短編

桜火 -hanabi-

 里子の家が火事だと知ったのは、僕が診療所に戻った時のことだ。先ほど遠出から帰ってきたばかりだったが、知り合いの家が火事だというなら茶を飲んでいる場合ではない。
 いつも使っている下駄を履いた。小刻みに鳴らし現場に向かう。現場にはすでに人が集まっていて、消防団の放水作業が始まるのを今か今かと待ち受けていた。
 危ないから離れて、と誰かが叫ぶ。とはいえ、煙と焦げた匂いたちは自由だ。手際の悪い消防団をよそに古びた建物がすすを徐々に浴びていく。
 数年前の東京大震災で周辺はレンガやコンクリートの建物へと変わっているがこの建物はかろうじて生き残った木造だった。建てた当時は珍しいとされた三階建ては一階は店舗として扱われ、その上は貸家とされている。
 建物の側には桜の木が植えてあった。満開の桜が煙に巻かれ、淡い色がほやけて映る。せっかく咲いた桜を散らすまいと、隣の家らしき人がバケツで水をかけている様子が見うけられた。
 ほとんどは野次馬ばかりだ。だが混み合いすぎてその中の誰が貸家の住人なのかが分からない。不安がよぎった。里子はもう逃げたのだろうか。無事なのだろうか。
 その時だった。
「あそこ」
 野次馬の一人が指を指す。三階の右側の窓から黒い影が見えた。ちょうど里子の部屋あたりだ。僕の胸がざわついた。
 まさか――
 僕は消防団の制止を振り切って建物に飛び込んだ。燃えさかる炎と煙が自分を取り囲む。息を止め、上へ上へと目指す煙の群れを追いかけるように玄関側の階段を駆け上がった。火があちこちでくすぶり、近くにある木や布を捜しては取り込んでいく。この火の回り方は尋常ではない。
「これは……」
 結論を口にする前に着物姿の女性を見つけた。三階の狭い廊下での出来事だ。見覚えのある模様に僕はかけよる。
「里子」
 彼女はぐったりといていた。
 幾度なくその名を呼び口元に顔を近づける。息は、ある。脈も弱いが、大丈夫だ。
 僕は安堵する。
 その一方で、ある人物への憤りが膨らんでいた。
 とにもかくも、彼女を外へ運ばなければ。僕は彼女を抱きかかえ、もときた道をたどろうとする。
 階段から足音が聞こえた。炎と煙の中、人影がゆらぐ。彼にとっては予想外の来客、だったのかもしれない。
 でも。
「坊ちゃん」
 里子の夫、平太の口調はとても穏やかった。そこに感情は見られない。坊ちゃん、なんて久々に言われた気がした。大店の息子と使用人だったあの頃が遠い昔のようだ。
 年も近かった僕たちは身分を越えた友達だったのに。時を越え、今はこうして睨み合っているなんて。平太の手には火のついた松明が掲げられていた。さっき見たあの人影も彼。これは彼の起こした心中、に違いない。
「おまえは……死にたいのか?」
「さあ、分かりません。でも……」
 いないほうが幸せかもしれません、と平太は続ける。里子の顔をのぞいた。
「そうすればお嬢さんはずっと……幸せかもしれない。今よりかは、ずっと……坊ちゃんと一緒になった方が幸せだったんですよ」


 里子はもともと僕の許嫁だった。
 親が決めた婚約者――だが彼女はいつの間にか平太に惹かれていったのだ。
 当時二十を超えたばかりの僕は嫉妬に駆られ、平太を家から追い出した。そして早急に祝言を上げるように進めたのだ。
 だが、追い込んだことでもう一つの関係が揺らぎ始めた。文句を言わずついてくる里子に平太の影が重なったのだ。
 本来なら手に入れて嬉しいはずなのに。その仕草が、困ったような笑顔が僕の心を揺らす。懐かしい影が僕を切なくさせる。
 里子の中に平太の全てが染みついていた。
 僕は空しさと罪悪感に襲われた。大事なものを二つ失った僕が最後にできたのは、彼女を解放してあげること、それだけだった。
 好きなところに行けばいい、僕の言葉に反応した彼女の顔は今も忘れられない。戸惑ったような、申し訳ないような……心から沸き上がる嬉しさを悟られないよう必死になっている顔だった。
 それからは一度も会っていなかった。
 実に十年も前のことだ。
 そして今年の冬――僕は勤め先の病院で偶然、里子と再会した。だが、呉服屋の娘だった彼女の着物は日に日にみすぼらしいものへと変わり、餅のような肌は乾燥と痣で色を変えていた。
「一体どうしたんだ」
 彼女のカルテの内容に僕は凍り付いた。体に残る無数の痣と流産の記録……カルテを突きつけ、問いつめた僕に彼女は観念した。
 平太が里子を殴るようになったのは、最初の子がお腹にいた時だという。訳も分からずののしり、怒鳴って手を上げるようになったという。腹を蹴られ子は流れ――それが何度が続いていた。度重なる暴力。それでも里子は耐えていた。
「あの人はたぶん……子供が嫌いなだけで……ふだんはとても優しい人なんです」
 この時、僕は里子を手放したことを初めて悔やんだ。殺意さえ覚えた。
 今でも彼女の心を繋ぎ止めている平太が疎ましい。
 医師としてあるまじきことだと知ってても、人間としての憎しみはなかなか消せなかった。


 柱や梁が炎で縮む。自分では動けない彼らはみしみしと音を立て「その時」を待つしかなかった。平太も同じだ。
 だが、その時は自分たちが思っていたよりも早すぎた。突然平太の足下が崩れたのだ。
 彼を乗せていた床が抜ける。とっさに僕は平太の腕を捜してしまった。確かな感触。体が腕を残して宙を舞った。振り子のように揺れる足。ぽっかりと空いた穴からは獲物を捕らえようと火の海が手招いている。
 死んでも構わない男。なのに僕は平太の腕を離さなかった。離せなかったのだ。
「何故」
 平太の驚きの顔。何故――理由はひとつしかない。
「里子とお腹の子の為だ」
 僕は渾身の力を振り絞り、平太を引き上げた。
「今ふた月を過ぎたところだ。おまえの子供が正月には生まれるんだ」
「ふた月……」
 床に体を這わせ、平太は言葉を繰り返す。そのうち彼はくっと笑い、毒を吐いた。
「後悔しますよ」
「……自分の父親の血を継いだ子生まれるのが、そんなに怖いか」
 僕の言葉に平太は口を閉ざした。
 そう、僕のいた時の平太はそんな荒々しいことをするような言動は見うけられなかった。だとすればそのきっかけはそれ以前、なのかもしれない。
 そう思った僕は火事の直前まで平太と知り合う前のことを調べてみた。
 平太の父親は家族にも平気で暴力をふるっていたそうだ。母親や平太の体は痣が絶えず、息を潜めて暮らす他なかったという。神経を尖らせた生活。側にいる鬼が父親だという現実は平太にとって辛かっただろう、と当時近所に住んでいた人間は口を揃えていた。
 きっと平太は父親の血を継いでしまったとことを憎んでいたのだろう。そして自分の中に潜む狂気に恐れていたのではないだろうか。里子という伴侶を得ても、血を絶やさなければという気持ちは消えなかったのかもしれない。今まで授かった命は力で押さえつけるしかなかった、そう考えれば彼の行動も納得できる。
 僕の中に生まれた狂気は、今も医師としての意地と誇りが引き止めてくれている。だが、平太は里子にすら話せなかった。体の傷は癒せても、心の闇は消えない。平太に潜む鬼はまだ幼い子供のままだ。今も泣きながら彷徨っている。
 守りたい。子供と里子を。そして平太を。この暗闇から救ってみせる。
 後悔なんて、そんなのはとうにしている。だが、それを乗り越えるために助けたい。
 沈黙が続く中、僕の中で筋肉が悲鳴を上げる。慣れない運動が祟ったのだろう。医者の不養生だ。でも弱音を吐いている暇はない。火の勢いは増していた。目の前の階段も壊れてしまい、下にはもう逃げられないのだ。自分を含め、命の危機はすぐ側にある。
 ふと、目の前の扉が飛び込んだ。
「こっちだ」
 ぐったりとした里子を背負い、平太を部屋の中へと促す。三畳一間の和室。火が回るのを恐れ、扉は閉めることにした。部屋の中は木戸が閉まっているせいか真っ暗だ。僕は里子を三畳の畳上に寝かせると、木戸を開けた。室内の熱風が外に逃げる。
 目の前に広がったのは桜色の世界。
 桜の花びらが頬をかすめ、渦を巻いて空へ昇る。そこだけ空気が違った。あの中に飛び込んだら空さえ飛べそうな錯覚にとらわれる。
 地上から三階にあるこの場所、二階まで降りれば飛んでも打撲程度で済むかもしれない――
 僕は里子がつけけていた帯を解くと、屋根の下にある垂木にそれを引っかけ、命綱にした。首筋からぽたりと汗が落ちる。いつの間にか服は水を浴びたように汗でぐっしょりと濡れていた。帯を結ぶにも手が滑る。
 窓を開けたとはいえ、この部屋の温度は尋常ではない。
「平太。里子を背負って先に降りろ。これでお互いをしばりつけてくれ」
 僕は里子から外した腰紐を渡そうとする。だが、平太は震えるガラス戸をじっと見つめたままだ。僕の声は届いていない。
 仕方ない、僕が里子を背負うことにする。
 その時だ。
 ガラスがはじける音がした。熱い風と飛び散る破片。魔物は僕たちを一気に呑み込もうとしている。炎が己を取りこむかと思った。
 僕と里子の前に壁が立ちはだかる。
「里子を……頼みます」
 平太は笑っていた。
 困ったようなその表情、僕は知っている。小さい頃、わがままを言う僕に答えてくれた時の顔。僕が好きな昔の彼。里子が愛した平太。
 何故。今になってそんな、顔――
 答えを聞く間もなかった。平太は力強い手で里子ごと僕を窓から突き落としたのだ。汗の雫が空を舞う。引力に逆らえない体――それでも。里子をかばうのが精一杯だった。
 紅蓮の炎が窓を突き破り、全てを呑み込んでいく。平太の姿はすでに掻き消されてしまった。一瞬の青、傾く世界……そして。
 ざわ。
 桜花が視界を埋めた。地面に背中が叩きつけられ、僕を支えていた骨があっけなく折れてしまう。
 大地が揺れ、建物が最後の悲鳴を上げている。そんな中、はらりはらりと落ちゆく花の欠片だけが自分の時間を頑なに保っていた。時々火の粉と交わり、かすかに音を奏でて色褪せる。それは美しすぎる終焉。認めたくない、現実――
 咳が肺の底からこみ上げる。打ち付けられた背中より胸が痛い。里子はまだ気を失ったままだ。
 彼女が目を覚ましたとき、どう言葉をかければいいのだろう。散りゆく桜の木の下で僕は途方にくれた。誰よりも愛おしい妻を、そのお腹にいる小さな命を置き去りにして。僕に酷なことを押しつけるなんて。
「馬鹿野郎……」
 あいつは何て卑怯なのだろう。
 叫びたい言葉は吐き足りないくらいあった。だが声が出ない。きっと叫んでも声は届かない。それが分かってしまったから。
 頬を伝う涙が止まらなかった。
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