短編
スキャンダルU(PG-12)
舞台をはねた私は流れる汗もそのままに、楽屋へと走り出した。
扉の前に群がる人たちを押しのけ、床に横たわる彼のもとへ飛びこむ。膝を折り、顔を近づける。今朝剃ったばかりの髭がもう伸びていた。首に残る白粉は道化師になった時の名残。
喉はひとつも動く様子がない――気配さえない。
「君が舞台に出ている時――発作が起きたんだ」
私の隣りには彼の旧友が座っていた。途中で席を外したのは私も舞台から見えていた。
旧友と名乗る男と彼は学生時代から四十年、一度は同じ舞台を夢見た者同士だという。
旧友は挫折を機に医師への道を歩んだ。彼は挫折を繰り返しながらも夢を追いつづけた。それに優劣の差などつけようがない。自分を罵った旧友にどちらも必死に生きていたのだと、彼は笑って言っていた。
「何度も忠告したんだ。このままの生活を続けたら確実に死ぬ。だから早く検査を受けろって――あいつ、わかった、って。この舞台終わったら行くって……それなのに」
旧友は拳作り、声を震わせた。それは何もできなかったことへの憤りなのか――私には分からない。ただ、目の前の現実が夢なのかどうかさえ、あやふやだった。
でも、彼の病気に気付けなかったのは私も同じだ。彼は時々言葉を詰まらせることが多かった。酒と煙草のせいだよ、と彼は穏やかな顔を見せていたが、それらはすべて私の為についた嘘だったのかもしれない。
私を輝かしい舞台に上げさせるために彼は全てを隠した。私の為に。初の舞台を添えるささやかな花になるために――
「どう、し……」
声を上げるも、言葉にならない。泣きたいはずなのに、涙がこぼれない。まだ温かいのに。こんなにも優しい顔をしているのに。
もしかしたら彼は眠っているふりをしているのではないか。たちの悪いイタズラをしかけて、心配する私たちをよそにして、いきなり起き上がって、おどけた表情をみせるのではないのだろうか?
だが、その時はやって来ない。隣りにいる彼の友を見上げても、首を横に振るばかりだ。
私はしゃくりあげた。彼の温もりを必死に拾おうと彼の頬に自分の頬を寄せる。ほら、まだ温かい。私は必死に自分に言い聞かせる。本当は彼の体温が徐々に奪われていることを知りながら――
結局、私は彼の死を認めたくなかったのだ。
唇にキスを落とす。それは舞台がはねたら彼にしようと思ったこと。「愛してる」と何度もつぶやき、彼を抱きしめる。やっと言えた。もう離さないから。そう誓うはずだったのに――
もう、彼はいない。
――やがてパン、という音が耳をつんざいた。
「カーーーット! オッケーッ! カメラチェック入りまーす」
神の、感嘆ともいえる叫びがもう一人の私を呼び出した。
口から安堵のため息が漏れると、涙と感情の波がいっきに引く。今までいた世界ががらがらと音を立てて壊れていく。
さようなら、もう一人の私。よっぽどのことがない限り会う事はないでしょう。
「お疲れさん」
私の腕の中に収まっていた中年男――かつての恋人はあっさりと生き返った。ぽん、と背中を叩かれる。土気色の顔、唇に残るのは紅のあと。どこから見ても薄汚れた中年のはずなのに、どうしてかな、己の世界を抜けると色気のようなものを感じてしまう。
「お疲れ様でした」
私は腕にこめていた力を緩めた。頬に残った涙を拭くと、全てがリセットされる。それは男も同じだったようだ。
「モニタ確認しよっか?」
「はい」
私はゆっくりと立ち上がった。あたりをぐるりと見渡すと張りぼてが小さく見えた。これが私がかつていた映画という虚構世界。天井は鉄骨の迷路が張り巡らされている。まばゆいほどのライト。上下左右に動くカメラは緩やかに撤退を始めていた。
私は道化師を演じた中年男を追いかける。ゆっくりとした歩調で最終決定を下す神――監督のもとへ向かった。その途中で「お疲れさま」「よかったです」の声が、拍手が送られる。
「監督、どうでしたか?」
私の軽やかな声に、監督は困ったような顔を見せた。丸めた台本で自分の肩を叩いている。
「正直なところ、すごい悩んでる」
小さなモニターにはもう一人の私が映し出されていた。悲しみに暮れる女が想い人に口づけをかわす瞬間だ。タイミング良く流れた涙が光にはねている。
「この絵面もなかなかいいんだなぁー、でもねぇ。前に撮った頬にキスの方も耽美的というか、どうも捨てがたくて」
「私は今撮った方を使ってもらいたいですね」
「そう?」
「こっちの方が主人公の気持ちが伝わるんじゃないかと思うんです。今まで気持ちをずっと隠していたわけだし、叶わない想いだったからこそ、最後に爆発しちゃっていいんじゃないかと」
「奥村さんはどっちがよかったですか?」
「俺は頬の方が、可愛らしいなって思ったな。というか、リアルで考えたら俺、犯罪者になっちゃうでしょ」
「そっか。水無月ちゃんはまだ高校生だっけ。三十以上年が離れてると、共演者キラーとしては若すぎるかぁ」
「俺にとってゆいちゃんは恋人というより娘そのものだよ」
ははっ、と道化師――奥村は笑う。さりげないカミングアウト。
――うざいな。
私は心の中で舌打ちする。もちろん、表では笑顔をかぶって。
「私はそういったの全然気にしないですから。むしろ奥村さんと恋人の噂立ててくれた方が嬉しいかな。奥村さん素敵だし」
「お。それは衝撃発言だねぇ」
ノリのいい監督が私の言葉に乗ってきた、それは周りにいたスタッフへと感染する。
「水無月ちゃんからラブコール来ちゃいましたよ、奥村さん」
「どうします? つきあっちゃいますか?」
どれも冗談だと知っての茶々入れだ。私の発言がきっかけで周りがどっと笑う。私の牽制に奥村は苦笑していた。
まぁ、私が静かに怒っていたことに気づいたかどうかは分からないけど。
このシーンを撮り終えた数日後、映画出演者とスタッフで打ち上げが行われた。
「これで、クランクアップとなりますー あとは試写会と映画公開を待つのみ。皆さんお疲れさまでした」
監督の声を皮切りに始まった宴会は、明るく和やかなものだった。
私は未成年なので、お酒以外の飲み物と、美味しい食べ物を勧められた。年の近い共演者たちとのお喋りに明け暮れ、ゲームにはしゃぎ、監督と今後の映画界について語り合う。あっという間に時間は過ぎていった。
「ゆいちゃん、そろそろ時間だから」
マネージャーのお達しに私はこくりと頷いた。芸能人とはいえ未成年。時間はある程度守っておかないといけない。
私は帰る前にもう一度監督に挨拶をした。もちろん、奥村にも「挨拶」をしておく。共演者であるから、という上での建前だ。
挨拶に伺うと、奥村はスタッフ数名と盛り上がっていて、かなりできあがっていた。
「おう、ゆいちゃんはもう帰るのか」
「未成年ですから。先に家に帰りますね」
「俺も帰っちゃおうかな〜」
「この映画の主役が何を言ってるんですか。私の代わりに盛り上げてくださいね」
私はひらひらと手をかざしてその場を離れようとする。すると服を掴まれた。奥村の顔が近づくと、極力トーンを落とした声が耳に届く。
「『あのこと』まだ言っちゃだめ?」
「もちろんです」
当然のごとく、私は満面の笑みで突き放す。
「最初に言いましたよね。私はあなたの力で仕事するつもりはありません」
私の固い意志に奥村は口をとがらせた。グラスの中にある茶色い液体がゆらゆらと揺れている。五十を迎える男も、今は駄々をこねた子ども同然だ。
「俺は全然構わないんだけどなぁ……」
ぶつぶつという奥村に私は嫌悪を抱いていた。
この馬鹿男。だったら何故もっと早く私たちを迎えに来なかった? 早く迎えに来ていれば――そうすれば私たちがあんなみじめな生活を強いられることななかったのに。母だって、あんな寂しい最期を迎えることがなかったのに。
私が黙りこんでいると、バッグが震える音がした。開くと中で青い光が点滅している。携帯にメールが届いたらしい。
私は仕事用とプライベートでアドレスを使い分けている。今鳴ったのはプライベートの方。こっちの番号とアドレスを教えているのは、奥村と、あとひとりだけ。
心が躍った。
私は携帯を開いた。顔をほころばせ、一瞬だけ奥村の顔を見る。はっとしてみせると、慌ただしく携帯を閉じる。
「なんだ〜 恋人からか?」
酔っぱらいの戯言に私は笑顔をのぞかせた。そっと奥村に耳打ちをする。
「今度紹介しますから、だから、焼きもちやかないでね。お父さん」
最後の言葉が効いたのか、奥村はちょっと照れたような顔をした。初めて父と呼んだことが相当嬉しかったらしい。
おもむろに奥村が立ち上がった。
「よーしっ、おまえら、今日は一晩中飲むぞ〜 この先は俺のおごりだ! じゃんじゃん頼め〜」
なんて扱いやすい男だろう。大物俳優だと聞いてたから最初は身構えてたのに。蓋を開けたらなんとも親馬鹿なこと。
今はせいぜい舞いあがっていればいい。
私はどんちゃん騒ぎの中でほくそ笑むと店を出た。
――母が死んだ後、私はありとあらゆるオーディションを受け、芸能界に飛びこんだ。奥村に復讐するためだ。それは母の無念を晴らすため、といってもいいい。私は奥村の手を借りず、奥村に追いつこうと、演技についてがむしゃらに学んだ。
幸いだったのは、奥村の目に留まるまで二年かからなかったことだ。本当は一生ほどの時間がかかると思ったのに。初出演した映画がヒットしてくれたおかげで、私は女優としての評価を得ることができた。 そして、奥村は私がかつてつき合った女との間に生まれた子だと気づいたのである。
奥村は母の死を悔やんでいた。だが、私にはその涙が本当だったか疑わしいところだった。奥村は私を認知し、一緒に暮らそうと言ってきた。私は考えた。奥村の演技力はずば抜けているからだ。全ては演技の上でのことかもしれない。
そう、たとえ親子関係が暴露されたとしても奥村が後悔するような展開に持っていかなければ私の復讐は意味をなさない。
そこで私は奥村の女性遍歴を利用することにした。奥村は女にだらしない。結婚と離婚を何度も繰り返していた。そして息子が一人いる。私と同じ年頃の子。離婚したとはいえ、奥村の愛を真正面から受けた子ども。
――もし彼と私が恋に落ちたらどうなるだろう。
自分の蒔いた種たちが恋人になる。肉体的な関係を持つ。もしそれがスクープされたら。それを知った時、奥村はどんな顔をするだろう。
それを想像した時、私は狂喜の声を押し殺した。想像するだけで可笑しくて身震いが走った。
準備は整った。時は満ちた。
さあ、破滅への門を開こうか。
私は愛しい彼氏へメールを送った。
メールありがとう。
今、打ち上げから帰るところだよ。
撮影も終わったから、時間にちょっと余裕ができるかも。
仕事ばっかりだったから、ずっとガマンしてたけど……
会いたい。
あなたに、すごく会いたいです。
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