正しい休日の使い方

  1 或る休日 side="A"
 非番だったその日、瀬田あいりはひととおりの家の用事を済ませると、昼ご飯を食べに外に出かけることにした。
 家事で汗ばんだ服を脱ぎ捨て洗濯機に放り込む。箪笥の引き出しを開けた。手前にあった大きめのTシャツとカーゴパンツの組み合わせを選ぶ。薄手のパーカーをはおりキャップを被り、背の高い少年の姿に変身する。
 寮の玄関の扉を開くと灼熱の太陽がアスファルトを直撃した。あいりは一定のリズムで歩き出す。外に居る時間を少しでも減らそうと大股で歩くと、人々の視線が集まる。それは紫外線を嫌がる女性が日傘を揺らして姿を見たがるほど。身長一八五センチの存在は通りすがりの人間にも絶大なインパクトを与えていた。
 大通りの交差点を右に曲がると、右手に飲み屋の小さな看板が見える。昼間はランチで夜はお酒。週末になるとちょっとしたライブも楽しめる酒場は仕事場である警察署の目と鼻の先で、あいりはちょくちょくこの店を訪れていた。
 店に到着すると時刻は十一時。ちょうどランチタイムに入った所だった。あいりは扉を開ける。いらっしゃいませーの声とともに、店員の笑顔がとびこんできた。
「あいりさんこんにちはー。あれ? 今日はワンコ連れじゃないんですかぁ?」
「ワンコ連れって……ペットを飼った覚えはないんだけど」
「だってあの人、本当に犬っぽくて。あいりさんのこと『ご主人様』って言いそうな感じじゃないですか」
 ふふ、と思いだし笑いをする店員になによそれ、とあいりは呆れる。確かにあいつは犬っぽい。けどご主人様ってのは何か気に入らない。あいつは本物の犬じゃないし――そんなことを思いながらあいりは帽子を取る。
 二人の会話に出てきたワンコとは同じ署に勤務する甲斐健(かいたける)のことだ。
 甲斐は警察事務官でそのネーミングから「甲斐犬」とか「飼い犬」と呼ばれていて署の連中からは足蹴にされている。
 甲斐は本来、事件の捜査をしない「警察事務官」なのだが、上からの指示で殺人や強盗事件といった凶悪犯罪が起こるとあいり達といっしょに捜査を手伝うことになっていた。それこそ犬のごとく周辺の臭いを嗅ぎ、事件の証拠品を集めたりするのだ。
 その実力は確かで、この間は次期国会議員が殺された事件の犯人を現場に残っていた匂いだけでつきとめた。甲斐は今、署にとって欠かせない戦力だ。
 そんな甲斐の欠点は他人への説明が下手ということと、死体を見るとすぐに気絶するということだろうか。今では甲斐の失態をフォローするのがあいりの仕事になってしまった。  あいりの脳裏に甲斐ののほほんとした顔が浮かぶ。が、あいりはそれをすぐに打ち消した。今日は休みなのだから仕事のことは忘れよう、そう心の中で呟きながら、案内されたカウンター席にむかう。今ではすっかり馴染みとなったマスターがあいりを迎えた。
「お、あいりちゃんじゃないか。この時間に来るとは――今日は休みかい?」
「そうなんです。野菜カレー、お願いします」
 あいりの注文を受けあいよ、とマスターは返事をする。すぐに出されたカレーは一口ほおばると、ピリリとした辛さが広がった。一緒に煮込んだ夏野菜は甘く、こんがりと揚げた玉ねぎチップスとの相性もいい。そしてつけあわせのらっきょうのほどよい酸味がまた食欲をそそる。まさに至福のひととき――のはずだった。
 半分ほど食した所で、あいりが持っていたスプーンがぴたりと止まる。背中に悪寒が走った。その強烈な視線に思わず振りかえると、店の扉の前で店員と同じエプロンをつけた少女が目を輝かせている。あいりの口からげ、という言葉が漏れる。
「きゃーっ、あいりおねーさまっ」
 お使いから戻ってきた少女はスーパーの袋を放りだすと、あいりの胸にとびこんだ。感動的な再会と言わんばかりの抱擁は小柄な体に似合わない位強力だ。その力は一体どこから来るのだろうと思う。
「衣咲っ! なんでここに」
「夏休みだからここにバイトに来てるんですー」
「ちょ、マスターっ! 高校生を飲み屋で働かせるなんて、どーゆーつもりっ」
「バイトっていっても彼女に働いてもらうのはお酒を出さないランチタイムだけだから」
 そう朗らかな顔で返すマスターに、あいりはぐっと言葉を詰まらせる。
「衣咲、あいりおねーさまになかなか会えなくて寂しかったんですよぉ。でもこれからは毎日会えますからねっ」
 そのきらきらとした眼差しにあいりは自分の体を引いた。いくら自分を慕ってくれるとはいえ、衣咲の言動は熱くねちっこい。ファンの度を超えた今は立派なストーカー予備軍だ。
 あいりが衣咲と出会ったのは一年前の冬のことだ。衣咲がストーカーのことで警察に相談してきたのがきっかけだった。
 当時生活安全課にいたあいりは衣咲の相談を受け、一度相手のストーカーに注意を促したわけだが、その時たまたま羽織っていたコートが男物だったこともあり、ストーカーはあいりを衣咲の新しい彼氏と勘違いした。
 ストーカーはいきなりナイフを出しあいりに襲いかかった。でも相手は警察官。あいりはナイフを蹴り落とすと相手の懐に入り見事な一本背負いを決めた。そして現行犯で逮捕しない代わりに衣咲には今後一切近づかないと条件を出したのだ。ストーカーに念書を書かせ、この件は解決したはずだった。後日衣咲がおねーさまと言ってまとわりつくまでは。
 衣咲はどういうわけかあいりの居場所をつきとめる。行きつけの店はもちろん、事件現場に現れることもしょっちゅうで。その執拗な位の追っかけと熱っぽい目にあいりがドン引きしたのは言うまでもない。衣咲が男性よりも「男性以上に美しく強い」女性が好きなのだと知ったのもこの頃だ。まぁ、衣咲のストーカーが、女性だったという時点でアレだったのかもしれない。気づけなかったのは自分の落ち度だ。
 ぼんやりと邂逅しながらあいりは氷水に口をつける。春先に刑事課に移動になったことで、あいりの生活は激変した。ひとたび事件が起これば昼間は調査や聞き込みで外を駆け巡り、夜は調書の作成や会議に追われたまに徹夜で署に籠ることもある。たとえ定時で家に帰れてもたまった洗濯物やら掃除やらで時間を費やされ、あとは泥のように眠るだけ。
 なので休日、外で食事をすることはあいりにとって貴重なひとときだった。誰にも邪魔されず好きな物を食べれる幸福は削りたくない。しかしこのままだと唯一の休息でさえも衣咲に阻まれてしまうだろう。今後お昼はこの店以外の場所で取らないようにしよう。あいりはそう心に固く誓う。
 あいりは残ったカレーをかきこむと、いそいそ席を立った。カウンターで会計を済ませる。すると衣咲は体をくねらせながら、あのぉ、とあいりに声をかけた。
「私、もう少しでバイト終わるんですけど、このあとお暇ですか? おねーさまに付き合って欲しい所があるんですけど」
 衣咲の誘いにあいりはげ、と言葉を漏らした。また服を買いに行こうというものなら即断らなければ。あいりの背中にじわり汗が浮かぶ。
 衣咲はまだ高校生だがあいりの世代が着そうな大人びた服をワードローブにしている。色のチョイスも服のセンスも悪くない。だが、衣咲があいりの為に服を選ぶとなるとその趣向がまた違ってくるのだ。それはキラキラ素材のパンツスーツだったり、ヨーロッパの騎士を思わせるひらひらのブラウスだったり。それは男装の歌劇団さながらのチョイスで、あいりはほとほと困っていたのだ。
「あの、買い物なら間にあってるから」
 あいりはやんわり断る。すると衣咲は違います、と舌っ足らずな声をあげた。
「衣咲、お友達の所に行きたいんですよ」
 お友達? あいりがオウム返しすると、お友達って――アキちゃんのこと? とマスターが口を挟んできた。衣咲がこくりと頷く。
「私、あの子のことがすごく心配で」
「確かに、最近は顔を見てないしね。元気だといいんだけど」
 二人の神妙な顔にあいりは首を横にかしげた。アキちゃんって誰? とマスターに聞く。マスターは作業の手を止め、布巾で手を拭くとその人物について教えてくれた。
「たまにライブの助っ人で来てくれてる子なんだけどね。この間から連絡が取れなくて。ライブにも顔を出さないし、こっちも心配してるんだ」
 あの写真に写っている子なんだけどね。
 そう言ってマスターは壁にかかっている掲示板を指で示した。掲示板には毎週末に行われるミニライブの日程や、バンド募集の広告が掲げられていた。その片隅に演奏をしているバンドメンバーの写真がピンで留められている。
 衣咲はマスターに一言断ると、ピンを抜き写真をあいりに渡した。
「後ろの右端にいるのがアキちゃんです。素敵なひとでしょ?」
 写真をうっとりと見ながら衣咲は言うと、写真を見たあいりは確かに、と頷く。パンクファッションに身を包んだ「アキちゃん」は、衣咲が好きそうな麗人だった。短く刈りあげた髪に細みの体型。挑むような眼差しときゅっと結んだ口元。写真を見るだけで尖った雰囲気が読み取れる。
 衣咲の話によるとアキちゃんの本名は誰も知らないらしい。バンドメンバーの一人がたまたま訪れた店で彼女がピアノを弾くのを見て、助っ人にスカウトしたのだそうだ。
 彼女自身、自分の事を語ることはあまりなかったという。
「最後にアキちゃんに会った時、今度サカエ町のお店で弾き語りするって聞いたの思い出して――私そこに行きたいんです。でも、そのお店ちょっと行きづらくて……」
「――店の名前とか住所ってわかる?」
 あいりが問うと、衣咲はエプロンのポケットから一枚の名刺を出した。「シークレットベース」と書かれたそこは会員制のバーらしい。店の名前はあいりも聞いたことがない店だったが、住所を見ると仕事で一度通ったことのある道沿いにあるとわかった。
 生活安全課に配属していた頃に一度だけサカエ界隈の店の摘発を手伝ったことがある。その時交番の警官にも周辺の情報を聞いたのだが、それはあまりいい話じゃなかった。
 あの界隈は窃盗事件をはじめ、客や店の小競り合いが毎晩あるという。薬の売買や違法カジノといった商売が横行していることも。あまりにも犯罪が多すぎて気が滅入るとのことだった。その中に年端もいかない少女を行かせるのはライオンの群れに兎を放りこむに等しい。
 あいりはひとつため息をついた。
 非番の日も人探しだなんて、警察官の正しい休暇の使い方とは言えないだろう。でもこのまま見て見ぬふりをするわけにもいかない。
「今日は非番だからお店に付添うだけね。彼女がいるかどうか確認するだけよ。それでもいい?」
「きゃー、おねーさま大好きぃ」
 衣咲が再びあいりに抱きついた。思い切り体重をかけられたあいりはぐえ、と変な声を上げる。食べたばかりのカレーが逆流するのを必死に堪えた。