彼方
佐藤が怪我をしたと聞いたとき、俺は衝動的に怒鳴り返していた。
「何があったんだ」
目の前にいた陸上部の一年たちは顔を見合わせ、複雑な表情を重ねていった。
「私たちにもはっきり見ていたわけじゃないのでよくわからないんですが」
そう前置きして、彼らは言った。
「サッカーボールにつまずいたみたいです」
俺はとっさにサッカー部を睨んだ。
誰がそんな所に放置したのだ。
どうしてそうなったのだ。
掴みかかりたい気分でいっぱいだった。
だが、それよりも佐藤がどうなったかが気になる。
俺は佐藤の行方を問いただし、答えにあった保健室へと向かった。
普段体育以外の運動なんてしてないから、少し走っただけで息があがってしまう。
それでも保健室までの道のりを一気に走った。
あの部屋は確か、外からでも入ることができたはずだ。
一分も経たないまま、目的地にたどり着く。
テラス窓の前に置かれた小さな靴があった。
片方だけのスパイクがいつもよりも九〇度傾いて転がっていた。
その隣には男物のシューズが逆ハの字を作っている。
だが、妙だ。
窓の向こう側には人影が四つあったのだ。
「教えてやるよ」
俺の記憶にはない赤毛の男は不敵な笑みを覗かせていた。
男と対峙するのは昼休みに顔を合わせた同級生――田辺だ。
その間に佐藤と、田辺の恋人がいた。名前は加山、とか言っていたと思う。
田辺は眉間に皺を寄せたまま、複雑な表情をしていた。
加山は何かに怯えたような感じで、血の気が引いていたのだと思う。
佐藤はというと、長い前髪が邪魔をして、どんな顔をしているのかが分からない。
どうしてこのメンバーが揃ったのかが疑問といえば疑問だが。
何よりも佐藤が気がかりだ。
息を整える間もなく、俺は迷わず飛びこんだ。
「佐藤っ」
緊迫した空気をぶちこわす。
「青柳……」
佐藤が前髪を軽くさらった。
ぱらぱらとこぼれ落ちる黒い線。あらわになった顔から浮き出たのは――涙のあと。
それを見ただけで体温が急激に上がる。
だが。
「どうした?」
のんびりと聞かれて、思わず声が跳ね上がった。
「どうした、じゃないだろっ」
陸上部を尋ねたら、いつもある姿が見つからなくて。
何かあったらどうしようって、本気で心配したのに。
そんな、のほほんとした返事はないだろう?
ものすごく心配したのに――いきなり出鼻をくじかれた。
「ああこれ?」
焦る俺にも構わず、佐藤は自分の足をあらわにする。
すらりと伸びた足、そこにできた膨らみは尋常じゃなくて。
正直……目の前がくらっときた。
「すごい腫れているじゃないか!」
「はっきり言って――痛い。泣いちゃいそうなくらい痛い。てか泣いた」
「そんなにひどいのか?」
「まだ痛いけど……でも、さっきより落ち着いたから」
かなりの被害だったらしいが、佐藤は強かった。思ったより言葉はしっかりしていた。
「病院、行くのか?」
「ん。今、先生が車準備してくれてる」
「そっか」
俺は深いため息をつく。その場にしゃがみこんでしまった。
「よかった……」
怪我はひどいけど、佐藤が無事でよかった。
緊張がほどけた瞬間、強ばっていた俺の腕がだらん、と落ちた。
いままで取り巻いていた不安がするすると抜けて、昇華していく。
憑き物が落ちると、ようやく冷静さを取り戻すことができた。
沈んだ体をゆっくりと起こす。佐藤を見上げた。
今度は下から見ているから、表情が少しだけ分かる。
俺のうろたえぶりに少し戸惑っていたようだ。
そういえば、佐藤の前でこんな顔をしたのはひさしぶりなのかもしれない。
「元気そうでよかった」
素直な喜びが笑顔に浮かぶ。
佐藤ははっとしたような顔をした。瞳の中にある海がほのかに揺れている。
少しだけ震えた唇を、噛んで紛らわせているのが分かる。
今度は俺がはっとした。
そしてごめんな、と心の中でつぶやいた。
うっかり自分の気持ちを出してしまったことを、佐藤に謝った。
俺はずっと前に佐藤にふられている。
佐藤にはずっと前から好きな男がいた。
いくら望んでも、心を掴むことができないって、最初から分かっていた恋だった。
失って、苦しくて、切なくて、本当は逃げ出したかったのに。
結局、佐藤から離れることも、恨むこともできなかった。
だから今は友達として、ここにいる。
一度晒した気持ちを必死に堪えて、佐藤と向き合っている。
佐藤が幸せになるか、佐藤から拒まれるまでその関係は続くのだろう。
「心配かけて……ごめん」
佐藤がそっとつぶやいた。
それが彼女なりの優しさだと受け取った。
俺はかぶりを振る。
佐藤に気を使わせたことがちょっとだけ申し訳なかった。
俺はゆっくりと立ち上がる。
周りにいた三人に目を向けた。
足元でだいたい見当をつけたのとほぼ同時にああ、と佐藤がつぶやいた。
「田辺が……ここまで運んでくれたんだ」
佐藤の声が微妙に上がる。きっと、色々な意味で緊張したのだろう。
加山への気遣いと、田辺に対する複雑な思いが佐藤をとりまいている。
佐藤の中にずっと前ある小さな炎、その痛みは未だ癒えることはない。
俺はそれを知りながら、見ないふりをつづける。
それが佐藤のためだと思ったからだ。
「青柳ついてるなら、もう大丈夫だよな」
そう言って田辺は保健室から出ていった。
何故か自分の靴だけを残して。しかも行きとは反対の扉から田辺は出ていったのだ。
気づいた加山が靴を持って田辺を追いかける。赤毛の男も二人がいなくなるとあっさりとその場から消えてしまった。
保健の先生が車を部屋のそばまでつけてきたのは、それから数分後のことだ。
気づいた佐藤がゆっくりと立ち上がる。
「――っ!」
体重を移動した佐藤の体が極端に傾いた。俺は佐藤の腕を掴んで支える。
「大丈夫か」
「うん……」
「無理するな。俺が運んでやる」
それは何の打算もない、無意識に出た言葉だった。
だが、佐藤はそれをやんわりとかわす。
「大丈夫。ゆっくりなら歩ける……歩きたいんだ」
佐藤の後ろに海を見た。
岸を目指す波は穏やかで、全てを優しく包みこむ広さを持っている。
そこに、佐藤の強さを見つけた気がした。
――やっぱり叶わないな。
そう思った瞬間、俺の口元が自然とほころぶ。
「わかった。じゃあ俺もついていく」
「え?」
「見ていて心臓に悪い。このままじゃちゃんと診てもらうまで気が気でならない」
ほら行くぞ、と俺は佐藤の背中を軽く叩いた。
「急がなくていいから」
「ん」
佐藤がゆっくりと足を動かす。
時間をかけて車まで歩くと、用意された助手席に佐藤を乗せた。
「俺も付き添います」
俺が後部ドアに手をかける。
速やかに車に乗り込もうとして――俺は動きを止めた。
こちらに向かってくる影を見つけたからだ。
先頭を走るのは昼間ちらりと見かけた化学教師。その後ろには田辺の姿がある。
「陸上部で怪我人が出たって本当ですか?」
「ええ。これから病院に連れていきます」
「よろしくお願いします」
自分の担当部活でもないのに、科学教師はやたら恐縮した顔で運転席の人物に頭を下げている。
田辺は何とも言い難い顔で俺らを見守っていた。
田辺を囲うのは佐藤に対しての罪悪感。何もできなかったことに対する自己嫌悪。そして、俺へ向けられた憎悪の感情。
――悲しいことに、田辺の心が佐藤へと向かい始めている。
それは俺だけが知っている事実。
だが――今のこいつに佐藤を託すつもりはない。
だから俺は田辺にこう言ってやったんだ。
「佐藤のこと、ありがとうな。俺からも礼をいっておくよ」
我ながら嫌味なことを言ったと思う。
これは俺からの挑戦状だ。
本気なら――全てを捨ててみろ。
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