短編

 

スキャンダルT(PG-12)

 僕が開いた頁には広大な草原を走るシマウマの群れがあった。
 鮮やかに映し出されるのはグラデーションのモノクロの協奏。はるか遠い先の国は、今僕たちのいる環境と全くの正反対の世界がある。
 本の世界を十分に酔いしれた所で、僕の指は次のページを開こうとする。すると黒髪が僕の視界を遮った。
 鼻に届く甘さ。この香りをもつのは彼女――水無月だけだ。
「何を見てるの?」
 落ちた髪を耳にかけながら、水無月はつぶやいた。透き通るような肌に収まったのは整った顔、まつ毛の長さに僕は一瞬だけみとれてしまう。
「このシマウマ、とても怖い顔をしている」
「そうだね」
「きっと、近くにハイエナがいるのよ。だから気が抜けない」
「ハイエナって死肉しか食べないんじゃなかったっけ?」
「ハイエナの中でも、ブチハイエナってのは集団でシマウマを狙うんだって。この間テレビでやってた」
「そっか」
 僕は柔らかい笑みを水無月に返した。部屋の外でしとしとと降る雨の音がやけに響く。
 僕は今度こそ頁をめくると、ひと月ぶりに会う彼女にさりげなく聞いてみた。
「今日は撮影休み?」
「これから撮影。でも外にハイエナがいて出られないのよ」
「ハイエナ?」
 僕が首をかしげると、水無月は窓を指でつつく。曇ったガラスをそっとふき取ると、校門の所に乗用車が数台停まっているのが確認できた。
「最近、私のことずっとつけててさ。うざいんだよね」
「まさに狙われているというわけだ」
「そういうこと」
「芸能人は大変だな」
「マネージャーが迎えに来るまでここにいてもいい?」
「構わないけど」
 僕は読んでいた写真集を閉じて立ち上がる。本棚へ戻した。ここは郷土資料室と呼ばれる部屋だ。壁いっぱいに広がる本棚にはあらゆる時代、世界の文化本がぎっしりと詰まっている。
 図書室の十分の一ほどしかない空間は暗く、じめっとしていて先生も生徒もそうそう近づかない。ここは僕のお気に入りの場所だった。
 水無月はありがとう、とお礼を言うと、僕が今まで座っていた椅子に腰を下ろした。鞄の中から台本を取り出し黙読を始める。
 この部屋に水無月が現れるようになってすでに半年が経とうとしている。突然現れた異分子に最初はどうしたものかと思ったが、水無月は僕の世界を邪魔することはしなかった。時折からかわれる時もあるけれど、大概は本棚にある資料を読んだり、自分の台本を黙々と読んでいる。
 彼女もまた、ここが一番落ち着いて集中できるのだという。
 今読んでいるシナリオは今度彼女が出演する映画作品だ。中年男性が心に傷を負った女子大生を救い、無償の愛でもって彼女を未来へ導く――かの喜劇王、チャップリンが演じた「ライムライト」の現代版だ。
 主演の中年男性を演じるのは名優奥村太地。喜怒哀楽全ての演技に長けており、ひとつ芝居を打てば衝撃と感動を呼ぶ名役者と崇められている。
 女子大生役をもらった水無月も役者になって二年足らずだが、その演技は繊細でみずみずしく将来を期待されていた。
 水無月たちのいる世界は独特だ。それ故に表現の自由を盾に躍起になる者も多い。
 僕は水無月に問いかけた。 
「ハイエナは何を狙ってるんだろうね?」
「さあ?」
「もしかして『あのこと』バレた?」
「どうだろう?」
 そう言って水無月は肩をすくめた。背中まである黒髪がさらりと流れる。
「今年から奥村の所にいるんだろ? 出入り張られてるとか?」
「ああ、それは大丈夫。というか家で全然会わないから」
「一緒に住んでいるのに?」
「時間が合わないの。彼、昼間しか家にいないんだよねえ。まぁ、現場行けば会えるからどうでもいいんだけどさ」
「ずいぶん淡泊な反応だね。たったひとりの家族なのに?」
「そりゃ私も昔は父親に憧れてたわよ。でも死んだ母親からは昔からいないって言い聞かされてたからさ、今更一緒に暮らそうって言われてもねぇ……正直いてもいなくてもいいかな、って」
 ふって湧いた父親を語る水無月はどこか投げやりだ。儚げで繊細な美女もカメラの枠を抜けるとクラスにいる女子と何ら変わらなかった。
 まぁ、彼女の言い分もわからなくない。いきなり父親を名乗られても困ると言うものだ。それは僕自身も母子家庭だったから言えることなんだろうけど。
「私はあの人の厄介事に巻き込まれなきゃそれでいいや」
 水無月のぼやきに確かに、と僕は思う。
 奥村の私生活はしばしばワイドショーに取り上げられていた。
 もう五十になるというのに奥村の夜遊びは絶えない。昔から結婚→浮気→離婚のループの繰り返し。最近は二十歳年下の元グラビアアイドルと五度目の離婚をしたばかり。
 奥村イコールトラブルホイホイ。彼を物に例えるというのなら根なし草、糸の切れた凧といえよう。
 なのにどうしてかな。奥村を心底憎む人間は一人もいない。それどころか、奥村の相手役になった女性はことごとく彼に「落ちる」のだ。
 僕は本に目を通す水無月を見つめた。
 実の親子が恋人を演じるというのが僕にはピンとこない。
 だが無理な設定も年齢差も水無月の感性と奥村の演技力をもってすれば何てことはないのだろう。
 そう、水無月なら何てことはない。
 相手は父親なのだから、女として落ちることはまずありえない――ありえないのだけれど。
「やっぱりあの家出たら?」
「え?」
「その、撮影期間中はあの家に帰らなくていいんじゃないかって。共有する時間がないなら家族の意味をなしてないっていうか――」
「……もしかして、焼きもちやいてる?」
「な」
 違う、と僕は即答した。でも急激に上がる体温はなかなか引く気配がない。
 まずい。これじゃ水無月の言葉を肯定したようなものではないか。
「かわいいなぁ」
 水無月が台本を置き、立ち上がる。ゆっくりと僕に歩み寄ると腕をのばしてきた。
 彼女の手のひらが僕のほおを優しくなでる。しなやかな指先はするすると降り、やがて唇に届く。
 それは僕の中で雨音が途切れた瞬間。
「やっぱり貴方のこと、好きになりそう」
 ありのままの感情が、雨だれとともに流れ落ちた。 この時の水無月はどの演技にも当てはまらない。正直困ってしまう。妖艶な瞳に何度吸いこまれそうになったことか。何度冗談でかわしたことだろう。
「ダメだよ」  
 僕は低い声を落とした。
「僕は水無月を好きにならない」
「どうして?」
「どうしてって……タイプじゃない」
 僕が好きなのは自分だけを見てくれる人だけ。万人に可愛がられようとする芸能人に興味はない。
 いつもの言葉で水無月をかわす。そうすれば水無月が残念、と笑って話題が終わる。
 そう思っていたのに――
「うそ」
 降りしきる雨のせいだろうか。今日は違った。
 水無月が僕に近づく。 
「本当は貴方もあの人の血が流れているから、でしょう?」
 僕は息をのんだ。
 耳元で囁かれたのはまぎれもない真実だ。
 そう。僕は奥村が最初に結婚したの女性の子ども。水無月は――
 まさか、最初から知ってたのか?
 僕は水無月に問いかけようと口を開く。だが、その前に水無月の唇は僕の声を封じてしまった。僕にこれ以上の答えを言わせないよう、ぴったりと張り付いたまま、僕を逃がさない。
 それは許されるべきではない、罪深き行為。
 どうしてだろう。妹だと分かっているのに、拒めない。そばにいるだけで胸が痛くて苦しい。水無月とそのまわりにあるもの全てを壊したくなる。
 知っている。この思いが何なのか。
 分かっている。この因縁がお互いを狂わせてることも。
 僕は水無月の肩を引き寄せる。柔らかい髪に顔をうずめ、甘い香りに酔いしれた。
 心地よく響くのは雨の音。
 重なるのはお互いの胸の鼓動。


 ――そういえば、外にいるハイエナはどのネタを掴まされているのだろう。
 名優と若手女優が一緒に暮らしていることか。
 名優に隠し子がいたことか。
 それとも……
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