始発列車

 その日、私は夜明け前に起こされた。 
「外に出よう」
 目の前でスーツ姿の彼が騒いでいる。揺れるネクタイの縞々模様。目覚まし時計は四時半を指していた。そんな。まだあと二時間は寝られるのに。
 私は愕然とする。目やにをつけたまま、泣きたくなった。彼は私をこの家から早く追い出したいのだろうか。
 でもこの家の主人は彼。私は客人。どうみても私の方が不利だ。
「ほら、早く」
 彼に促され、私は彼と一緒に過ごした布団から小さな体を引きずり起こす。いやいや身支度をした。荷物、といってもたいした物は入っていない。教科書ぐらいだ。このまま学校に行く予定だった。面倒くさいから着替えはいつも彼の部屋に置いておくことにしている……正直、彼に洗濯を頼むのは不本意なのだけど。
 用意していた服に着替え、寝癖を隠すように髪をひっつめた私。カバンを肩にかける。こざっぱりとした姿を確認すると、彼は私の手を引いて家を飛び出した。寒い。当然だ。今は一月で、まだ真っ暗なこの空。道路も、植えこみにある葉っぱもうっすらと霜をまとっているのだ。誰もが布団のぬくもりに甘えていたい時間。彼は何故、こんな早くに家を出たのだろう?
 私が口をへの字に曲げていると、
「見せたいものがあるんだ」
 彼は言った。一体何? 私はそう聞こうとするがその前に冷気で震えてしまう。言葉のかわりに不揃いな歯がガチガチと音を奏でた。吐く息が白い綿帽子を描き、空へと昇っていく。
 私達は歩いて数分もかからない駅で、始発列車に乗りこんだ。
 当然ながら、車内は指で数えられるほどの人しかいなかった。がたんごとん、と音を立てながら列車はレールの終点を目指していく。
 私達が向かうのは大都市のど真ん中――東京駅だ。
「これなんだ」
 彼が案内したのは八重洲側の出口扉だった。少し青みがかった以外は何の変哲もないガラス壁と銀色の枠。あまりの時間の早さに人通りも少なくて、殺風景な駅の構内。
 これが何?
 私は怪訝そうな顔で彼を見上げる。
「いいから」
 彼は頷いたまま、それ以上何も言わない。そこから動こうともしない。私はさらに眉をひそめた。
 と、次の瞬間。
「あ」
 ガラスの先に見えていたビルが橙色に染まる。陽が足下まで差し込んだ瞬間、駅の扉は絵画の額縁へと変わった。青く染められたキャンバスの中、建物の隙間を太陽が昇っていく。じわじわと、朝が主張を始める。ビルの位置も、昇っていく太陽の大きさも。全てが絶妙に収まっていた。まるでセンスのいい写真を見ているようだ。
 都会のど真ん中で日の出が見られるなんて。
 驚きを隠せない私は思わず「すごい」と呟いた。そんな私に彼は目を細めている。とても嬉しそうな表情だ。
 朝日がビルの頂上を越えた所で、私達は傍にあったハンバーガーショップに入った。彼はトーストとコーヒーを、私はわざとスープを注文する。綺麗なお姉さんにミネストローネ、と声をかけた。やっぱり響きが大人っぽい。何となくだけど。でも、そんな自分を彼に見せたかったのだ。
 品物を受け取り、窓側のカウンター席に座って食べた。同じ方向に座った私と彼の間に会話はない。何を話せばいいのか分からないからだ。年の離れた私達は流行も、考える事も、悩みだって違う。下手したら言葉だって通じない時もあるのだ。でも、お互いをどう想っているのかだけは分かる。
 しばらくして、彼が煙草に火を点けた。煙がスープの湯気と絡まってゆらゆら昇る。遠くを見つめる目。私は彼の視線を追いかけた。そこには平日の朝、寒空の下を立っている人達がいる。目の前の観光バスに乗せる客を待っているのだろうか。彼らは冷たさに耐えるように首をすくめていた。温かさに囲まれ、優雅に朝食を取っている私達はなんて幸せなのだろう。優越感が私を取り囲む。
 ……ふと、彼が頬杖をついて私を見ていた事に気がついた。
「何?」
 私は今日初めて彼に言葉をかける。
「私の顔に何かついてるの?」
 彼はかぶりをふった。
「ずっと見ていたいな、って。このまま時間、止まればな、って」
 言って恥ずかしくなったのか、彼は頬をついた手で口を塞いだ。耳が赤い。何を言っているんだか、そう思いつつ私の頬は赤みを増してしまう。嬉しくて宙に浮いた足をぷらぷらさせてしまう。幸せな朝のひととき。
 でもこの時間が止まることは決してないのだ。
 仕方なく私達は店をあとにした。手を繋いで歩く。温かさに少し混じった汗。お互いの手に力がこもった。新幹線の乗り口は目の前だ。
「ここでいいよ」
 改札口の前で私は別れの時を知らせる。次に会えるのは一月後の予定――
「向こう着いたらメールするね」
 そう言うと彼は今にも泣きそうな顔になる。いい大人が、って思うけど……胸が締めつけられた。
 こんな表情をするのは、私にもう会えなくなるかもしれないという不安があるからだ。
 だからあえて私から突き放す。
「先行って。仕事、あるんでしょう?」
 強がって、大人ぶってみせる。
 本当はもっと一緒にいたい。許されるのならずっと一緒にいたい。
 けどそれを口にしたらお母さんが悲しむから――絶対言わない。
「帰ったら……お母さんに『再婚おめでとう』って伝えて」
 別れ際、彼はぽつりと言う。
「いっぱいいっぱい幸せになるんだよ。僕の時よりもずっと――」
 大きな手が私の頭を優しくなでる。私は頷いた。いつものように目を潤ませる彼に「また会いに来るね」と言ってなだめる。これじゃどっちが大人なのかが分からない。
 でも――大丈夫だよ。
 どんなに遠く離れても、私に新しい父親ができても。私の中であなたの存在は絶対に変わらない。だから毎月会いに行くよ。
 じゃあ、と言って離れていく背中を私は笑顔で見送った。
「いってらっしゃい。お父さん」
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