工事中の音を背景に甲斐はゆっくりとした足取りで玄関にたどりつく。
玄関の扉には空家を示す張り紙がべったりと貼られていた。さっきは遠目だったので売家の文字しか見えなかったが、よくよく見れば隅っこに売主の名前と連絡先が記されている。
甲斐は自分の携帯をポケットから取り出すと書かれてあった番号に電話をかけた。呼び出し音が数コール鳴った後、音が突然切れる。耳に届いたのは男性の声だった。
「誰?」
その、あからさまに不機嫌な声に甲斐はどきりとする。声が裏返った。
「ぁっ、あの、長島さんの携帯電話でしょうか?」
「だったら何?」
「○○町の売家の張り紙見て電話をしたんですけど」
「なに? あのボロ家買ってくれるわけ?」
「その、僕はこの家を買いたいとかなじゃくて」
「はぁあ?」
ふざけんなてめぇ、と怒鳴られ、甲斐は思わず肩をすくめた。
「ったく、イタズラかよ。思わせぶりなことすんな! 冗談じゃねえ」
男が受話器の向こうで舌打ちする。このままだと電話を切られそうな気がして甲斐は焦った。待って下さい、と声を上げる。
「ええと、こちらに電話したのはその、お宅の敷地に子猫が迷いこんでしまったみたいで――地下の換気口付近にいるかもしれないんです。助けたいので一度家の中に入らせてほしくて」
「何で他人のてめぇに俺の家の中みせなきゃならねーんだよ」
「だから、猫が閉じ込められたかもしれなくて。それを確認したいんです。その為には地下の窓から側溝の下に出ないといけなくて――こちらの家の鍵が必要なんです。鍵をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「冗談じゃねえぞ。この家は俺のものだ。勝手なことするんじゃねえ!」
咄嗟とはいえ、男の口からでた言葉に甲斐は唖然とした。は? と間抜けな声を上げてしまう。
「あのー、この家って売りに出しているんじゃ」
「誰が売るっていった? 住んでいる奴がいるのに売るなんてありえねーだろうが」
「そう、なんですか?」
「当然だろ!」
最初と間逆の言葉に甲斐は首を横にかしげた。最初は自分の失言を繕うための虚勢かと思ったが、男にはそういったうろたえがない。むしろ真剣に訴えているのだ。
男の言っていることが分からない――甲斐が返事に困っていると、どうやらそれが向こうに伝わってしまったらしい。
「てめぇ何だ? 俺の事馬鹿にしてんのか? いい度胸じゃねえか そのへらへらした頭、斧でぶったぎってやろうか? 物置から今取ってくるから。お前をぶっ殺してやるから。首洗って待ってろ、いいな。ここにある包丁でぶっ殺してやる!」
男の息まく声のあと、通話は突然切れた。甲斐の背中に嫌な汗が伝う。今日は真夏日だというのに寒気が一気に襲いかかる。しばらく固まっていると、ワンちゃん、と呼ばれた。ぎこちなく首をそちらに向けると、裏から追いかけてきた楓がきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「どーしたの? 何かあった?」
そのあどけない微笑みを見た瞬間、甲斐は現実に引き戻される。甲斐は手持ちのハンカチで汗をぬぐった。蒸れたマスクの中も丁寧に拭くが、その時になって自分の歯がガチガチと音を立てていたことに甲斐は今更ながら気づいた。
男の言葉は支離滅裂で意味不明だ。もしかしたらこの暑さで理性を失ったのかもしれない。あるいは昼間から酒をあおって酔っ払っていたのだろうか。
あからさまな悪意に甲斐の気が滅入ったのは言うまでもない。こんなことになるなら、最初に隣りの家の人間に相手の人となりを聞いておくべきだったと後悔する。
男は正気とは言えなかった。暴言どおりに行動するかは分からない。でも、万が一男がここに来るようなことがあったら――
甲斐は唇をぎゅっと噛みしめた。自分はともかく、楓を危険な目に合わせることはできない。
甲斐は楓を呼び寄せると、自分の背中に乗るよう促した。
「ワンちゃんどうしたの? ねこちゃんは? 助けないの?」
「この続きは……またあとでね。ひとまずお家に帰ろう。外は暑いし、長くいると熱中症になるでしょ。そしたら大家さんも心配するから。そうだ。途中でアイスでも買っていこうか? ね?」
甲斐は適当な理由をつけて楓を黙らせる。小さな体を背に背負うとすぐにその場を離れた。楓を背負っているため、帰りは表から出る。工事の人間の驚きの目をよそに砂利道を横切り、もときた道を一目散に走る。
マスクから漏れる熱気が鼻をくすぐるが、今はそれを払う余裕もなかった。