Re:スタート

 



 暖かい風が窓から流れてくる。
 一緒に運ばれたのはピンク色の花びらがひとつ。
 それを横目で見ながら、私は床に積まれた段ボールをひとつずつほどいていた。
 やがて鳴り響く着信音。
 ふと手が止まる。
 目の前の惨状を放り出した私は、数秒で終わる音楽に食らいつき、それを開いた。


(件名)
 Re:スタート
(本文)
 メール読んだよ。
 住所の件、了解しました。
 私は元気です。

 突然農学部に編入して驚かせちゃったけど、
 今は遅れた分の単位を取得するのに必死です。
 実習では野菜育てたりしてるんだ。
 まさに畑違いの仕事してるでしょ?
 慣れない鍬を持っているおかげで今日も筋肉痛です。
 今度会うときは腕がすごいことになってるかもね。

 蒔いた種の成長を見るのはとても楽しいです。
 学部のみんなも優しいし、毎日が新しい発見の連続。
 しばらくはこっちの生活でいっぱいいっぱいだけど、
 落ち着いたら手紙書くね。
 ではまた。
 

 届いた近況報告に私はそっとため息をついた。
 それは安堵にも近い喜び。
 絵文字が全くない所とか、メールじゃなくて手紙を書くよ、とあるのが彼女らしいな、と思う。
 たった一つしか年が違わないのに、同じ大学二年生なのに。
 どこか古風な彼女が、私は好きだ。
「メイ」
 携帯を持ったまま目を細めていると、私を呼ぶ声がした。
 段ボールがこちらに近づく。
「荷物これで最後だけど、どこに置く?」
「箱に何て書いてある?」
「『夏物衣料』」
「じゃ、そっちの部屋」
 携帯にうつつを抜かしている私は隣りの部屋を指で示した。
 やがて、荷物が床に置く音が広がる。
 畳を踏む音とともに影が再び私に近づく。
「あと、アパートの鍵。渡しておくから」
「ありがと」
 伸ばしたままの手で真新しいスペアキーを受け取る。結局私の目は手元の携帯から離れない。
 そこへ声が素通りした。
「いいことでもあった?」
「え?」
「携帯見て、嬉しそうな顔してるから」
 相当ご機嫌だったのだろう。見上げた先にいた彼――東吾は私を咎めることはしなかった。
 私は開きっぱなしの携帯をそっとなでる。
「綾からメールがきたの」
「へえ。綾ちゃん、元気にしてるって?」
「ん」
 満面の笑顔の私によかったな、と東吾が言う。
「それにしても。綾ちゃんが農学部に移るとは思いもしなかったよな。そういうの興味なさそう――つうか、土にまみれている姿が想像できん」
「今は野菜育ててるみたいよ」
「そっか……変な虫がつかないか心配だな」
「なにそれ? 野菜に対して言ってんの? それとも綾に?」
「綾ちゃんに決まってるだろ」
 東吾はきっぱりと言う。
「俺にとって綾ちゃんは『妹』同然なんだから」
 私は苦笑した。
 確かに、最初に出会った時から兄貴ぶってはいたけど。
 この天然男、私が言わなければ一生気づかないに違いない。
 ――綾はね、東吾のことが大好きなんだよ。


 綾が東吾を好きだと気づいたのは何時だろう。
 もともと引っ込み思案で、男の人と喋るにも顔が真っ赤になってしまう、そんな子だったのに。
 いつの間にか、はにかむ表情に色気のようなものを感じるようになっていった。
 目の前には必ずと言っていいほど東吾がいた。
 綾の東吾を見る目は友だちの範疇をゆっくりと越えていく。
 なんて分かりやすい恋なんだろう。
 その時、東吾の隣りにいた私はぼんやりとそんなことを思っていた。
 東吾との付きあいが長すぎて、お互いが家族というか空気だったからかもしれない。
 嫉妬うんぬんよりも、子どもの初恋を見ているような気がして、むしろ微笑ましく感じてしまったのだ。
 それは綾の母親になった気分でもあったけど。
 そのうち、私を見る彼女の目の奥には羨望と、迷いと、罪悪感が含まれるようになっていく。
 そして去年のクリスマス、全ては壊れた。
 あの日、綾はいつもよりかわいらしく整えて、いつもは見ないワードローブを着こなしていたらしい。
 電話で綾はこれからデートだから、と言っていたけど。
 本当は東吾が来るのを待っていたのかもしれないと受話器の向こうで私は直感した。
 一瞬、綾になら奪われても仕方ない、なんて思いもよぎったけど。
 私の本能はそれを許さなかった。
 東吾を失うのは嫌。絶対耐えられない。
 だから私は綾を誘って、三人で騒ごうって提案したのだ。
 私の目が光っているうちは綾も変な行動に出ないだろうとタカをくくった。
 意地悪したのは私。
 綾はただ、自分の素直な気持ちを、精一杯の勇気を振り絞ろうとしていたのに――
 その芽を摘んだのは他ならぬ私だった。


「サイアク……」
 ふいに落とした言葉に東吾が反応する。
「どうした?」
 私はかぶりをふった。小さな罪悪感を心の奥に引っ込める。
「最近引越準備とか書類手続きでバタバタしてたから……少し疲れたなぁ、って」
「そっか」
 東吾が目を細める。もう一度右手でくしゃりと頭をなでられた。
 埋もれた髪の間から銀の指輪が浮かび上がる。
 それは去年のクリスマスに東吾自身が買ったものだ。
 対になっているそれは、私の右手薬指にも収まっている。
『一緒に暮さないか?』
 そう、東吾に言われたのはこの指輪を渡された直後のことだ。
『今すぐってわけじゃないんだ。ただ、就職決まったら、一緒にいられなくなるっていうか……たぶん俺の方が寂しくなって耐えられなくなりそうだから。もちろん家事を押し付けるつもりはない。メイはメイの暮しをすればいいって思ってる』
 東吾の言葉はとても嬉しかった。
 それでも返事は一年後にしようと思っていた。
 東吾が大学を卒業してからでも遅くはないと思ったからだ。今さらだけど、綾に気を使ったのもある。
 もちろんこのことは誰にも話していない。
 でも、綾が突然学部を変えて今まで住んでいた寮を引き払ったことで、私は返事を繰り上げた。
 綾の行動は晴天の霹靂だったけど――今思えば、それは私たちと距離を置くための行動だったのかもしれない。
 だからこそ、私は東吾との生活を決めたのだ。
 もう空気なんかじゃない。
 もう東吾を誰にも渡さないから。
 綾――ごめんね。
 私は自分の携帯をもう一度開いた。
 送信メールを選択し、先ほど綾に送ったメールを呼び出す。


(件名)
 スタート
(本文)
 ○○区△△町3−5−2−201
 今日から、ここで東吾と一緒に暮らします。
 そっちの生活はどうですか?


 私は再び苦笑した。
 たった三行のメールを送るのに、どのくらいの時間をかけただろう。
 悩みに悩んで。言葉選びに苦労して。
 送信ボタンを押すまで緊張して、指が少しだけ震えてしまったのも事実だ。
 だから綾の返事が素直に嬉しかった。

 私は元気です。

 その文字が偽りだったとしても、彼女の優しさは今も変わらないことが分かった。
 言葉が届いた時点で、私は救われた。
 だから――もういい。
 突然学部を変更したことも、引っ越したことも。
 その理由を私は聞かないでいる。
 彼女が私に心の内を告げるその時まで、見守っていよう。
 私は窓から見える飛行機雲を見ながらそっと思った。


プレゼント
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