topnext



 1 記憶喪失

 突然の災難はあたしをうんざりさせた。
 そりゃ、今日はいやなことがたくさんあったわよ。
 たくさん、たくさん。
 けどイヤな出来事の次はいいことがあるって心のどこかで信じてた。
 でも。
 いいことどころか大事な記憶を奪われるってのはどういうことかなぁ。
 すべてはあたしが病院のベッドで目を覚ました時からはじまった。
 それは秋深まる十月。
 山の木々が少しづつ色づき始めた時こと。

「お父さん、お母さん。目覚ましたよぉ」
 気がついたとたん、すっごいうるさい声があたしの耳にキンキンくる。
 この声はお姉ちゃんだな。
「ったく。何そんなにさわいでるのよ」
 あたしはゆっくりと起き上がった。
 顔にまとわりついた髪の毛をはらって。
 うわ、頭ぐらぐらきそう。
 しかも頭になんかつけてるみたい。
 手触りからして、包帯まいてるのかな?
 後頭部に軽く手をあててみる。
 とたんに鋭い痛みが広がった。
「いてて……あたしどうしちゃったの? 頭に包帯なんかして」
「美香っ。あんた全然おぼえてないの」
「おぼえてない、って?」
 いったい何のことだろう……
 きょとんとしているあたしにパパもママもお姉ちゃんも真剣な顔をしてあたしを見ていた。
「美香、自分の名前、言える?」
「名前?」
 パパがマジになって尋ねる。
 おいおい、いきなり何言うんだよ。
「美香。明日美美香」
「漢字は?」
「明日に美しいが二つの香水の香」
「生年月日は?血液型と星座は?」
 もう、しつこいなぁ。
「五月十九日。牡牛座のO型っ。もーいったい何なの?」
「どうやら自分のことはおぼえてるみたいね」
「でもあたしたちのこと忘れてるかもしれないじゃない。記憶喪失とかってそんなもんじゃない?」
「そうね。美香なら忘れそうだわ」
 なんかそれ、傷ついたな。
 けど、お姉ちゃん達はそんなあたしの気持ちも気にとめず、次の言葉をふりかける。
「じゃ、家族の名前と年齢、なんでもいいからおぼえてることをかたっぱしから言いなさいっ」
「えー、そんなの言うの?」
「いいから黙ってゆーこと聞きなさいっ!」
 きいきいと声を上げるお姉ちゃん。
 んな怒鳴らなくたっていいじゃない。
 ったく、しょうがないなぁ。
 あたしは仕方なしにまわりにいる家族をかたっぱしから言ってみる。
 まず、明日美大吾朗、四十二才。
 まるで男と女の名前がくっついた感じだからゲイじゃないかと疑われたこともあるあたしのパパ。
 だけどこれでも法律事務所で働くやり手の弁護士だ。
 都合がわるいと何かと法律にこじつけてしまうのがちょっと困りものだけど、普通のお父さんって感じの人かな。
 それからパパの隣にいるのがあたしのママ、明日美ゆき、三十八才。
 こっちは苗字と名前の区別がつかなくていつも「みゆきさん」とまちがわれている。
 ごくごくふつーの平凡な主婦のひとり。
 もちろん、趣味は井戸端会議とバーゲンセールだ。
 でも衝動買いとかするのがタマにキズなんだよね。
 この間なんか美容機械なんか買ってあたし達を困らせるし。
 そしてあたしの目の前にいるお姉ちゃん、明日美洋子。
 年はあたしより二つ年上の十六。
 ま、これが一番まともな名前をしてるかな。
 今高校一年で、勉強も運動もそこそこいい成績をとっているけど、最近推理小説に興味をもってるのが欠点ともいえる。
 テレビのサスペンスなんか見ると、何かしら推理をしてあたしたちのくつろぎを妨害しているのだ。
 そりゃ六割がた、あっているんだけどせっかくの楽しみをなくしちゃってるような気がする。
 と、まあこんなとこで。
 まるで、家族紹介でもするかのようにあたしはそれらを全部言った。
 うむうむ、とお姉ちゃんは感心したようにうなずく。
 ほっとため息をつく。
「ふーむ。身の回りのことは全部おぼえてるわけだ」
 けど、とお姉ちゃんはあたしをにらむ。
「ふつー家族の欠点を言うかぁ」
 わーっ、そんな怖い顔しないでよっ。
 何でもいいからおぼえてることを言えって言ったの、お姉ちゃんじゃない。
 ベッドの上でじりじりと、あとずさりするあたし。
 そんな姉妹のあたし達にパパはまぁまぁ、となだめた。
「ちゃんと家族はおぼえているんだから、いいじゃないか」
「そーよっ。ケガ人は安静にしなきゃ」
 お父さんの助け船に便乗して、ママが言った。
 ちぇっ、とお姉ちゃんは舌打ちをすると、しぶしぶ空いているイスに座る。
 飲みかけの缶ジュースを飲む。
 おいおい、残念そうな顔をするなよ。
 まったく、姉妹とか兄弟の上の方ってのはなにかと下のほうにちょっかいを出すのを生きがいみたくしているんだから。
 ふう、とあたしはため息をもらす。
 あたしの長い髪がふわり、と揺れた。
 それにしても、ここはどこだろう?
 病院、かな?
 辺りを見まわしながら見当をつける。
 でも、あたしったらなんでこんなとこにいるのだろう?
 こんなケガまでもして。
 しかも起きた最初から身元調査みたいなことはされるし……変なの。
 いったいどうしたんだろう、あたし。
 と、その時。
 がちゃり、と病室のドアが開く。
 男の人二人が部屋に入ってきた。
 ひとりはきちんとスーツを着た、パパよりも二、三才若いようなおじさん。
 もう一人はシャツにジーンズ姿の若い青年。
 対照的な二人。
 どちらも見覚えのない人だった。
「あの、どちらさまで……」
「ああ、失礼しました。わたくし」
 おじさんの差し出された警察手帳にあたし達は息を呑む。
 刑事さんだ。
 緊張が走る。
 弁護士のお父さんも少しとまどいの様子。
 けど、お姉ちゃんだけは、
「あらら」
と意外そうな顔をしただけで、あとは優雅にジュースを飲んでいた。
 その冷静さ。
 こりゃ、ミステリーマニアがこうじたな。
「お嬢さんの具合は?」
 穏やかな口調で刑事さんが聞く。
「はい、ぱーにはならなかったようで」
 こら、一言多いぞ、お姉ちゃん。
 ぎっとそっちのほうをにらんでしまうあたし。
「あのー、刑事さんが何か?」
 パパはいったん落ちついてから刑事さんに尋ねた。
「ちょっとお嬢さんに聞きたいことがありましてね」
 そう言って、刑事さんはあたしの方を向く。
 一体、なんなの?
「自分の名前と住所は言えるかい?」
 さっきと同じ質問をあたしにふりかける刑事さん。
 いいかげんイヤになった、と思った。
 それでもあたしはしぶしぶとさっき言ったことと同じことを刑事さんに答える。
 半分ヤケになって。
 けど、刑事さんはあたしの元気な答えにほっとため息をついていた。
「ならよかった。ちょいとそこで聞いたら記憶喪失になってるかもしれないって医者が恐ろしいこと言ってたから。自分のことは、わかるね」
「はあ……」
 めんどくさそうに返事をする。
「じゃあ自分が階段から落ちたことも、おぼえてるね」
「階段から……って、え!?」
 悲鳴。
 病院中に響きわたる声に、みんなぎょっとする。
 けど一番ぎょっとしたのはあたし自身だ。
 階段から落ちた?
「一体、どういうことっ」
 意味不明でつけられた頭のケガは階段から落ちたものだったの?
 だからお姉ちゃん達はあたしが記憶喪失になったんじゃないかって思ってあんなことを聞いたの?
 何それっ!
「あたし階段から落ちたの?」
「美香?」
 あたしの言葉に今度はお姉ちゃんがびっくりする。
「あんた、自分のことはおぼえてたんじゃないの?」
「おぼえてるけど」
 けど、階段はおぼえていない。
 落ちたこともおぼえてない。
 これって……
「あんた、都合のいいところで忘れちゃったようね」
 困ったというよりあきれたような顔をするお姉ちゃん。
 なんか、同情してくれてるのかけなされてるのか。
「仕方ない、刑事さん。美香に何が起こったか話してあげましょうよ。ね」
 まるで自分が刑事さんの恋人か、あるいは相棒だというように、お姉ちゃんは馴れ合いをかける。
 その口調はやけに明るい。
 刑事さんは少しけげんそうではあったが、結局お姉ちゃんの意見に流された。
 それは、お姉ちゃんが言ったからじゃなく、言われなくてもあたしに質問するのに必要な確認だったからだ。
 刑事さんはこほん、と一回せきばらいをしてからあたしに話した。

               
topnext