6
夜明けとともに私は動き出す。
私はケースから自分のフルートを取りだした。
細い金属に唇を添わせ、いつもの感触を確認する。穏やかな気持ちで息を吹きかけた。
そう、何も気負うことはない。これは私の習慣なのだから。
演奏するのはいつもと同じ、ペールギュントの交響曲。いつもと違うのはここが神社の境内じゃないということ。
私は音が反射してよく響きそうなマンションの前にいた。
まわりは物静かな住宅地、向かいには先輩の住んでいる二階建てのアパートがある。
こんな朝っぱらから楽器を吹いて、近所の人にとってはいい迷惑だろう。
でもそんなのは気にしない。どうせなら騒音だと思わせないような音を奏でてみせる。
穏やかな朝を知らせる旋律が街中を転がっていく。クレッシェンド――吹きながら、私はゆるゆると昇っていく太陽を想像する。
生まれたての光が家の屋根を包み込む朝。世界が陽の光とともに動き始める。
その時だった。
苗字を呼ばれ、演奏が中断される。
視線をそちらに動かすと、私の前にパジャマ姿の先輩がいる。その後ろに先輩のお母さんが立っていた。
いつもにない音を聞きつけ、扉を開けたのだろう。
ふたりとも突然の演奏会に驚きの色を隠せないようだ。
「あんた、ここで何やってるの?」
先輩の声に私は応えた。いつもの朝練です、と。
「中学に入学したころ……私、この曲を聞いて部活決めたんです。先輩のフルートにあこがれて……ずっと目標にしてました」
私はひとつひとつ、言葉をかみしめる。自分の楽器を置くと、昨日渡された楽器と楽譜を差し出した。
「これはお返しします。やっぱりこれは先輩が持つべきものです」
「でもこれは」
言葉を翻す先輩に私はかぶりを振る。
「先輩、本当はフルート辞めたくないんでしょう?」
先輩は私の言葉に固まっていた。目を大きく見開いて息を止めている。面食らっている所からして、私の推測は正しかったみたいだ。
「本当はフルートが好きで、吹奏楽続けたくて……でもお母さんに悲しい思いさせたくないから、だから辞めようとしているんでしょ?」
「どうして……」
「すいません。シールでかくれてた部分、見ちゃいました」
私は先輩のフルートケースに目を落とした。剥がしたシールは強力な透明テープで補強してある。
シールの奥には私の知らない男の人の名前があった。
真田の苗字の後に記された名前。
おそらく、このフルートは「その人」から先輩に引き継がれたものだろう。
先輩にフルートを託したのはきっと、先輩のお父さんに違いない。
でも先輩はお父さんとの繋がりを断とうと思ったのだろう。
これから新しい生活をするのに。別れた父親の思い出を持っていたら母親が辛い思いをする。でも楽器には罪はないから、だからこれを私に託そうとしたんだ。
そう考えると全てに納得がいく。
「こんな大切なもの、私は受け取ることができません」
私はきっぱりと言い放つ。
よぎるのはあの夏の夜のこと。麦わら帽子と一緒に託された気持ち。
「先輩はなにも分かっていない。突然いなくなって、私や部活のみんなが何も思わないって思っているんですか?」
勝手に期待を託して、自分だけいなくなって。
もし、私が何も知らされない「その他大勢」だったらバカにしてるって思うかもしれない。
そんな大事なこと、なんで話してくれなかったんだって。自分の存在はそれだけのものだったのかと。
「転校のこと、みんなにちゃんと話して下さい。でなきゃ私、先輩を恨みます……みんなもきっと先輩を恨みます」
「豊川」
「嫌なんです。何も言わないで突然消えちゃって――もうこんな辛い思いしたくないんです!」
私の口から本音が出てしまう。涙がはらりとこぼれていく。自分の中に熱いものがこみ上がってくるのが分かる。
ああ、私は今、とても腹立たしいんだ。
とても悲しいんだ。
「先輩は邪魔者じゃない……私にとって先輩はあこがれで……先輩がいたから頑張っていたのに――なのになんでっ」
「豊川……」
しゃくりあげる私に先輩は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん……私、豊川に悪いことをしちゃったんだね」
「いえ、私の方こそすみません」
私は頬に残る涙を拭きとった。冷静に話そうとしたのに思いっきり感情をぶつけてしまうなんて、最悪だ。
「でも先輩の気持ちも分かります……私の幼馴染もそんな人だったから」
私は家族のために自分の存在を消した人を知っている。
その人がどれだけ家族を想っていたのかを覚えている。
あの時私は何もできなかった。でも今はまだ間に合う。
先輩は私に「音」を奏でてくれたのだから――
ねぇ先輩、と私は涙声で言葉を紡ぐ。
「私は先輩にフルートを続けてほしいって思ってます。本当に大嫌いって思うまで辞めないでほしいんです」
先輩はフルートを演奏している時が一番幸せそうだったから。
そんな気持ちをこめて私はもう一度問いかけた。
「先輩は今もフルートが好きですか?」
先輩は何も言わない。まだ迷っているような瞳の動き。私に緊張が走る。
それでも先輩は行動で示してくれた。
ぱちん、という音とともに茶色のケースが開かれる。中には使いこまれた銀の笛。
先輩がおそるおそる手に取り楽器を構えた。唇を寄せ、一度ラの音を出して――それから途中になってしまった演奏を再開する。
同じ曲でも先輩が奏でると音が全然違う。
こぼれた感情は手元から転がって、今、ひとすじの光を示している。太陽がもたらす生命の声。それは優しさと力強さを備えた、美しい音色。
ふいに音が止まった。先輩がくるりと振り返る。唇がおかあさん、という言葉を紡ぎだす。
「私、何があってもお母さんについていくから」
それは先輩の本当の気持ち。
「でも吹奏楽は続けたい。フルートが好きなんだ……続けさせて下さい」
先輩は深々と頭を下げた。
しばらくの間沈黙が続く。やがて先輩のお母さんからはぁ、というため息が漏れた。
「子どもに苦労させて、気づかわせて……私もすっかり甘えてしまったみたいね」
先輩のお母さんは寂しそうな口ぶりだった。でも心から微笑んでいる気がする。
「わかった」
その言葉に先輩の強張った顔が崩れた。
「そこまで好きならとことんやりなさい」
先輩はすぐに表情を引き締めると改めて頭を下げた。私に見られないよう唇を固く結んで。でも肩が上下に震えている。
私は先輩の顔を見ないようそっと視線をそらした。何も見てないです、と心の中でうそぶきながら。
東の空に昇る太陽を臨むと、そこに向かっていく犬の散歩連れをみつけた。まわりを舞う雀のさえずりが耳に心地よく響く。
しばらくして持っていた携帯電話が鳴った。
画面を開くとタイトルにはデコレーションされたビックリマークが三つ。
おはよう、朝早くにごめんね、から始まる文章は百々お姉さんからのメールだった。
なんでも、ウメは一晩で夏休みの宿題を片づけたらしい。
間違えだらけではあったけど、自分の力で最後までやり遂げた――と書かれている。
徹夜でやってのけたなんて、怠け者のウメにしては大した進歩だ。
そして――
(ウメがバスケやりたいって言い出したんだけど。どう思う?)
思いがけない文面に私は目を丸くする。
それは私が今までで一番欲しかった言葉。
私は携帯をぎゅっとにぎりしめる。嬉しくて、涙がまたこぼれおちそうだ。
心によみがえるのはキョウちゃんが託した願い。
『ウメは自由に生きて――』
悲しいけど、キョウちゃんとの別れはウメを変えるきっかけになったのかもしれない。
ウメも自分なりに悩んで苦しんで、何度も考えて、やっと答えを出したのかもしれない。
だとしたら、私はこれから何ができるだろう?
いなくなってしまった幼馴染に。これから生きていく幼馴染に――
脳裏にふと、この間お隣さんと話した時のことがよみがえる。しばらく考えた後で、私は言葉を打ちこんだ。
(それでいいと思う。ウメの自由にさせてあげて下さい)
送信のあとで、私は携帯を閉じる。
空を仰ぐと見えない言葉が駆け抜けていくのを感じた。
冷たい空気がやたら目にしみる。私たちのそばをそよぐ風は確かに秋の気配を運んでいる。
私の中で長くて短い、十三の夏が終わろうとしていた。(了)
(吉田和代さん主催「オンライン文化祭・2010(テーマ:音)」参加作品)
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