葉月の雨

 

 その目は私をじっと見つめていた。
 私の顔がはっきりと見えているわけじゃない。気配を感じているだけ。そう、そばに誰かがいる――な程度のはずだ。
 赤子はくんくんと鼻をひくつかせ何かを探っていた。
 やがてその黒い眼が左右に動きはじめる。痙攣したような動きのあとで中央に寄る。ほんのりピンクに色付いた唇がアヒルのように突き出ると、ぽっかりと開いた口は富士山の形を作っていった。
 この子ってば。私とにらめっこしているつもり?
 私は眉間にしわを寄せた。ふつふつと沸いてきた感情をうっかり落とさないよう自分の唇をきゅっと結びなおす。
 それに反して、還暦を迎えたであろう男はにたにた笑っていた。赤子がひとつ背伸びをするたびに伸びろ、伸びろと声をかけている。目尻が終始下がりっぱなしだ。
「みぃちゃんは今日もご機嫌でちゅねぇ〜」
 年に似合わない赤ちゃん言葉。それを聞くたびに私の顔は歪むばかりだ。
 あーあ。この声がなければ外から聞こえる潮騒が良い子守唄になっていたのに。
 私はしまりのない顔をする男にほとほと呆れていた。
 どうして人は孫ができるとこうも変わってしまうのだろう。
 赤子にめろめろなこの男、浅黒く焼けた肌は漁師の鏡だと周りに豪語していた。いかつい顔が売りで、近所からは用心棒扱いされていたのに孫娘ができたとたんこの調子だ。はっきりいって気持ち悪い。
「ありゃりゃ、目が寄り目になってまちゅよ。お口が富士山でちゅよ」
 聞かなくてもいい実況中継は未だ続いている。私は嘆息した。ため息は側にあった扇風機に吸収され、部屋の中をくるくる流れていく。
 私が無反応だったせいだろう。にらめっこに夢中だった赤子は百面相をやめるとあっさり眠りに落ちてしまった。時折可愛らしい口がむにゅむにゅと動いている。もしかしたら夢の中で母親のおっぱいを吸っているのかもしれない。
 それにつられて男も船を漕ぎ始めるのだが――
「まずい、外の干物っ」
 仕事が孫との甘い時間を断ち切る。男は音を立てないよう立ち上がった。忍び足でその場を離れ、扉の前でもう一度振り返る。すやすやと眠る孫娘に後ろ髪を引かれながら部屋を後にした。
 赤子は静かな寝息を立てていた。
 一番暑い時間を超えたせいか、外の日差しはいくぶんか和らいでいる。すだれの隙間から潮風が流れると風鈴が涼しい音を奏でた。
 どこにでもありそうな夏の午後。落ちついた時間はまさに「嵐の前の静けさ」といった所だろう。
 だが、それもつかの間の平和でしかなかった。
 ほどなくして、空を覆っていた入道雲が本格的に暴れ始める。鋭い閃光が空を割った。轟音が大地を襲いかかる。自然の脅威は人間をも脅かす。赤子の小さな肩も例外なく揺れていた。
 そのうちバケツをひっくり返したような音が部屋を包み込む。赤子はむずかゆそうに腰をくねらせると、小さな顔をくしゃくしゃにした。真っ赤な茹でダコができあがった所で、結んでいた口がめいっぱい開かれる。
 鼓膜を破りそうな高音が部屋を突き抜ける。
 怖い。怖い。怖い。
 赤子は自分の身に起きた恐怖を全身で訴えていた。悲鳴にも似た泣き声が、ふくふくの頬を震わす。
 怖い。怖い。誰か助けて。
 赤子に手を差し伸べる者は誰もいない。祖父は自分の仕事を優先した。ここにいるべきはずの母親も家族と買い物に出かけたばかりだ。
 私は泣いている赤子を遠くから見つめていた。
 そして赤子に「あの子」の姿を重ねる。


 ――あの子が最後に見たのは姉の背中だった。
 彼女が着ていた真っ赤な水着は、生まれて一年も満たないあの子にはとてもまぶしすぎた。
 ねぇね、どこへいくの。
 あの子が姉の背中に問いかける。
 ねぇね、わたしもいっしょにいきたい。
 わたしもつれていって。
 あの子は必死になって呼びかけるけどあの子の言葉は姉に通じない。
 彼女の姉はとても怖い顔をしていた。
『海に行けないのは熱をだした――のせい』
『――がいなきゃお母さんと一緒に海に行けたのに』
『――なんていなくなればいいんだ』
 姉はぷいと顔をそらす。
 勢いよく扉を閉めると、もの凄い音を立てながら階段をかけおりていった。
 ねぇね、ねぇね。行かないで。
 わたしをおいていかないで。
 ひとりにしないで。
 あの子はひとり部屋に取り残された。
 姉に置いてかれたのが悲しくて、寂しくて。ひとり大声で泣いていた。
 嘆きは暗雲を呼び寄せる。
 やがて降り出す雨、雨、雨。
 そんなに泣いてばかりいると、雨女にさらわれちゃうよ。
 そう言い出したのは誰だろう。
 その昔、産んだばかりの子供を失った女性がいた。
 女性は妖怪となり、雨の日になると泣いている子供のもとに大きな袋を担いで現れるようになったという。
 そんな逸話を聞いたのはいつのことだったか。
 勢いよく降り出した雨の午後、あの子は鳴いて啼いてほとほと泣いて。大きくむせたあと目じりに泪を浮かべながらこと切れた。
 そんなあの子が可哀想で愛おしくて、雨女はその魂をさらっていった――


 雷雨は今も続いていた。
 雨粒が石のように転がっていく。
 赤子の声は更に甲高くなり、雨音に重なって新たな音を奏でていく。
 そんな中で。
「私のもとへ来るか?」
 ふいに耳をかすめる不協和音。
 黄泉へいざなう言霊は柔らかいものだった。
「私のもとへ来るか?」
 優しい声が赤子を誘う。すらりと伸びた手が赤子の涙を払おうとする。
 突然、赤子の泣き声が止まった。
 大きく見開いた瞳に私はびくりとする。
 再び左右に揺れるまなこ。赤子は私に焦点を合わせると口をぽかんとあけた。その唇がゆっくりと持ち上がる――
 不思議なことに、赤子は私に向かって満面の笑みを見せたのだ。あぅ、なんて甘い声が耳に届く。
 この子ってば。
 私は呆れてしまった。
 雨女は泣いている子どもをさらう妖怪。泣かぬ赤子に用はない。
 そう。
 だからこの子は連れて行けない――
「お父さんの馬鹿!」
 緊張を壊したのは階段をもの凄い勢いで駆け上がる音だった。
 ヒステリックな叫びに場が反転する。聞き覚えのある声に小さな体がびくり、と揺らいだ。
「なんで外にいるのよ! 出かけている間は海来を見ているって言ったじゃない!」
「なんで、って干物片づけていただけじゃないか! こちとら商売道具だぞ」
「生きている孫と干からびた魚どっちが大事なのよ――ああ、海来ごめんねぇ」
 うら若き女性は部屋に入るなり赤子をぎゅうと抱きしめた。その後ろでは干物を片し終えた男が口をとがらせている。だが赤子の目がうるんでいたことに気づくと、男は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
 何とも言えぬ空気が部屋を包み込む。そこへ呑気な声が加わった。
「あらあら、何だか騒がしいわねぇ」
 顔より先に派手な花柄のシャツが目につく。きつめのパーマが実際の年齢よりも老けて見える。部屋にひょっこりと現れたのは赤子の母親よりも三十は年を重ねた――赤子にとっては祖母にあたる女性だった。
「お母さんがそんな大声出したら、みぃちゃんもびっくりしちゃうよねぇ?」
「んなこと言ったって、お父さんが――」
「仕事と家族は天秤にかけるものじゃありません。それに咲月だって妹を置き去りにしたことがあったでしょう?」
「嘘ぉ」
「いつだったかしらねぇ。留守番してるって言ったのに、赤ん坊だった美月ほっぽってお向かいの家にいたお母さん追いかけてきたのよ。びっくりして慌てて家に戻ったら美月の呼吸が止まって――あの時はお父さんも出かけていたから大変だったんだから」
「そうそう。救急車呼んで大騒ぎになったよなぁ。あの時は助かったからよかったけど」
「そうなの? 私全然覚えてない」
「確か咲月が四つか五つの頃だったよなぁ」
「でもね、何でか美月はあの時のこと覚えてたのよ。あの時雨女にさらわれて――でも『私の坊やじゃない』から家に帰されたって」
「そんな小さな時のこと、よく覚えていたものねぇ」
 咲月と呼ばれた女性は人ごとのような声を上げる。自分の記憶にない出来事だからぴんと来ないのだろう。
 それでも話に出てきた妹に姉は当時の思いを重ねていた。
「そう言えば私、美月に嫉妬してたなぁ。何だかお母さん取られた気分でいたんだよね」
「そうね。あの子は体が弱かったから。お母さんずうっとつきっきりだったものね。咲月には寂しい思いさせたって今でも思っているわ」
 ごめんね、と続く言葉に女性は首を横に振った。
「――もしかしたら雨女にさらわれないように見ててくれたのかな?」
「かもしれないわね」
 咲月の母親は柔らかい笑みをのぞかせた。深く刻まれた皺がより濃く浮き上がる。二人の目が自然と部屋の奥に向けられた。
 そこにはお盆の飾りつけがされた仏壇がある。作られた棚の真ん中に飾られているのは私の写真。ファインダーに向けられた笑顔は二十年前に撮ったものだ。
「ありがとう」
 優しい声が私の元へ届く。
 我が子を抱いたまま仏壇を拝む姉に私はどういたしまして、とこっそり呟いた。
 母親に抱かれて安心したのだろう。背中にしがみついていた小さな腕がぶらぶらと揺れていた。くふぅ、という声が部屋に広がると穢れのない瞳たちがゆっくりと閉ざされる。
 雨女の気配は消えていた。
 空を覆っていた灰色の雲もつゆと消え、すだれの隙間からひとすじの光が差しこむ。
 残ったのは雨に交じった潮の香りだけ。


 ざあん、ざあん。
 遠くで海が呼んでいる。
 こっちにおいでと誘っている。
 それに答えるかのように風鈴がそっとささやいた。
 今はまだそっちにはいけない。
 けど。きっと、きっと。
 いつか――





こちらはsagittaさん主催 競作小説企画第五回「夏祭り」参加作品です。

(使ったお題)風鈴 海 汗 入道雲 水着 扇風機 すだれ 雷雨 お盆 潮騒

 
Copyright (c) 2011 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-