チョコレート

  

 西暦二三五六年。
 この世界は――地球は僕たちにとってとても住みにくい場所となっていた。
 度重なる地殻変動と異常気象、環境破壊による地方の崩壊、都市機能の肥大化と自給率の低下。
 今住んでいる場所も、空気は汚染されており、街自体が大きなドームに覆われている。
 この状況を深刻に考えた各国の首脳たちは何度も会議を重ね、六年前に重大な決断をした。
 今から二年後の西暦二三五八年から千年にわたる地球の凍結。
 それは地球本来の姿を取り戻すための一大プロジェクトでもあった。
 「今」を生きる僕たちは近い将来、月にほど近い場所に建設されているスペースコロニー「ノア」へ移住することになる――


「やっぱり『ノア』はすごいよ。これで世界の全人口を収容することが可能にしちゃうんだから。数珠つなぎにするなんて考えもしなかった」
 キャンパス内にあるカフェレストランで僕はいつもより饒舌に語っていた。
 テーブルの上には今朝ダウンロードしたばかりの情報がある。トップページには宝石をちりばめた藍の空。その中心にはドーナツ状のコロニーがいくつも描かれていた。
「それでね。コロニーの中は農業区、工業区、医療区といったステーションごとに分割されているんだ。で、それぞれの人種、各国に合った気候が保たれるよう設計されていて、現在は全体の四割完成しているんだって。
 そうそう。事前に人間が冷凍保存(スリープ)するって話。やっぱり最初から案として出ていたみたいだ。環境は整えているけど、やはり食糧には限りがあるからね。ノアが完全に機能するまで最低二百年は眠るらしいよ。
 その間はクローンたちがコロニーを管理してくれるんだって。楽しみだよなあ。二百年後の第一次覚醒が始まる頃にはここと同じ世界が宇宙に浮かんでいるんだぜ」
「ふーん」
「『ふーん』って。これはとてつもないことなんだよ。機械じゃない、僕らと同じ細胞を持ったクローンが新たな地球を作るんだ。コピーがコピーを作るなんて面白いと思わない?」
「ぜーんぜん面白くない」
「エリィ……」
 僕は隣に座る恋人の名前を呼んだ。
 いつもなら僕の話を興味深く聞いてくれているのに今日はそっけない返事だ。僕の顔を一度も見てくれない。テイクアウトしたカプチーノに夢中だ。
 彼女が不機嫌な理由は分かっている。
「その……次のデートがキャンセルになったことは謝るよ」
「……」
「でも今回のことは僕だって驚いているんだ」
 まさか五万分の一の確率に当たってしまうなんて思いもしなかったのだから。
 ――ことの発端は半年前だった。
 ノアの住居区が解放され、一部の国が「お試し生活ツアー」なるものを企画した。
 これはノアの安全性をうたうものだったが、実際に宇宙での生活を体験できるということから人気は高まり、最終的には抽選という形になってしまった。
 かくいう僕もそれに応募した一人である。 
 あまりの高倍率に、僕は抽選に漏れたものだと思って諦めていたのだが、今朝突然当選のメールが送られてきた。
 どうやら当選者が出発直前になってキャンセルしたらしく、繰り上げ当選となったらしい。
 出発日は二月十二日。滞在期間は一週間。
 それを見た瞬間、頭の中にあった約束が抜け落ちてしまったことは――否定しない。
 エリィのことを思い出したのは、参加意思のメールを送ったあとだった。
「私、最初に言ったわよね。『十四日のバレンタインは大切な日だから予定を空けておいて』って」
「ああ」
「なのにアランは私が考えたデートコースより宇宙を選ぶんだ。私よりもクローンを選ぶんだ」
「エリィ」
 彼女が紡ぐ皮肉に、僕は一度唇をかみしめる。我を失っていたとはいえ、彼女を傷つけてしまったことを、心から悔やんだ。
「本当にごめん。でも理解してもらいたいんだ」
 宇宙に出ることは僕の小さい頃からの夢だった。
「そんな戦争にいくわけじゃないし、すぐに帰ってくる。デートだって一週間ずれるだけだ。それに大切な日って……たかがバレンタインじゃないか」
 恋人たちが愛を語らうのはいつだってできる。何も記念日に縛られることはない。
 そういう意味をこめて僕は言ったつもりだった。
 だが――
「『たかがバレンタイン』ですって?」
 テーブルに、空のカップがたたきつけられる。
「アラン、それ本気で言ってるの?」
「え?」
 エリィと目が合い――ぎょっとした。怒りをあらわにした顔が僕をにらみつけている。いつもはチャーミングに見える泣きぼくろが、ひきつっている。
「いい? バレンタインは私にとって大切な日なの。女性が心から愛する人にチョコレートを贈る日。これは母国の伝統行事、タカムラ家の家訓。それが執行できないことは先祖代々の恥なの! つまりは日本の恥!」
「恥、って……」
 そこまで言いきってしまうのも大袈裟である。
 バレンタインにチョコを贈るなんて特定の国の文化にすぎないではないか。
 エリィの家が千年以上続く旧家なのは知っていたが、そんなしきたりがあるなんて初めて聞いた。というか、伝統という義理でチョコをもらってもあまり嬉しくない。
 でもそれを口にしたところでエリィの逆鱗に触れるのがオチなのだろう。
 何せ彼女はサムライの末裔、剣道の師範を持つほどの腕前なのだ。
 いつもは可愛い恋人。でも怒らせたら誰よりも怖い恋人。
 ここは謝り倒すのが賢明だろう。
「本当にすみませんでした」
 僕はテーブルに両手をつくと、深々と頭を下げた。
「この埋め合わせは必ずします。っていうか、何でもしますっ」 
「本当に?」
「本当に、本当ですっ」
 テーブルに向かって僕はひたすら言葉を続けた。そして勢いあまってテーブルに額を打ってしまう。教会の鐘がひとつ響いた。
「ちょっと大丈夫?」
 エリィの顔が近づく。
「やだ、真っ赤になってる」
 ひんやりとした指の感触が僕の体温を上げた。
 素直に、嬉しい。
 こうやって僕のことを心配しているのは許しかけているサイン、なのかもしれない――うぬぼれかもしれないけど。
 しばらくの沈黙の後、エリィが口を開いた。
「……私のこと、好き?」
「そりゃあ」
 誰よりも心から愛している――
 恥ずかしくて言葉にはできないけれど、その分だけの気持ちをエリィの瞳に届けた。おでこにのせられた華奢な手を取る。
 僕の気持ちが通じたのか、エリィの唇が緩やかな弧を描いた。
「じゃあ今日は家に泊まって」
「え?」
「勘違いしないでよ。チョコ作るのを手伝うの」
 ああ、そういうことか。
「ウチは代々カカオから作るって決まってるの」
 それはまた手の込んだことを。既製品を溶かせば簡単なのに。
 僕はこっそりと思ってしまうが、エリィに笑顔が戻ったので黙っておくことにする。
「前倒しで祝うんだから。今日はとことん付き合いなさいよ」
「承知しました。レディ」
 僕は自分の手を胸元にあて、今度こそ恭しくおじぎをしてみせた。

(K.Sさん主催 「ほのぼの小説企画」参加作品)
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