topnext


第一章 「さようなら」から始まる物語


 ――闇が全てを呑み込んだような夜だった。

 空を見上げた。
 地上より空が明るく見えるのは、そう珍しいことではない。
 こんな森の中では特にそう、空の藍がより強く目に映る。
 生ぬるい風が夜の森を駆け抜ける。
 雲の流れがいつもより早い、と思った。
 ……雨が降るかもしれない。
 長年地元に住んでいた者のカンというやつだ。
 それなら、雨の冷たさを感じるその前に全てを済ませておかなければ。
 俺は肩にかけていたロープを背負い直した。


 俺は今日、自らの人生を終わりにする。


 ひっそりと静まった片田舎の山。
 カードレールの向こう側は山道はおろか、けもの道さえない。
 人なんているわけがない。
 がさがさと、俺が通る側で草が騒ぐ。
 湿った落ち葉に足元をとられそうになる。
 だが、俺はずっと上を見上げていた。
 俺にふさわしい木を探すために。


 ひとつの木が目についた。


 木の種類に詳しくないから何の木なのかは分からないが。
 とりあえず杉ではないことは確かだ。
 周りの木々に邪魔されたせいか、他に比べて幹がひとまわり細い。
 とはいえ、樹齢は自分の年以上はありそうだ。
 空に向かって真っ直ぐに伸びようとしている姿が少し前の自分を思わせた。


 この木がいいかもしれない。


 俺は幹に手を触れる。
 幹は思ったよりもすべすべしていた。
 俺は履いていた靴と靴下を脱ぐと、きちんとそろえてから幹に足をかけた。
 幹の凸凹に手足をうまく合わせてよじ登る。
 何でかな、こんな時だけはすいすいと登れてしまうのが悲しい。
 登り棒の類は小さい頃から苦手だったのに。
 自分の中にまだこんな力が残っていたことに驚いた。
 俺はちょうどいい太さの枝の所まで登ったところで背負っていたロープを下ろす。
 枝に一方をしっかりと結びつけ、もう一方の先端は頭が入るくらいの輪を作った。
 不思議なくらい、手際よく事は進んでいた。


 ロープを首に巻く時になって、ようやく手が震える。
 麻痺していたはずの心臓が、我に返るようにどくん、と波打った。
 怖さが芯のそこから沸いてくる。
 がちがちと鳴る歯。
 下唇を噛みそうになる。
 大丈夫、俺は自分に言い聞かせた
 そう、一歩、踏み出せばいい。
 そうしたらこの怖さからも、苦しみからも解放される。
 自由になれる。
 きっと……


 俺は輪の中に首を突っ込んだ。


 思えば短い人生だったと思う。
 それでも二十年、世間一般でいう大人にはなった。
 酒も飲んだし、煙草も一本だけ吸ったことがある。
 今彼女はいないけど、人並みに恋もしたし付き合ったりもした。
 それなりに幸せだったのかもしれない。
「父さん、母さん、こんな息子を許して下さい。
 じいちゃん。あんなに可愛がってくれたのに……」
 どこをどう間違えてしまったのだろう。


 かけがいのない家族を、俺は殺してしまった……


 ことの始まりは二年前。
 じいちゃんが突然ボケたことから始まった。
 身の回りのものがどこにあるかも分からない。
 財布が消えたと大騒ぎを始める。
 医者はそれをアルツハイマーだと言った。
 それは俺が就職を決めた矢先のこと。
 俺がじいちゃんの家に預けられてからすでに六年が経っていた。


 じいちゃんの記憶は右往左往していた。
 ある時は三十歳だったり、いきなり現代に戻ったり。
 でも、変わらないこともある。
 いつの時代も俺を父さんだと思いこんでいることだ。
 昔、父さんとじいちゃんの仲は最悪だったとは聞いていたけど。
 正直、ここまでひどいだとは思わなかった。
 じいちゃんの話を鵜呑みにする限り。
 昔の父さんは親に反発する破天荒な息子だったらしい。
 暴力は日常茶飯事、金にも女にもだらしがない。
 いつも尻ぬぐいをされたじいちゃんにとっては最悪の息子だった、ようだ。
 お前といるとろくな事がない、だの。
 金なんか一銭もやらん、だの。
 じいちゃんはどの時代に行っても、父さんの悪口だけは忘れない。
 それでも年寄りの言うことだ。
 慣れてしまえば無視するだけでいいと俺は思っていた。
 でも、実際はうまくいくわけがなくて。
 たぶん、俺が父さんのことをとても好きだったからだろう。
 昔、どんなにひどかったのかは知らないけど。
 俺にとっての父さんは、不器用で人にとても優しい、真っ直ぐな人だったから。
 いくら病気のせいとはいえ、じいちゃんに侮辱されるのが心苦しかった。
 それでも二年耐えた。
 けど、それが限界だった。


 些細な一言が俺を狂わせた、あの瞬間。


 ナイフが肉に食い込む感触は今でも覚えている。
 痛みに苦しむ声。
 突き飛ばされた瞬間、自分以外の紅い血が俺の上着を染めた。
 襖が揺れ、寄せ木細工の小箱に入っていたガラクタが畳に散らばる。
 手に残ったのは赤く濡れた果物ナイフ。
 側で老いた体が悶絶していた。
 痙攣を起こしていた肉体は……やがて動かなくなる。
 ゆすっても反応しない、まばたきすらしない。
 この時になってようやく……俺の足ががくがく揺れはじめた。
 ふるえは足から手に移り、やがて全身を支配する。
 息を吸う回数がやたらと増えていた。


 俺は人を殺し、た?


 自覚した刹那。
 意味もない奇声が俺の口から吐き出された。
 それから俺はナイフを手に家を飛び出す。
 車に乗り込み、町中を走り続けた。
 ごめんなさい、と何度も口にしながら……


 罪の意識が、失った孤独感が。
 違う世界への扉をノックした。


                topnext