短編

卒業


 気がつくと、僕は彼女の手を取って走っていた。


 耳元でウエディングドレスががさがさ音を立てている。
 振り返るとつまずかないよう、必死に走っている彼女がいる。
 ずっと追い求めていた。
 やっと捕まえた。
 今までにない満足と高揚感。
 僕はこの幸せが何時までも続くものだと信じていた――



 僕は生まれた時からいろいろなものに恵まれていた。
 欲しいものはすぐ手に入れることができる。流行りものはもちろん、限定品も多く持っている。小さい頃は綺麗なもの、美味しいものにいつも囲まれていた。
 俗にいうセレブな家庭に育った僕。
 でも、たったひとつだけ手に入れられないものがあった。いや、正確にはかけがえのないものを失ってしまった。
 それが彼女だ。
 彼女とは大学生の頃、二年間だけつきあっていた。
 彼女は北陸の生まれで、両親は地元で小さな雑貨店を営んでいていた。
 裕福さにつられる女友達とは違う、素朴で地味な女の子。でも、内に秘めた心の強さは誰にも負けなかった。
 僕は自分になかったものに惹かれたのかもしれない。
 僕は彼女の側にいられるだけでとても幸せだった。当時の僕はまだ二十歳を過ぎたばかりだったけど、彼女のことを真剣に考えていたつもりだった。
「大学を卒業したら結婚しよう」
 僕は彼女に何度誓ったことだろう。
 今も忘れはしない。
 あの時、僕たちは旧作を上映している小さな映画館にいた。
 見たのは一九六七年に制作された「卒業」という映画。ダスティホフマン演じる主人公が結婚式で花嫁をさらう話だ。
 話の中盤、彼女はそっと席を立ったらしい。というのも僕は物語に集中していて、いつ席を外したのか分からなかったのだ。
 彼女の気配が消えたことを知ったのはクライマックス直前。最初はトイレにでも行ったのかと思っていた。でも映画が終わっても彼女は戻ってこなかった。
 翌日、僕は彼女が大学を退学し働いていたバイトも辞めてしまったことを知ったのだ。彼女は映画のヒロインと同様、突然姿を消してしまった。
 何故彼女を見失った時点ですぐ追いかけなかったのだろう。
 僕はありとあらゆる手を使って彼女を捜したが、全ては後手に回っていた。僕が彼女の実家を訪れた時にはもう、建物に人の気配さえなかったのだ。
 両親ともども引っ越し先は分からないまま、住民票も移されないまま。結局彼女の行方を掴むことはできなかった。
 もう、八年も前の出来事だ。


 ――彼女を見つけたのは本当に偶然だった。
 定期的に泊まっているホテルを散策している時、披露宴の案内板が目にとまったのだ。そこに彼女の名前を見つけ、僕は驚愕した。
 もしかしたら同姓同名の別人かもしれない。
 でも、もしかしたら――
 膨れあがる期待を押さえつつ、僕は指定された中庭で待っていると花嫁が現れた。花嫁は介添人とともに併設されたチャペルに向かう。レースをたっぷり使った白のウエディングドレス。その手には服に合わせた白百合のブーケ。昔と変わらない横顔はまぎれもなく、彼女だった。 
 やがて彼女は中庭の隅で花嫁に見とれていた僕に気づく。
 目が合ったら笑顔を作るつもりだった。でも結局は口をぽかんと開けただけの間抜けな顔が出来上がっている。
 本当はもっと格好良く登場したかったのに――それでも僕はゆっくりと彼女に近づいた。
「久しぶり」
 挽回するように、さっきまで練習していた一言を僕は伝える。
「久し、ぶり」
 同じように彼女は言葉を返してくれた。戸惑っているのがすぐに分かった。辺りがしん、と静まる。
 僕が次の言葉を探していると、今度は彼女から言葉を切り出してくれた。
「その、突然いなくなってごめんなさい。私――」
「ああ……知ってる。友達から聞いた」
 ――彼女がいなくなった後、僕は彼女の親が借金を抱えたことを知った。彼女は両親を支えるために実家に戻ったのだ。
「家のこと、どうして僕に相談してくれなかった? 僕なら君の力になれたのに」
「そう言うと思ったから私、あなたから離れたの。誰かに頼ったら負い目を感じてダメになってしまう気がしたから」
 それは頑固な彼女らしい理由だった。
 両親の借金は彼女の貯金と店を売ることでほぼ完済したという。大学をやめたのは両親にこれ以上負担をかけたくなかったから。今は再び親元を離れ、隣県にある中規模スーパーに務めているのだと彼女は言った。
「本当は――あなたがここに泊まっていること、ずっと前から知っていたの」
 最初に式場を見学した時、彼女は偶然、僕が主催する起業セミナーのポスターを見つけたのだという。
「結婚式が終わってから会いにいくつもりだった。八年前のこと、ずっと謝りたくて……でも、こんなに早く会えるなんて思いもしなかった」
 今更になって結婚式、の言葉が棘となって体にまとわりつく。白のドレスに改めて現実を思いしらされる。
 そう。せっかく再会できたのに――今日、彼女は他の男と結婚してしまう。
 彼女の幸せそうな表情を見たくなくて、僕はうつむいてしまった。いつの間にか作っていた拳に力がこもる。
 ――馬鹿なことだと思った。
 でもチャンスは今しかないのかもしれないと、もう一人の僕が囁く。その誘いに僕は全てを委ねた。 
「今、ここで逃げようって言ったら――ついてきてくれるか?」
「え……」
 沈黙。
 やがて三日月をあしらった花束が草むらに転がった。彼女の返事を聞く前に僕は一歩を踏み出す。
 彼女の手を取り、走り出した。
 スカートがふわりと翻る。黒服をまとったスタッフたちが何かを叫んでいたが、耳に入ってこなかった。
 中庭を超え、石畳の上をひたすら走る。
 彼女と一緒なら何も怖くない。地位も名声も、今あるもの全てを失ってもいい。
 彼女さえ側にいてくれれば――
 僕はこの幸せが何時までも続くものだと信じていた。
 

 
 ――前のめりになっていた体がぴんと伸びた。


 僕はバランスを崩しそうになり、慌てて重心を移動する。足裏をしっかり大地に這わせたところで振り返る。
 彼女が立ち止まっていた。
 一瞬つまずいたのかと思ったが、ドレスは汚れていない。とはいえ、ドレスの裾を抱え、ヒールで走るのは大変なことだろう。
「行こう。もう少しだ」
 僕は彼女を励ました。
 あと百メートルほど走ればタクシー乗り場にたどりつく。その先に新しい未来が待っている。
 僕は彼女の手をにぎりなおそうとする。だが、僕の方が汗ばんでいたせいで、彼女の手がするりと抜けてしまった。
 その瞬間を彼女は逃さなかった。
 彼女がとっさに腕を引く。今にも泣き崩れてしまいそうな彼女の顔が目に映ってしまう。
 僕は――全てを悟ってしまった。
「どう……して」
 荒い息づかいだけが僕らを取り囲む。
 彼女は自由になった手を反対の手で隠している。うつむいたまま、ひたすら首を横に振っていた。
 確かに強引に連れ出してしまったのは否めない。でも。それでもついてきてくれたではないか。
 どうして――
「……あなたに『逃げよう』って言われた時、とても嬉しかった」
 ぽつ、と彼女は言う。
「最初、このまま逃げちゃえば違う世界が待っているのかもしれないって、半分は本気だった」
「だったら」
「でも」
 彼女がしゃくりあげる。その細い体が震えていたことに気づき、僕は凍りついた。
「あなたが本当に手をとった瞬間、急に怖くなったの。世間体とか未来じゃない。目の前にいるあなたに対して恐怖を感じたの」
 恐怖、その一言だけで目の前の世界が傾いていく。
「怖いから、ついていくしかなかった。走りながら自分がどうなってしまうのか、どうしたらいいのかずっと考えてた。そしたら『これは悪い夢だ。夢なら早く醒めてほしい』ってずっと願っている自分がいて……気がついたら心の中でずっと彼の名前を呼んでた……」
「彼?」
「私の夫になる人」
 やっと彼女が顔を上げてくれた。まっすぐな眼差し。気丈にふるまおうとして顔が強ばっているのが分かる。
「もちろん、あなたがそんな怖い人じゃないって分かっている。でも、私にとって今現在も、これからも大切なのはあなたよりも彼だって――分かってしまった。だから……」
 彼女の瞳から涙がこぼれた。
「ごめんなさい――あなたと一緒には行けない」
 風がそよぎ、木立が揺れる。
 頭の中をめぐったのはあの時見た映画のラストシーンだ。
 二人で見た「卒業」は必ずしもハッピーエンドとはいえない。
 逃げた結果が必ずしも幸せには繋がらない。二人の心が通じたのはバスに乗ったあの一瞬だけだ。
 同じように、僕はあの頃から何も変わっていなかった。変わってしまったのは彼女の方だった。
「僕は――それでも君を愛している」
「私も、あなたをとても愛していた」
「……それでいいんだね?」
「ええ」
 彼女がはじめて僕に微笑んだ。その凛とした表情にはもう涙の欠片もない。胸が軋む。決して失わないその気高さがとてもまぶしかった。
 僕は溢れそうな感情を必死で押しつぶす。
「教会まで送るよ」
 僕は立ち上がると、もう一度だけ彼女に手を差し伸べた。今度はきつく握ったりはしない。軽く支えるだけだ。
 華奢な手が僕に触れる。彼女が立ち上がると、純白のベールがふわりと揺れた。
「ありがとう。でもここからは一人で行くわ」
「そうか」
「今日、あなたに会えて良かった」
「僕もだ」
「幸せに」とお互い言葉を交わし、手を離した。彼女が踵を返す。彼女がまとっている布が光を紡ぎ、きらきらと輝く。
 僕は彼女が歩くその先に未来へ続くバージンロードを見た気がした。


 ……ホテルの部屋に戻ると、「妻」が温かい笑顔で迎えてくれた。
「ずいぶん長い散歩だったのね……あら、汗かいているじゃない」
「講演前でちょっと緊張しているだけだ」
「珍しいわね。貴方が緊張だなんて」
「水でも持ってきましょうか?」と穏やかな声で妻が言う。いつもは冷たい態度でかわす僕だけれど、今日だけは素直に甘えることにした。
 空気の入れ換えをしていたのか、窓は最初から開いている。春風に乗ってカーテンがそよいでいる。 
 僕はソファーに身を沈めた。ネクタイを緩め、ため息をひとつこぼしてから横になる。
 しばらくして、鐘の音が聞こえた。
「あら、結婚式でもあったのかしら?」
 コップに水を溜めた妻がふいに言葉を漏らす。
 祝福の音色が僕の心を締めつけた。
 蘇るのは思い出の映画で流れていたあのメロディ。
 僕と彼女が歩んだ道は二度と交わらない――
 涙がこぼれてしまわないよう、僕は拳を瞼にきつく押し当てた。
 (...Continued on 「春風」)


 参考: 卒業(1967) - goo 映画


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