水平線

  

水平線に消ゆ


「覚悟はできていました」と彼は言った。
「私は皇国に身を捧げたのです。いつ命が下ってもいいよう、心の準備はできておりました。残すは潔く散るだけです!」
 飛行機のエンジンにも負けぬ彼の叫びはこちら側にも届いていた。中央に視線をむければ上官たちが満足げに頷いている。よくぞ言ったと言わんばかりに、彼に水杯を進めている。 額に巻かれた血書のハチマキが彼の姿をより強硬なものへと変えていた。
 知覧の航空基地には碧い絨毯が敷かれていた。そこに並んでいるのは零戦の数々――私たちにとって希望であり憧れでもある飛行機たちだ。生い茂る草はこれから来る夏を待ちきれないのか、すくすくと育っている。飛行機の車輪の半分が埋もれるほどの勢いである。
 ここは英霊として潔く散るための花道だ。そして私たちは彼らの旅立ちを手伝い、見送る存在。故に飛行機の整備を怠るわけにはいかないのである。
 私は受け持ちの機体の上で唇を結びなおした。操縦席に座り、最後の確認を行う。操縦棒、フットペダル、各計測器が正常であることを確認すると、最後に懐に忍ばせた「モノ」を操縦棒にくくりつける。時を同じくして、彼が私の前に現れた。
 最初に届いたのは驚きとも呼べる声。
「これは――」
「処分してくれと仰っていましたが、全部捨てるのは勿体ない気がして。お節介かと思いましたが、整備士として心を尽くさせていただきました」
 ――昨日、身の周りの整理をしていた彼に頼まれたことがある。
「これを処分しておいてくれないか」
 手渡されたのはノートほどの大きさの箱だった。
 箱を開けて私は驚いた。知覧に配属になった彼が私と過ごした時間は一週間にも満たないはずだ。なのに、私が受け取った箱の中にはその十倍以上もの鶴がひしめいていたのだ。
 思えば彼には奇妙な癖があった。
 貴重な休息時間、彼は手持無沙汰になると自身の持っている詩集の一頁を破って折り紙を始めるのだ。それも決まって鶴しか折らない。最初に見たとき、私はなんて子供じみた奴なのだろう、と思った。折り紙などは女子供がすることだと密かに軽蔑していたのである。
 だが、その考えも日を追うごとに変わっていった。
 西の大国が沖縄本土に上陸してからというもの、知覧は慌ただしかった。上層部から下る決死の作戦。海に沈む命は日を追うごとに数を増やしている。出撃命令もいつ下るかも分からない。死の宣告を待つ気分は、英霊とはいえ、彼らにとって鬼気迫るものといえよう。
 そう思えば折り紙はましな遊びだ。
 私は一礼すると操縦席を明け渡した。そのまま、地上に降りようとするが――ふと、足を止める。
「榊少尉」
 私は疑問に思っていたことを初めて落とした。
「何故鶴だったのでしょうか」
「え」
「貴殿は飛行機でもなく、ずっと鶴を折っていらっしゃった。何か願かけでもしていたのでしょうか」
 ふいの質問に彼は虚をつかれたような顔をした。「そんなこと、一度も考えてなかった」とぼやいたので、今度は私が呆けてしまう。
「鶴を折っている時が一番落ち着いたが――そういえば、何も考えてなかったな」
 彼は吊るされた鳥の群れにそっと触れた。
「鶴は何羽できていたか、分かるか?」
「正確には数えていませんが、百はあったかと」
「そうか」
 彼は目を細めた。
「私は自分の知らない所で願っていたのかもしれないな……」
「何を」と私が聞いてみるが、彼は静かに微笑むだけだった。穏やかな眼は私を超え遥遠くを見つめている。それは大切なものを慈しむかのようでもあった。
 やがて大きな影が揺らぐ。一機目が動き始めたのだ。お互いの意識が現実を受けとめる。
「三木整備士の心遣いに感謝する」
 彼は唇を結ぶと、私に敬礼を向けた。私はそれを同じ仕草で受け止めると、機体の下に潜り、手動でエンジンを発動させる。ぶら下げた爆弾が震えはじめ、一定の音を保ち始めたのを確認すると即座に離れた。
 飛行機がゆっくりと動き出す。
 見送るべき彼らの家族は此処にいない。あるのは我々と野に咲く花々だけだ。雑草は車輪に踏みつぶされてもなお、空に葉を伸ばし、ひっそりと花を咲かせて朽ちていく。
 私は滑走路の隅でちぎれるくらいに手を振った。彼の最期の言葉を私はくみ取れなかった。彼は何を願っていたのだろう。この戦争が終わることだろうか。己の命を請うことだろうか。それとも――いや。考えてはいけないのかもしれない。
 今の私にできるのは、彼の武運をひたすら祈ることだけだ。
 風が路を越えていく。鉄の鳥が全て羽ばたくと、静けさが訪れた。手を仰いだまま空をぼおっとみつめると、ふいに白いものが視界をかすめる。最初は裏の森に住む鷺かと思ったが――違う。鶴だ。
 鶴は彼とともに海原へと旅立った。白模様が飛行機とともに水平線の彼方へ消えていく。その姿が見えなくなるまで私は帽子を振り続けた。その先にある絶望を、生まれゆく未来を信じて。


 ――彼はそれを最後に消息を絶った。




(「ぶんごうどおりの避難所」第三回写小説投稿作品)
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