頬にひんやりとしたものを感じた。
「どうぞ」
耳に届いた穏やかな声は妻のものだ。
僕は瞳にたまったものを手の甲で拭ってから水の入ったコップを受け取った。
ガラスの淵に口をつける。
今も痛む心をごまかすために水を一気に飲みこむ。
喉にも痛みが走るかと思ったのに、液体は思いのほか体の中をするりと抜けていった。
舌にわずかな甘みを残しながら――
「何を入れた?」
水が三分の一ほどに減った所で、僕は妻に問いかけた。
返ってきたのは喉を包んでくれたのと同じ柔らかさ。
微笑みを僕に見せたあとで妻は答えた。「そこに置いてあった砂糖を少しだけ」と。
「これを飲めば元気になるの」
そんな根拠もない自信はどこから来るのだろう。
「ずいぶん子供じみたことを言うんだな」
「あら? これは貴方が教えてくれたのよ」
「え?」
「覚えてない? 小さい頃、風邪をひいた私にこれを作ってくれたこと」
僕からコップを取り上げた妻は目を細めていた。
器の中で透明な液体が左右に揺れている。
僕は首を横にかしげた。
「そう……だったっけ?」
「そうよ。あの頃の私は薬をすごく嫌がっていたけど、これだけは素直に口にすることができたの」
妻の思い出話に僕は口を閉ざした。
ぐるりと頭を巡らし、奥底に眠る記憶の箱を開く。
確かに僕の幼い頃の記憶にはベッドの上で顔を赤くして眠っている少女がいた。
誰かに頼まれて薬を溶かした水を持っていったことも、覚えている。
でも幼い僕は……あの時。
ぼんやりと浮かぶのは廊下の床。
足元までに水たまりが広がっていた。
ふいに訪れた恐怖。
そう、僕は途中でコップを落としてしまったのだ。
あの時僕は大人に怒られたくないがために薬を別の物にすりかえた。
台所の戸棚から似たような粉末を探して、水に溶かして――ごまかした。
幼い少女にかけた言葉は、怪しまれないための言いわけだった。
「ああ……」
過去の失態を思い出し、僕は声を漏らす。
妻が話を蒸し返さなかったら一生思い出すこともなかった、些細な出来事。
あれから何年の月日が経ったことだろう。
双方の親が親友同士だったことで僕たちは結婚の約束を取り付けられた。
今更親のエゴによって生じた結婚にとやかく言うつもりはない。
だが、妻との生活に愛情を持ちこむ気はなかった。
夫として最低限の役をこなす。経済的な不自由はさせない。
そして妻が望むならいつでも離婚に応じるつもりでいた。
それなのに――
「どうして僕と一緒にいるんだ?」
僕はずっと気になっていたことを口にする。
「結婚する前に言ったはずだ。今までも、これからも君を愛することはない。神の前でも平気で嘘をつく男と一緒にいても何の意味もない」
「そんなことないわ。貴方はとてもやさしい人よ」
「かいかぶるのはよしてくれ」
「かいかぶりなんかじゃないわ」
そう言って妻は笑った。
「貴方が冷たいのは、私のためでしょう」
「え」
「貴方の心はいつだって別の所にある。叶わない恋に焦がれるだけの人生に私を付き合わせるつもりなどないって……そう思っているんでしょう?」
「それは」
「でも勘違いしないで。私は不幸だなんて思ってないわ」
意外な言葉に僕は目を丸くした。
妻が窓際に寄り掛かった。春風にのって彼女の髪がふわりとなびく。
手を伸ばし、頬に戯れる数本を耳へと流しながら、とつとつと話し始める。
「砂糖水をくれたあの瞬間から貴方に恋をしていたわ。貴方が別の女と付き合っていた時は苦しかったけど――結局は貴方の幸せを願っていた。婚約も破棄するつもりでいたわ。でも……」
妻はそこで一旦口を閉ざした。言葉を続けなかったのは僕への配慮だったのだろう。
運命というのは皮肉なものだ。
僕にとっての不幸が彼女にとっての幸せとなったのだから。
「夫婦でいるのは私のエゴよ。貴方の思い出も、未来も共有するの。同じ記憶を持って、二人で喜んだり、悲しんだり、笑ったりするの。これは妻である私だけに与えられた特権。みすみす手放すつもりなんてないの」
「だからおあいこなの」そう言って妻は困ったように笑っていた。
内に秘められた心の広さが、強さが僕を揺さぶる。
今まで目の前の優しさを受け入れることが怖かった。
妻に甘えたら頑なに守り続けていた思い出が、「想い」が消されてしまう――そんな気がしてならなかったのだ。
でもそれは違うのかもしれない。
想いは消えない――消さなくていいのだと教えてくれたのは目の前にいる女性だ。
「ありがとう」
素直な言葉がこぼれおちる。
すると今度は妻が目を丸くした。
「どうした?」
「貴方から感謝の言葉をもらうなんて。珍しいこともあるものね」
「そりゃあ……僕だって『ありがとう』くらい言うさ」
僕は妻からそっと顔をそむける。
窓の先にあるのは教会の屋根だ。
緩やかな春の風が音を乗せてやってくる。
今度こそ、祝福の鐘を素直に喜ぶことができる気がした。