短編

ラブストーリー


 僕の目の前には神のシンボルがあった。
 その昔イエスが背負ったという十字架。それを温かい目で見守るのは穏やかな目をした神父だ。踵を返した先には花嫁だけが通ることを許された道――バージンロードがある。
 僕が神聖な道の果てでその時を待っていると、二列目に座っていたお姉さんたちが僕を見て何かこそこそと喋っていた。タキシード姿、かわいいよね、と聞き取れる。僕は思わずうつむいてしまった。
 人に褒められるのは嬉しい。でも、気慣れない服だから恥ずかしい。僕は火照りそうな耳をふさいで動揺を必死に隠していた。
 やがてそれは音に覆われる。
 オルガンが奏でる旋律とともに奥の扉が開かれたのだ。
 湧き上がる拍手の嵐。現れたのは真っ白なドレスをまとった君だ。厳粛な音楽に合わせ、バージンロードを歩いて行く。これから迎える愛の儀式に緊張しつつも、幸せのオーラがヴェールの波とともに見え隠れする。
 僕は君の美しさにただ見とれていた。
 今、人生で一番幸せな時を迎えた君に改めて誓う。
 健やかなる時も、病める時も、僕は君を生涯愛し続ける。
 これからもこの身をもって君を守り続けるから。
「ずっと一緒だよ」


 僕が君と出会ったのは一年前――
 あの日、僕の背中を追い越したのはまばゆい光だった。
 振り返る間もなく高い声が響いたあと、何かにぶつかって「あ、空飛んだ」と思ったら急に落ちて、べしゃりと地面にぶつかった。頭の痛みは五分後にやってきた気がする。
 僕を突き飛ばしたのは赤い小さな車だった。それに乗っていたのが君だ。
 あの時君は泣いていて、ごめんね、と何度も謝っていた。僕はというと道路の真ん中に転がっていて、自分から流れる温かいものを感じながら雨上がりの空を仰いでいた。頭の中と同じ数の星が夜空に瞬いていて「ああ、これが交通事故ってやつなんだな」なんてのんきに思ってたんだっけ。
 君は君で自分のしたことにかなり動揺していた。僕の周りをぐるぐると回っては、止まり、僕をのぞきこんでは頭を抱え座りこむ。これでもかというくらい途方に暮れていた。
 そして、やっとの思いで君は電話をかけたのだ。
「ジュンちゃん……」
 少しの間の後で、くしゃくしゃの顔をしたのは相手の声に緊張がほどけたからだろう。君がしゃくりあげる。
「どうしよう。私――大変なことしちゃった。私のせいであの子、死んじゃったよ!」
 君は声をあげて泣き崩れてしまった。 
「ごめんね。痛かったよね。苦しかったよね。ごめんね」
 僕は君の懺悔を聞きながらぼんやり思っていた。
 僕まだ死んでません。生きています――たぶん。
 よろよろな僕は地面に添えられた白い手に頬を乗せて主張する。すぐにひゃっ、と可愛らしい声が広がった。
「生きて、る……の?」
 近づいた君の息づかい。その問いかけに、僕は小さく唸った。
 僕生きてます。地面に頭ぶつけてぼおっとしているけど、意識はあるみたいです。
 だから勘違いもほどほどにして下さい。
「よかった」
 僕の訴えが届いたらしい。目の前にある顔がまた歪んだ。こぼれおちた涙が僕の血と混ざる。
 気がつけば僕は君に抱きしめられていた。体全体で感じたのはどくどくと流れる心の音。今までにない安堵とあったかい気持ち。ここにきて、僕はやっと安心できる場所を見つけたのかもしれない。
 だから僕は君の腕に身を任せ、何日かぶりの深い眠りについたのだ。
 次に目が覚めたとき、僕の前に美味しそうな食べ物があった。
「食べられる?」
 心地よく響くのは優しい声。僕は目の前にあった食べ物をくわえ口を動かした。歯ごたえはない。それでも、砕くことでさらに食べたい気持ちが増した。思えば、ちゃんとした食事にありつけたのは何日ぶりだろう。
「よかった……食欲、出てきたみたいね」
 見上げると僕を抱きしめてくれた君がいた。
「ここは私の部屋だよ」
 君の話によると、僕はすぐに病院に運ばれたという。大量の血を流した割にたいしたこともなかったらしい。脳を検査した後で頭はきれいに縫われ、薬で眠らされた。その後目覚めて退院して、君の部屋で一晩過ごしたらしい。今日までぐったりしていたのだという。
 そして君は、僕が眠っている間にケイサツに事故の説明していたのだという。最終的にはブッソンというもので片づけたらしい。車のへこみもそんなに大きなものじゃなかった。
「ホント、このままどうなっちゃうんだろうって心配したんだよ」
 そう言って君はため息をつくけど――
 ごめんなさい。退院した時の記憶、全くないです。それに「ブッソン」という言葉が難しくて理解できません。
 でも、今君が笑っているということは、君が苦しむ必要がなくなったということなんだろうな。
 よかったと今度は僕が思った。
 勘違いがあったとはいえ、僕のために泣いてくれたひとは君が初めてだったから。そんな君が罰を受けていたとしたら、今度は僕が君を思って泣いていたに違いない。
「ありがとう」
 僕が感謝の言葉を述べると、君はにっこりと笑う。君は僕よりずっと背の高い、大人の女性だった。
 食事が終わり、僕は再び横になった。満腹感でまどろんでいると、
「君はどこから来たのかな?」
 と君が問う。僕はぎくりとした。
「君の家族、すごく心配しているんじゃないかな」
 確かに。僕には「ママ」がいた。綺麗だったけど、とても怖い人だった。
 部屋は汚くて、ごはんもろくに与えられない。僕がちょっとでも文句を言ったり拗ねたりすると殴られて、ひどい時は首を絞められたりした。それこそ世の中が言う「ギャクタイ」というものだったのだろう。
 普通の家と違ったのは僕がママを捨てたことだ。どちらかといえば僕の方がママを嫌いで、早く離れたいと思っていた。だからママが新しい男のもとに引っ越した時、僕は喜んで「捨てられて」やったのだ。
 だから帰る家なんか、どこにもない。
 僕が黙っていると君は首をかしげた。僕の頭をなでたあとに小さく唸る。
「わかった。ここにいてもいいよ」
 いいの?
 首をかしげる僕に君は目を細めた。
「いいよ。君の気のすむまでいていいから」
 こうして僕は君と一緒に暮らすことになった。
 君がママと違うのは決まった時間にごはんを用意してること、怒る時にこだわりがあるということだ。
 君は僕がおねしょしても怒らないのに、はしゃぎすぎて物を壊しちゃった時はものすごく怒った。そして僕が反省して殴られないかびくびくしていると決まって僕を抱きしめてくれるのだ。だから怒られても君を怖いと思ったことは一度もなかった。
 事故から二週間。僕が部屋の中でかけっこをするようになると、君は僕を連れて外に出かけるようになった。近くの川沿いを散策し、君は沢山の草花と虫たちの存在を教えてくれる。何日かに一度はあの赤い車で遠くの公園まで連れてくれた。
 君が見せる笑顔はとても可愛くて、どきどきしてしまう。君が笑っているのを見ると、僕も嬉しい気持ちになった。
 すべてがあったかくて、何もかもが輝いている。今までにない充実した生活。
 僕は君との時間が永遠に続くのではないかと信じて疑わなかった。
 そして――僕の傷が完全に塞がれた頃、君あてにお客さんがやってきたんだ。
 それは突然の訪問だった。君はかなり慌てていたけど、客を部屋に通し、お茶の用意を始めた。そして大好きなお菓子をひとつ、僕に渡してくれた。
「大事なお話があるから、ひとりで遊んでてくれるかな」
 僕はうなずく。
 そしてお気に入りの場所でお菓子をほおばっていると、客である男の方から話を切り出した。
「どうして家に来なかったの? この間のことは仕方ないにしても――また断るなんて。両親も君が来るのをとても楽しみにしていたのに」
「ごめんなさい」
 男の前で君は頭を下げた。どうして君が謝るのだろう。とても辛そうな声だったから、僕は君を責める男をにらんだ。
 空気を感じたのか、男がひるむ。
「もう……だいぶ落ち着いたんだろう?」
「ん」
「だったらそれなりの場所で親をさがした方が」
「私、あの子の親になるって決めたから」
「え」
「ジュンちゃんは、あの子が愛せる?」
 ジュンちゃんと呼ばれた男は口ごもった。静けさが訪れる。
「ごめん。意地悪言っちゃった。まだ子供だけど、あの子はジュンちゃんにとっては脅威だものね」
「……とにかく。他に方法はいくらでもあるはずだ」
「そうね。でも――」
 君は僕をちらりと見た。
「首の痣、見たよね?」
「ああ」
「あれは一日でできたものじゃない。きっと長い間ひどい目に遭ったんだと思う。それを考えたら他の人に任せておけない。この子の親になれるのは――ならなきゃいけないのは、私なの」
「それが君なりの償い、だって言うの?」
「はい」
 君は深々と頭を下げた。
「だから、ジュンちゃんと結婚することはできません。先日お受けしたプロポーズ、なかったことに下さい」
 ――ジュンちゃんがいなくなった後、僕は君のもとへ歩み寄った。君が正座の姿勢を保ったまま、うなだれているからだ。
 その姿勢、かなり辛いのではないのだろうか。
 心配になった僕は君ののぞきこんで――息をのむ。君の頬に沢山の水を見つけてしまったからだ。
「ごめんね。変な所、見せちゃった」
 君は目を細めた。言っている側からまたひとつ涙がこぼれおちていく。君の、くしゃりとした顔を僕は前にも見ていた。
 そう、あれは……
「もう辛い思いはさせないよ。一人ぼっちにはさせないから。私がずっと一緒にいるから……ずっと一緒にいようね」
 君は涙を拭いた。唇に笑顔をのせ、僕を抱きしめる。
「ご飯、作らなきゃね」
 君は僕を離すと台所に向かった。包丁から流れてくる一定のリズムを聞きながら僕もお気に入りの場所へ戻った。そばにある窓は空気の入れ替えのために少しだけ開いている。その隙間に体をねじ込ませると、僕はベランダに降り立った。
 ――ずっと一緒にいようね。
 あの時、僕はたぶん、今まで生きてきた中で最高の言葉をもらったのだと思う。
 でも。
 君はバカだ。
 そのために大切なものを手放さなくてよかったのに。
 そう、僕がこの家から出ていけがいいだけのことだったんだ。
 僕はベランダの柵を越え、隣の家をつたって地面に降りた。君に見つからないよう、早足で家の一角を抜ける。
 どこをどう歩いて行ったのかは覚えていない。僕は君から離れることで頭がいっぱいだった。
 街をぐるぐると彷徨っているうちに太陽は沈んでしまった。見上げた空に星がちかちかと瞬いている。いつの間にか僕は君と最初に出会ったあの道を歩いていた。 
 どのくらいの時間がたったのだろう。
 君は心配しているだろうか。僕が突然消えて泣いてはいないだろうか。
 一瞬そんなことを思い浮かんだけど、すぐに消した。そんなことはない。今頃君は大切なひととおいしいごはんを食べているはずだ。
 不幸を背負うこともない。僕と似たようなヤツなんてごろごろといる。街を歩けばママみたいなひともいる。どこかに君のような優しい人もいるかもしれない。でもどっちに転がっても、なんとか生きていけるんだ。
 だから君は大切なひとから離れないで――
「いた――っ!」
 しんみりとしていた僕を切り裂く悲鳴。そちらに目をむけた瞬間、僕は飛びあがりそうになった。
 う、嘘だろっ。
 ジュンちゃんがこっちに向かって走ってる!
 迫る勢いに僕は逃げた。でも僕とジュンちゃんでは一歩の差がありすぎる。あっさりと捕らえられてしまった。
 僕は悲鳴にも近い声で叫び、じたばたともがくけど、
「逃げるな!」
 一喝され、僕はびくりとした。
「彼女置いて逃げるなんて、俺をバカにしてるのか」
 へ?
「俺はそんなヤワな人間じゃないんだ。諦め悪いんだよ」
 ジュンちゃんはかなり息巻いていた。でも僕を抱えてる体はぶるぶると震えている。ここまでくると、僕のこと、相当ガマンしているのではないだろうかなんて思いがよぎってしまう。
「そりゃあ俺は苦手だし、今だって怖いよ。しょうがないだろ。昔ひどい目にあったんだから。でも、それと彼女のことは別なんだよっ!」
 ジュンちゃんは僕を抱えたまま方向を変える。その先に、息をきらせた君が立っていた。
「君がこの子がいないとダメなように僕は君じゃなきゃダメなんだ!」
「ジュンちゃん……」
「結婚しよう。君と僕とこの子、三人で家族になろう。それでいいじゃないか」
 思いがけない言葉に僕は目を丸くした。
 いいの? 僕は一緒にいてもいいの?
「こうなったら一生面倒見てやる。覚悟しとけ」 
 ジュンちゃんの優しさに熱いものがこみあげる。君も顔をくしゃりと歪めていた。僕が最初に見た君の顔だ。どうしていいのか分からなくて途方に暮れて。でもその先に見つけた安らぎの場所。
「俺と結婚してくれますか?」
「……はい」
 ジュンちゃんの手を掴んだ君は大きく頷く。
「一緒に帰ろう」
 差しのべられたもう片方の手に僕は迷わず飛びこんだ。
 
 
 ――オルガンの音に合わせ、白い波が揺れる。
 ちらりと隣をうかがった。
 僕と色違いのタキシードを着たもう一人の主役はというと――花嫁に見とれる以前の問題。ガチガチに固まっている。
 しっかりしろよ。
 僕はジュンちゃんの足に頭をごつんとぶつけた。
 ハッパが効いたのか、ジュンちゃんがはっとしたような顔をする。
 やがてバージンロードを歩き終えた君が僕の左隣りに立った。透き通るような歌が終わると、神父が言葉を紡いだ。
「良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、これを想い、これに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
「はい」
 神への誓いを済ませた後、お互いの薬指にそのしるしが示された。指輪交換を終えた二人は僕を見て笑う。僕の体がふわりと持ち上げられる。
 ジュンちゃんの抱き方は昔に比べたらだいぶ手慣れてきた。もしかしたら僕の仲間に噛まれたというトラウマが消えたのかもしれない。
 二人と同じくらいの目線になると、僕の見る世界が広がった。机の上には抜き取られた指輪のあと。その隣には僕と君を引き合わせた車と同じ色の首輪が置いてある。片隅に「LOVE」の文字。それは僕に与えられた新しい名前だ。
「これからもよろしくね、ラブ」
 ほほ笑む君に僕はしっぽをぱたぱたと揺らした。


(「覆面作家企画4」提出作品  2009年10月2日改稿)
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