甲斐の先輩と名乗る男の発言に店長は戸惑いを隠せないようだ。グラスに残る酒をあおりながら、男は言葉を重ねる。
「もしかして、個人情報漏えいを心配してるの? そんなに俺のこと信用できない? これって職権乱用?」
「いえ、そんなことは――」
「大丈夫。こっちの彼女は俺の同業だし、悪用することは絶対ない」
 だよね、と話題を振られたので、あいりは小さく頷いた。
「あの、本当に連絡先を知るだけでいいんです。用が終わったらすぐに破棄しますから」
 店長は少しの間悩んだあとで、あいりと男を交互に見る。ひとつ唸った後、まぁ中上さんがそこまで言うなら、と了承してくれた。
「ちょっと待って。事務所から履歴書とファイル取ってくるから」
 しばらくして、あいりは店長から履歴書と一冊のファイルを渡される。先に履歴書に目を通しそこであいりたちは、皆が呼んでいた彼女の名が苗字だったということを知った。本名は安芸翠(みどり)。実家は埼玉で、年は二十になったばかりだ。連絡先に携帯の番号が書かれていたので、一度電話をかけてみたが、数コールのあとで留守番電話に繋がってしまった。
 一方、アキと揉めた客は白鳥という男だった。渡された会員名簿の職業欄には音楽事務所経営と書いてある。店長によると白鳥は元々大手のレコード会社に勤めていたのだが、数年前に独立、事務所を立ち上げたとの事だ。
 最初はインディーズバンドを主に手がけていたらしいが、一昨年、所属していたピアニストを当てたことから白鳥の羽振りはだいぶ良くなったらしい。
 今店にかかっているインストゥエンタルが、そのアーティストが演奏している曲なのだと店長が言うと、衣咲がえっ、と驚くような声をあげた。
「今かかってるの『tooya(とおや)』の曲ですよね? もしかしてその白鳥って人が彼をデビューさせたんですか?」
「衣咲、知ってるの?」
「知ってるも何も。この曲車のCMに使われて話題になったじゃないですか。それに、tooyaはアキちゃんの憧れの人です。この人に憧れて上京したって言ってましたもん」
 衣咲の興奮顔にあいりはなるほど、と頷く。泡の消えたビールに一度口をつけると、頭の中で事実と想像を絡めていく。
 アキはこの店でピアノを弾いていた所を白鳥に目をつけられ、声をかけられた。それが憧れの人を手掛けた人物だと分かったら、アキも相当舞い上がったことだろう。もしかしたらデビューの話が来ていたかもしれないし、tooyaとも一度会っているかもしれない。想像がそこまで広がると、二人がもめた理由も気になる。白鳥には一度会ってみた方がいいだろう。
 あいりは会員名簿に記された白鳥の住所を書き写すと感謝の言葉とともにそれらを返却した。口添えをしてくれた――中上にもありがとうございますと述べる。甲斐の知り合いともなれば、何かお礼をした方がいいかもしれない、そう思ったあいりは何か飲みます? と声をかけた。
「お礼にお酒をひとつ奢らせて下さい」
「別にいいよ。何ならその貸しは甲斐につけといてくれる? ヤツが困ってる時に助けてやって」
 そう言って中上は席を立った。座っている時は気づかなかったが、中上の足は相当長い。見降ろされたあいりは息をのんだ。自分よりも背の高い男はそうそう居ないだけに圧倒された。
「じゃあ俺、あっち行くから」
 そう、中上が言う。その指の先を追いかけると、そこには合コンにも似た風景が広がっていた。あいりたちがカウンターで話をしている間に客は増えていて、テーブル席はいつの間にか満席になっていた。
 中上は二人組の女性がいるテーブル席に向かおうとして――立ち止まる。ああそうだと言葉を漏らし、あいりに近づいた。少し体をかがめ、あいりに耳打ちする。
「この先俺と何度か関わるかもしれないけど、その時は俺のこと恨まないでね」
「は?」
「じゃ。探してる子がみつかるといいね」
 あいりの前にあった大きな影は小さな風とともに引いて行った。その背中を見送りながら、あいりは眉をひそめる。今の言葉はどういう意味だろう、と必死に考える。
「おねーさまっ!」
 しばらくの間ぼおっとしていると衣咲がにょきっと現れた。顔が非常に近い。急に視界を阻まれたあいりは呪いにも近い視線にうわぁ、と声をあげ一歩後退する。
「もう! 何度も呼んだのに。何でこっちを向いてくれないんですかっ。まさか、あの男に惚れたとかないですよね?」
「は?」
「だって、あの男の背中を名残惜しそうに見てたじゃないですかっ」
    嫉妬の眼を向ける衣咲にあいりはもう一度はぁ? と声をあげた。
  「そんなの許しませんよ。あいりおねーさまは私のモノなんですから。もうここに居る必要はないですよねっ。次いきますよっ! 次っ」
 強制的に腕を絡められたあいりはぼおっとしていた理由を話す間も与えられなかった。ずるずると引きずられ、店の外へ連れ出される。扉の外に出た瞬間熱気が襲った。
 外はまだ明るかったが、店の前を通る人達は増えていた。ある店の前ではYシャツを着崩したサラリーマンが店の呼び子に誘われている。その隣では同伴出勤と思われる男女が。通りを歩く人達の中には、いちもつを抱えて居そうな顔がちらほら伺えた。繁華街の長い夜が始まろうとしている。このぶんだと今夜は熱帯夜になりそうだ。
 あいりは次の目的地に向かって歩き出した。途中スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを少しだけ緩めた。隙間に風を取りこむ。その横で衣咲が携帯のシャッターを切ったのは言うまでもない。