オーバー

 

 真奈美の祖母が亡くなったのはほんの数時間前のことだ。
 死因は急性心筋梗塞、パートから帰宅した真奈美の母が見つけた時はすでに心肺停止状態だったという。運ばれた先の病院で、死亡が確認された。
 その日真奈美の父は仕事、祖父は友人の家で将棋を指していた。真奈美自身はというと大学に通うために実家を出ていたので、当然祖母の最期には立ち会えなかった。家の中で祖母はひとり旅立ったのである。
 真奈美が実家に帰ると、祖母は客間で迎えてくれた。いつもと違うのは布団の中にいて、顔を布で覆われていることだけ。側にはもうじき八十を超える真奈美の祖父がいた。
 最愛の伴侶を失ったことでよぼよぼの背中は丸まっていた。時折、穏やかな眼差しが物言わぬ妻に向けられている。それに反するように、膝に置かれた手は固い拳を作っている。
 その気丈な姿が何だかいたたまれなくて、真奈美は目を伏せた。真奈美自身、頭が追いついていない。これは現実なのかと問いかけたくなる。
 真奈美の記憶にある祖母はとても優しくて奥ゆかしい人だった。話を聞けば、その昔自由奔放な祖父に振り回されても文句ひとつ言わなかったという。全てを受け入れ包んでくれた人。ありきたりだけど確かに昭和の良妻賢母だった、と一人息子であるの真奈美の父は言っていた。
「真奈美」
 ぼんやりと祖母のことで思いを馳せていると、母に呼ばれた。真奈美が振り返る。すでに喪服に着替えた母から手渡されたのは一通の手紙だった。
「遺影の写真を探してたら出てきたの。おばあちゃんからの手紙よ」
「え……」
「『これから』のために、あなたも読んでおきなさい」
 真奈美は恐る恐るそれを受け取った。表に書かれているのは「遺言」の文字。裏は七年前の日付だ。真奈美の中で、その頃の自分と祖母がよみがえる。
 あれはうだる暑さが残る九月のことだった。祖母と一緒に見たのは北海道を舞台にしたドラマ。一面の銀世界をバックにして遺言状を読む場面がやけに印象的だった。
 あの時祖母は「私もそろそろ遺言状書かないとねぇ」なんて呑気に言ったものだから、真奈美は思わず西瓜の種を吹いた。そして「まだ早すぎるよ」なんて言って笑っていたのだが――
「おばあちゃん、本当に書いていたんだ……」
 真奈美は心の震えを整え、封を開ける。中に入っていたのは縦書きの手紙が一枚だけだ。達筆な草書は読みづらそうだが、流れる文字ひとつひとつに温かいものを感じる。
 真奈美は目頭が熱くなるのを堪えながら、祖母からの手紙を読み始めた。


拝啓
 朝夕はめっきり秋めいてまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
 皆さんがこの手紙を読んでいる時は、私は死んでいるのでしょうね。
 今は平成十四年九月十日の夜に書いています。先日見たドラマを真似て遺言状なんて書いてみましたが、これを書いてから何年たったのでしょう。
 できることなら、私が死んでそう日が経ってないことを願います。
 もし私のために泣く日々を過ごしていたというのならやめてください。
 これはどうしようもないことなのです。順番なのですから、決して悲しまないで下さいね。
 敬吾。
 仕事は相変わらず忙しいですか。
 私たちの時代は働くことが誇りとされていましたが、何よりも体が基本です。あなたは気管が弱いのだから気をつけなさい。また、仕事が忙しいからと言って家庭をおろそかにしてはいけませんよ。雪乃さんにさみしい思いをさせてはいけません。
 雪乃さん。
 結婚する際、私たちとの同居を嫌な顔一つせずに受けてくれてありがとう。時に嫌な思いをしたと思います。でも私たちの前では決してそれを見せなかった。立派です。これからもその強さで敬吾を支えて下さい。
 真奈美ちゃん。
 私の記憶にある真奈美ちゃんは中学一年生です。もう学校を卒業したのかな。大学に進んだのかな。仕事はしていますか。好きなひとができていると、おばあちゃんはとても嬉しいな。

 つらつらと書いてしまいましたが、そろそろ本題に移らなければいけませんね。ここからは私の遺言として受け取ってください。 
 とはいえ、私が残してあげられるものはたいしてありません。価値があるとするなら嫁いだ時に持ってきた桐箪笥と着物位でしょう。こちらは特に必要がなければ処分して構いません。通帳に僅かばかりお金が残っていると思います。それは葬儀の足しにでもして下さい。
 そしてひとつ、大切なお願いがあります。
 おじいさんのことです。
 こそばゆい話になりますが私はおじいさんと長い時間を過ごしてきました。おじいさんの我儘に振り回されることもありましたが、お互い一緒であることが当たり前でした。おじいさんと人生を共にできてとても幸せでした。
 なので、おじいさんが心配です。
 もし私がおじいさんよりも先に死んでしまったというのなら――


「棺桶は私の体にあった大きさでお願いします。余計な物は入れなくて結構。間違っても私を大きな棺桶に入れることのないよう……って。何じゃこりゃ」
 最後の数行に真奈美は首をかしげた。
 さっきまで感慨深く読んでいたのに。つつましい文章のなかにある毅然さが気持ち悪い。いきなり棺桶のサイズを指定するとはどういうことだろう?
「これってどういうこと?」
 問いかけに、真奈美の母はため息をつくだけだ。もちろん手紙の主からは答えが出てこない。父は近親たちへの連絡で手が離せない。
 なので、となりにいる祖父にも質問を投げかけようとするが――
 真奈美は口を結んだ。
 祖父の足元に葬儀屋から貰ったカタログがある。広げられたのは棺桶のページ。しかも通常よりひとまわり大きめの棺桶が晒されているではないか。
 やがて満面の笑みが最愛の人に向けられる。
「わしもすぐ隣にいくからのう……これでいつも一緒じゃ」
 冗談とも言えぬぼやきに真奈美の体が固まった。
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