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ヒガシの「ハレ」はニシの「ケ」(過去編)


13 一生忘れるものか!

 テーブルの上で蝋燭の炎が揺れる。紗耶香は一度瞼を閉じた。
 今彼女は自分の過去をひとつひとつ紐解きながら言葉を選んでいるのだろう。
「父が製薬会社の開発所長だったことは――知ってるよね?」
「ああ」
「父の仕事は新薬の開発でね、娘の私が言うのもなんだけど父は優秀だった。これまでに難病の特効薬をいくつも作ってきたわ。でもある日――父は研究していたウィルスの亜種を偶然作ってしまったの。それは実験の失敗作で、ある物質と結合すると増殖して沢山の人の 命を奪う危険なものだった。父はそれをすぐに処分しようとしたけど仲間の研究員に盗まれてしまって――テロに使われてしまったの。
 テロのあと、父は数年かけてウイルスに対抗するワクチンを開発したわ。そしたら今度はテロリストたちが父を脅迫してきた。その研究書類を全て渡せってね。もちろん父はそんな奴らに屈しなかったし、私達も父の意志を尊重した。でもそのせいで家族である私達の身にも危険が及んだの。
 最初は空き巣が入って、何度鍵をつけ変えても奴らは何度も家に侵入して家探しをした。怖くなった母は日中、家に寄りつかなくなったわ。私も通りすがりにナイフで脅されたし、大人数に囲まれて車の中に引きずり込まれそうになったこともある。私ね、その時になって初めて晃くんの気持ちが分かったの。近所の人も学校の友達も、その場に居合わせた人達全部、何もかも信じられなくなるってこういうことなんだって。晃くんは小さいころからあんな怖い世界で生きていたんだね」
 そう言って紗耶香は目を細めた。すごいよね、と言いたげな表情が俺に向けられるが、この状況下で褒められても嬉しくはない。
 俺の気持ちを読んだのだろうか、紗耶香はすぐに話を引き戻す。
「結局――父は悪魔にその研究を売ったわ。研究よりも私や母の命を取ったの」
「悪魔ってテロリストたちのことか?」
「もしかしたらテロリストよりもタチが悪いのかもしれない」
 その一言は俺に動悸を与えた。まさか、と思う。
「あの人、言ってたわ。ウイルスを盗むようそそのかしたのは自分だって。確かに殺人ウイルスができてしまったことは遺憾なことだ。でもそれは父がやらなくても、いずれ他の誰かが発見していたかもしれない。だったらウイルスを破棄するべきではない。それこそワクチンの開発をすすめて、万が一の時に備えるのが賢明だ――って。一見正論に思えるわよね? でも違った。あの人は本来父が持つべきだったワクチンの特許を自分のものにして、利益を得ようとしたのよ。私達家族の命と引き換えにして。
 あの人は負の研究を受け取る代わりに、この世から消えろと言ったわ。そのための舞台はこちらで用意すると。父はその条件を呑んだ。そして――あの爆発火災を起こしたの。
 ……事件の後、私達は蓮城の名を捨てたわ。南はね、祖母の旧姓なの。私達は正体がばれないよう世間の片隅でひっそりと暮らしていた。父は畑違いの仕事についたけど、研究に明け暮れていた時の輝きを失ってしまった。母は言葉にはしないけど、昔の生活が恋しいみたい。私はそんな両親を見るのが辛かった。だから――高校を卒業したら自立しよう、そのためにバイトを始めたわ。あとはごらんのとおりよ。
 まさか、晃くんにまた会えるとは思わなかった。最初はびっくりしたけど。本音を言えばすごく嬉しかった。でもね。晃くんの顔を見るたびにあの人の顔がちらつくの。確かにあの人のおかげで私達家族は生きていられる。けど死んでいるも同然なの。辛くて、悔しくて」
 だからごめんね。
 そう言って紗耶香は俺に黒い「何か」を向けた。それはスタンガンではない。小ぶりの拳銃だ。
 予想以上に重たいのか、紗耶香は拳銃を両手で抱えている。腕がぶるぶると震えていた。
「これ、玩具じゃないから。下手に動いたら引き金ひく、よ」
「これは俺の父への復讐、なんだな」
「そうよ」
 紗耶香は悲しげに笑った。
「実はね、晃くんが眠っている間にあの人に連絡を取ったの。晃くんの命が惜しいなら特許を父に返せと言ったわ。前のような生活ができなくても、特許を取り戻せば父は元に戻るかもしれないって、そう思った。でもあいつは鼻で笑ったわ。そんなこと出来るわけがないって。だから私は――晃くんを殺すしかないの。殺して、あいつに見せつけなきゃいけないの」
 紗耶香の瞳に鈍い光が宿る。緊張のせいか、息づかいが荒い。
 紗耶香は本気だ。俺は父を呪った。紗耶香をここまで追い詰めた父を許せなかった。
 俺はどうすればいい?
 彼女の言うとおり特許を返還すべきか?
 ――いや、違う。
 彼女が本当に欲しいのはそんなものではない。彼女が本当に欲しいのは――
 俺は席を立つ。紗耶香に近づくとその銃口を自分の胸に突き付けた。紗耶香がはっとしたような顔で俺を見上げる。
「俺が死ぬことで父に報いを与えることができるなら俺はそれで構わない。俺は紗耶香にまた会うことができたから、それだけで満足だ。俺はずっと後悔していた。自分のせいで紗耶香を死なせてしまったんじゃないかって、そう思っていた。でも紗耶香は生きていた。それだけで俺は救われた」
 ありがとう、と俺が告げると紗耶香の表情が崩れた。唇がわなわなと震える。ずるいよ、と言葉が漏れた。
「晃くんは人質なのに。そんなことを言われたら私、悪人になりきれないじゃない」
「紗耶香は悪人には絶対なれない」
 俺はきっぱりと言う。その瞬間拳銃が俺の胸から逸れた。紗耶香が一歩二歩と後ずさり、鉛の凶器を今度は己の心臓に向ける。安全装置はすでに外されていた。
 そして紗耶香が引き金に力を込めようとした――その時だった。
 ぴしりと乾いた音が耳に届く。硝子を突き抜けた銃弾が紗耶香の肩をかすめ、持っていた拳銃が床に転がった。続いて二弾目が放たれる。今度こそデッキ側の窓ガラスが粉々に砕け落ち、外から黒いスーツに身を包んだ男数人がリビングに入ってきた。
 奴らは北山が率いる護衛たちではない。それでも二、三人見覚えがある。奴らがいつも父の影に潜んでいたからだ。
 奴らが紗耶香を取り押さえる。女性とはいえ命を奪おうとした者には容赦しない。床に体を押し付けると両腕を後ろに組ませた。肩に怪我を負った紗耶香から短い悲鳴が上がる。
「止めろ! 紗耶香に触れるな」
 俺は一喝すると奴らの動きが止まった。紗耶香に近づく。紗耶香は床に伏せたまま動かない。
 俺は大丈夫か、と声をかける。触らないで、とつっぱねられた。
「一人で立てる」
 それは紗耶香なりの虚勢だった。紗耶香がゆっくりと立ち上がる。肩を抱き血で染まったドレスを引きずりながら侵入者たちの前に立ちはだかる。
「逃げも隠れもしないわ。警察に通報して下さい」
「紗耶香!」
「これでいいの。これで私は蓮城紗耶香に戻れる。ごめんね、晃くん」
 もう私のことは忘れて――
 そう言って紗耶香は俺に背を向ける。このまま離れてしまうのが惜しくて。
「嫌だ!」
 俺は咄嗟に声を上げた。
 俺は全てをぶちまける。二年前、月が一番美しかった夜に言えなかった答えを。
「忘れるものか。おまえは俺の初めての友達で俺の初恋だ。一生忘れるものか!」
 叫んだあとで紗耶香が振り返った。その美しい瞳には涙が浮かんでいる。零れ落ちた涙は頬を滑り床に消えてゆく。ありがとう、さようならと唇が動くのを確かに見た。
 紗耶香が奴らとともに闇へ消えていく。
 この家に取り残されたのは俺一人だけ。俺はしばらくの間、立ちつくしていた。テーブルの周りが緩やかな灯りを落としていく。長い時間ここにいたせいか、蝋はだいぶ小さくなってしまった。
 そして全ての炎が消えたあと、急に外が騒がしくなった。

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