれはおそらく携帯のカバーの一種なのだろう。そして電話かメールの着信音もそれに合わせて猫の声にしたのだろう。種を明かせば何てことない話だ。それでも、楓の気がかりが減っただけでも探しがいはあったと言えよう。
 甲斐はその手伝いをしてくれた工事現場の男に改めてお礼を言う。
「この携帯は明日、仕事ついでに拾得物の届け出しときますね」
「そうか。でも昼休みとかに交番行ったりするのは面倒だろう?」
「そんなことないですよ」
 僕、こっちが本職ですし――と甲斐は言おうとして、はっとする。工事の男がおもむろに携帯を操作し始めたのだ。
「ちょ、何してるんですか」
「何って。持ち主に連絡いれるんだよ。電話帳とかに家族の携帯番号とか登録してるだろ? こういうのは早く知らせないと向こうも困っているだろうし、直接連絡した方が手間も省けるって」
「いや、それはこっちが困るんですって」
 甲斐は思わず声を上げた。甲斐が慌てたのにはちゃんと理由がある。携帯を拾った場合、拾得者はもちろん、警察も携帯の内容を見ることは基本禁じられているのだ。
 このままだと警察は持ち主が現れるのをただ待っていると思われるかもしれないが、決してそういうわけではない。警察は機械に内臓されているチップの番号を携帯会社に伝えることになっている。そして情報を受け取った携帯会社がチップから携帯番号を調べ持ち主に連絡し警察に取りに行くよう促すのである。
 だから工事の男がとった行動は有難迷惑なのである。気持ちは分かるがそれはプライバシーの侵害にあたり、トラブルの元になりかねない。
 甲斐はたどたどしい言葉で工事現場の男に説明した。
「そういうわけで、とにかく携帯動かすの止めてもらえますか?」
「そういうことなら分かったけど――でも」
「でも?」
「もう電話かけちゃって、相手出てるんだけど」
「えぇー」
 どうやらこの携帯の持ち主はロックもかけてなかったらしい。
 どうする? と工事の男に言われ甲斐は頭を悩ませた。でも相手が出てしまった以上、勝手に通話を切ったらこちらが怪しまれてしまう。
 甲斐は渋々ながら携帯の向こうにいる相手に声をかけた。