女神

 

「にいさま。おじさまはいつ、たびからかえってくるの?」
「え?」
「おとうさまがいってた。おじさまはけらいをいっぱいつれて、うみのむこうにいったって」
「お父様がそう言ってたの?」
「うん」
 幼い弟は純粋に叔父の帰りを待っていた。その当時、彼にとっての叔父は自分の知らない世界を面白おかしく話してくれる、おもちゃ箱のような存在だったのだ。
「おじさま、いつになったらおしろにかえってくるのかなぁ」
 指折り数えながら、時に空を見上げながら弟は質問をなげかける。そんな時、年の離れた兄は決まってこう言ったのだ。
「大きくなったら二人でこの国を豊かにしよう。世界で一番の国にするんだ」
 弟は兄の瞳が憂う理由も、放った言葉の意味も理解できていなかった。だからこそ満面の笑みを兄に見せていた。
 それはまだ、世界が自分の為にあるものだと思っていた頃の話。


 ――俺は瞑想を早々と断ち切った。


 極寒の地下牢にあるのは排泄の受け皿だけだった。寒さをしのぐ毛布はない。食事は一日に一度与えられるが、それも貧しいものだ。つまり、この国で一番貧相で劣悪な生活を強いられている。
 でも俺は特に焦らない。ここからすぐに「解放」されるのは目に見えていたからだ。
 残された時間は床に敷き詰められた石を数えることで埋めてゆく。端から端へひとつずつ。壁にぶつかるとひとつ折り返す。
 そして石がちょうど二百八十を超えたところで扉の向こう側が騒がしくなった。低いうなり声。冷たい床に引きずるような音が響き、すぐに静寂が再び戻った。
 ひとつ息をついて次の石目を探す。最後に指したのがどの石だったか記憶を手繰りよせながら。だがそれは別の音にはじかれた。遠くでブーツの踵が跳ねる。音は大きくなり、最終的に自分のいる部屋の前で止まった。重い錠が外側から外される。
 ゆっくりと扉が開いた。
 壁に掛けた触台の灯りが揺れる。ぼやけた視界に広がったのはあまりにも見覚えがありすぎる女だった。腰に下げられた剣に紋章が刻まれている。
「隣国の王が何しにきた」
 俺は悠然たる態度で女を迎えた。
「国王を殺した男をわざわざ見物に来たのか?」
 女は小声で否定すると、きょろきょろと牢内を見渡している。他に人がいないかを探っているようだ。
「道にでも迷ったか?」
「違うわ」
「……まさか。俺を助けにきたとでも?」
 その質問に女は黙りこむ。どうやら図星だったらしい。俺は忌々しい気持ちで舌打ちをした。
「だったらこっちから願い下げだ。とっとと帰れ」
「でも……」
「何だ?」
「貴方は父親を殺してはいないんでしょう?」
 女の問いかけに俺は息をのむ。
「あれは罠だったんでしょう? でなければ貴方の側近が全員殺された理由がつかない。貴方が乱心したなんて嘘。王を殺したのは――」
「だったら何だ?」
 俺は語気を強めた。女の表情を伺うことなく、腕を組み直す。
「この国は力を持つものがすべてだ。争いは常にある。利用価値のない人間、力に負けた者が排除されるのは当たり前のことだ」
「そんなのは理不尽だわ」
 おかしい、と女は何度も連呼し、かぶりを振った。だが俺には事実を否定する必要もないし、女のように髪を振り乱すこともない。母親譲りの金糸はすでに切り捨てられた。背中には取り調べの際にできた鞭の跡が残っている。それももうどうでもいいことだった。
 とはいえ、
「伝説という掟で王になった奴に同情されたくないな」
 俺は思ったままを唾ごと吐き出した。この女に俺の本当の気持ちなど分かるわけがない。当然だ。女はもともと宿場町に住む花売りだったのだから。それが何故隣国の王になったかというと、単純にその腰に下げている剣が女を選んだからだ。
 かの国の逸話によると、その剣は旅人に扮した神がその地に住む農民に与えられたという。
 農民が土を耕そうと剣を大地に突き刺すと、荒れた土地には緑が広がり、人々の生活を豊かにした。また、戦乱の時代はその刃で襲いかかる敵陣を斬り裂き、国を守ったそうだ。剣は自らの意志を持ち、主となる人物を探す。そして剣に選ばれた者のみが国を治めることができると言われていたのだ。
 なんてお気楽な国だろう。全ては神と伝説で言いくるめられる宗教社会。それだけで政治経済が回るというのだからおかしくてたまらない。国境ひとつ隔てた先は血と争いに飢えているというのに。
「――貴方はこれでいいの?」 
 女の問いかけに俺は「ああ」と答える。落ち着いた口ぶりに納得がいかないのか女は「本当に?」と更に食い下がる。俺は口元を歪ませた。腕を組み替え、更に固く結ぶ。確固たる自信をもって。
「俺はこれで良かったと思っている。この国に俺はもう必要のない人間だと分かったのだからな。むしろ生まれてこなければよかったとさえ思っている」
「……」
「おまえだって本当は『ざまあみろ』って思っているんじゃないか。俺のことが嫌いだったろう?」
「そうね。傲慢でどうしようもない我儘で……あまり好きじゃなかった」
「やっぱり」
「だけど――私を助けてくれた」
 翻された言葉に俺の動きが止まった。反射的に振り返るとそこで初めて女と視線が絡む。髪と同じ、落ち着いた闇色が俺をじっと見つめている。
「国で反乱が起きた時、私は海に投げ出されて一度死んだわ。でも貴方がすぐ助けにきてくれたから、私は息を吹き返すことができた」
「あれは――」
 あの時は混乱に乗じて女を誘拐することが自分に与えられた使命だった。
 戴冠直前の次期女王を人質にして隣国を奪うこと。全ては実行を命じられた――第一王子である兄の信頼を確かなものにしたい一心での行動に他ならない。
「あれは命令に従っただけだ」
 皮肉を落とすと真実が冷たい床にすっと消えた。だが女は「それでも私にとって貴方は命の恩人だわ」と切り返す。黒い瞳が深紅の眼差しをそのまま映しとる。
「確かに、私たちは身分も親も、生まれた環境も違う。お互いの苦しみを完全に理解することはできないわ。でも全ての生に意味はあると――幸せになりたい気持ちは同じだと私は思っている。
 幸せになりたくて、私たちは声をあげて生まれてきた。誰かに好かれたくて笑って、認められたくて必死になって――苦しんで、迷って、傷ついて、それでも明日を、未来を信じている。それは貴方も同じでしょう? 貴方だって本当は生きたいって思っている。だから一度は脱走して――」
「やめろ!」
 俺は組んだ腕をほどくと女を突き飛ばした。音もなく床にうっつぷした女王の醜態を蔑むと、露骨に視線を外す。
 わざとそうすることで心を閉ざした。今の自分にそのひたむきさは毒でしかない。
 ずきずきと、胸が痛みを訴える。それを払拭するかのように俺は話を畳んだ。
「俺は明日処刑される。それが真実だ。おまえがどう騒ごうが何も変わらない。俺はここから逃げない」
「そんな」
 国王である父を殺した反逆者として人生を全うする。真実を闇に葬ることが王位を継ぐ兄にも、自分にとっても最良の選択なのだ。それが自分に与えられた役割。
「最初から俺の命はあってないものだ。たとえこの場を逃れても生きる目的などない。俺にはもう――なにもないのだ」
「だったら私のそばで生きる意味を探せばいい!」
 女の啖呵に俺は瞬きすることを忘れた。たっぷりと時間をおいて一度息をつく。胸につかえるものを必死にこらえながら問いかけた。
「おまえ……自分が何を言ったのか分かっているのか?」
 他国の王子を――反逆者を匿うことが己の国にどういう影響を及ぼすか。女は今、戦いの火種を自ら拾おうとしているのだ。
 それでも女はうなずく。結んだ唇に強い意志が表れると、冷めきった己の体に僅かな熱が帯びる。
「貴方はここで死ぬ人ではない。貴方は私にとって生きる価値のある人。幸せになるべき人。それが剣の意志に反しても、王の資格を失っても構わない。私は貴方を救いたいの!」
 愚かだと思った。
 王の座について最初から重いリスクを背負う必要などないはずだ。なのに、女は自分の信念を曲げない。そして、それをあざ笑いながら、僅かな望みに揺れているもう一人の自分がいる。そんな自分もまた愚かだと思う。
 何故女の瞳はこんなにも輝いているのだろう。
 その強さは、想いはどこから溢れてくるのだろう。
 まぶしくて目を細めると、じわりと押し寄せるものがあった。前髪ごと顔を手で覆うと、指先にからみついたものがするりと流れ落ちていく。それが涙だと分かった瞬間、自分の中の何かが終わった気がした。自分の心が無意識に敗北を認めたのだ。
 最初にこみあげたのは兄に裏切られたことに対する悔しさだった。本当は兄に捨てられたのが悲しかった。叔父のように意味のない存在で終わるのが悔しかった。それを自分の中に閉じ込めたまま無になるのが怖かったのだ。
 もろもろの感情が指の間からとめどなく溢れると、体を支えることすらままならなくなった。体が震える。嗚咽が止まらない。内側から流れる涙が気管を刺激する。俺は声を上げて泣き崩れた。
 女は佇んでいた。俺を慰めることも、励ますこともしない。ただ包みこんで、時折背中をさすってくれた。それはとても優しくてあたたかい。まるで母の胸に抱かれているようだった。
「行きましょう」
 心が落ち着くと、女が外の世界へいざなった。
 この先にあるのは茨の道でしかない。それでも女は決してくじけないのだろう。かの伝説に頼らず、運命に抗いながら、明日という未来を信じて。おそらく血と泥を交えてもその凛としたたたずまいは消えることはないのだろう。
 俺は泣きはらした顔を乱暴に拭うと、女の手のひらに自分の額をあてた。我が国ではそれが忠誠の証とされている。
 全ての膿が吐き出された今、俺はこの女についていこうと思った。
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