短編

戸棚の中

「じゃあ史朗は今年も泊まりなのかい?」
「ええ。民営化になっても年賀状は変わらないですからねえ……お義母さんはお蕎麦の上に卵落とします?」
「そうしてもらえるかい」
 温められたつゆの中に溶き卵が入った。醤油と鰹節の香ばしさに甘く柔らかい香りが加わる。
 私は調理器具を洗い終えると、曲がった腰を一度伸ばしてからダイニングテーブルへゆっくり歩み寄る。背もたれのついた椅子をずるずると引き出してようやくおしりを沈めることができた。
「美久。お姉ちゃんにご飯だって言って」
 嫁の律子が声をかけると、テレビにはりついていた七才の孫が跳ねるように起きあがった。その十倍の年を迎えようとする私と違い、どたどたと足を鳴らして部屋を駆けていくさまは小さな怪獣だ。散らかしたおもちゃを今にも踏みつけそうな勢いが私にも伝わってくる。
 テーブルの上には天ぷらの盛り合わせや薬味がすでに用意されていた。大小の丼が二つずつ並べられると、やせ細った胃が活動を始める。小さな丼の上で黄色い綿がふわりと浮いていた。怪獣の足音がテーブルに近づく。その後ろには小学五年生になる美咲がいた。それぞれの席につき、最後に律子が着席する。
「では、いただきます」
 同時に声をかけあい、年の瀬を祝った。私は孫たちとは別に茹でてくれた柔らかいそばを口に入れる。時間をかけて咀嚼すると、口全体ですりつぶしてから飲みこんだ。急ぐことなく蕎麦をじっくりと味わう。
「おばあちゃん。いつお年玉もらえるの」
 私と同じ大きさの丼にかじりついていた美久が聞いてきた。気が早いなと思いつつ、私はおどけた顔をしてみせる。それが面白かったのか、美久はくりくりとした目を更に丸くして真似ていた。自然と笑顔がこぼれてしまう。
「まだだよ。明日の朝になったらあげるから。それまで待っててね」
「はーい」
「美久はお年玉でぬいぐるみ買うんだよねー」
 律子が首をかしげて娘と目を合わせると、美久は満面の笑みを見せた。「こーんなにおっきいくまさん」と、箸を持ったまま大きく腕を振り回す。
 たわいもないお喋りに、美咲だけが参加していなかった。いつもなら美久に負けず饒舌なのに今日は大人しい。具合が悪いのかと思ったが、蕎麦の上に天ぷらを沢山のせているのを見る限り、無言の原因は別にありそうだ。
「美咲ちゃんはお年玉で何を買うのかな」
「服とかいろいろ。あと携帯」
「こら。携帯はまだ早いって言ったでしょ」
「別に自分のお金で買うからいいじゃない。友達の中で持ってないの、私だけだよ」
 美咲の訴えに律子は渋い顔をする。小学生に携帯を持たせるのは早いと思う一方で、仲間はずれにされてしまうのではないかと懸念しているのだろう。最近子どもの世界は複雑らしく、親も何かと気を使って大変そうだ。 
「それになんでうちはお正月どこにも行かないの」
 美咲が口を尖らせ、追いうちをかけた。
「お正月っておばあちゃんの家に親戚とかが集まるんでしょう。うちは何でおばあちゃんがこっちに来るの」
「それは美咲ちゃんたちに会いたいからで」
「だったら私たちがおばあちゃんの家に行けばいいじゃん。おばあちゃんが大変な思いまでしてここまで来なくても私、いつでも遊びにいくのに」
「そうだねぇ」
 私は言葉を濁す。どうやら、美咲の不満はそっちの方が大きいようだ。
「夜十二時になったら遊園地で花火あげるんでしょ。おばあちゃんの家の近くだったよね。私、あれ見たい」
「美咲」
 律子が厳しい声を上げると美咲は母親を睨んだ。そこへ美久が口をはさむ。
「おねえちゃん、おばあちゃんのおうちに行きたいの」
「そうだよ。おばあちゃんの住んでいる所には食べ物や服を売っているお店がいっぱいあるの。美久が大好きなくまさんも遊園地にいるんだよ」
「ほんと?」
 美久が目を輝かせた。「ゆうえんちい」と連呼しはしゃぎ始める。だが。
「だめ」
 律子は二人の言葉をはじいた。
「お父さんは毎年年賀状の配達で忙しいの。ひとりにしたら可哀想でしょう。ほら、伸びないうちにさっさと食べなさい」
「何さケチ」
「けーち」
 孫二人がむくれながら再び蕎麦をすすり始める。律子はほうとため息をつくと、一度私と目を合わせた。「大丈夫ですよ」と読み取れた。でも私は冷たい何かで胸を突き刺されたような衝撃が否めなかった。
 孫たちは――私がこの家に泊まる本当の理由を知らない。まさかその打ち上げ花火が怖いからここに来ているなんて、思ってもいないだろう。
 数年前、私は年明け同時に打ち上げられた花火を見て呼吸困難に陥ったことがある。運ばれた先の病院で心因性による過呼吸だと診断された。ストレスや、潜在している不安や恐怖が呼吸を乱してしまうのだそうだ。
 それ以来、私は夜中に花火が上がる大晦日だけ一番下の息子である史朗の家に泊まることにしていた。史朗は私の子どもの中で一番離れた所に住んでいる。周りは山以外に何もない。干からびた年寄りが年を越すには十分な場所だった。
 だが孫たちにとってみればそれは迷惑なことなのかもしれない。せっかくの冬休み、いろんな所へ遊びに行きたいのに、私のせいでどこにも行けないのだ。
「何だか美咲ちゃんに悪いことしちゃったかねえ」
 食事のあと、あてがわれた和室で私がしょんぼりとしていると、シーツを広げていた律子は私に背中を向けたまま笑った。
「ああ。美咲が言ったことは気にしないで下さい。あの子の愚痴なんていつものことだから」 
「でもあちらのご両親にも申し訳なくて。これじゃあ正月もゆっくりできないでしょう」
 史朗一家は今まで車で三十分ほどの距離にある律子の実家で新しい年を迎えていた。律子の両親だって孫たちを連れて来るのを楽しみにしていたはずだ。
「いいんですよ。あっちはいつでも会えるし。それにお義母さんがこっちに来てくれて本当は助かっているんです。だって家のローンはまだ残っているし、年末だから出費はかさむし。だからそっちに行くはずだった四人分の旅費も浮いてちょうどよかった……って、すみません」
 肩をすくめる律子に思わずこっちの顔がほころんでしまった。普通だったら年老いた姑と二人で過ごすのには抵抗があるはずなのに、律子は物怖じすらしない。夕飯前にも急に訪れたお節介な隣人に笑顔で応えていた。
 彼女は良い意味で田舎の人だと思う。
「念のため毛布は多めに置いてきますね。ではよいお年を」
 そう言って律子は襖を閉めた。部屋の隅には電気ストーブと加湿器がめいっぱいに稼働している。念のため、枕元にスーパーのビニール袋を置いておくことにした。「よいしょ」と声をかけ布団の中に入る。日なたの匂いがした。それだけでも心が温まってくる。厚いもてなしに本当に旅館に泊まっているような錯覚を感じてしまう。
 考えてみれば自分から「旅行に行きたい」と思うことすらなくなった。肩や腰の痛みならともかく、最近は動きの源である膝の間接が思うように動いてくれないからだ。無理に動かせば痛いと悲鳴をあげて更に反発する。
 だから、トイレに行くだけで普通の人より二倍の時間を必要としていた。定刻通りに動く乗り物も足を踏み外してしまわないかと、びくびくしながら使っている。時々家族や優しい他人に介助してもらうこともあるが、誰かにお世話になるのはとても申し訳ないような気がしてならない。
 いっそのこと、ぽっくりと逝けたらどんなに楽だろう。気がつくと、そんなことばかり思うようになっていた。もう十分に人生を楽しんだ。そろそろお迎えが来てもおかしくないと、もう一人の私が囁いている。
 でも私は生きていた。そう簡単に死ねないことも知っている。気づいたのは、美久くらいの年だっただろうか。今でも知るにはあまりにも幼すぎたなと思う。今も鮮明に残る記憶は引きずったままだ。
 やがて、たるんだ瞼が重くなっていった。除夜の鐘はまだ聞こえない。天井に吊された小さな橙の電球が色を失い、私は眠りの世界に落ちていった。


 私が物心つく前からこの国は戦争をしていた。
 ここ数年続く不景気。それ立て直すにはこの島から出て新しい土地を切り開くべきだ。この国の領地を増やすべきだ。そう言って国の偉い人は近くにあった西の国を侵略していったという。だがそれだけでは飽き足らず、最近は東にある大きな国とも戦争をするようになったそうだ。
 私の家は首都である東京に隣接した海辺の町にあった。人口の半数は漁師とその家族で、彼らは沖に出て漁を行い磯辺に潜んでいる貝や海苔を捕って生活している。だが戦争が悪化していくにつれてその働き手は確実に減っていった。
 そして、昭和十九年――晩秋の夜にこの町は火の海となったのだ。
 最初の爆弾は深夜、海沿いの建物に落ちた。町を駆けめぐる空襲警報。寝ている所をむりやり起こされた私は、防空頭巾をかぶると、母と共に家を出た。ぴりぴりとした空気が辺りを包み込む。
 この町が襲われるのは初めてのことだ。緊張のせいか、母は私の手首を強く握りしめていた。ぐいぐいと引っ張られる腕。私は母が一歩進むところを二歩で進まなければならない。小さな足がせわしなく動く。
「お母ちゃん痛いよ。うで、ちぎれちゃう」
 母は私の言葉を無視していた。
「ねぇ、ちょうちょさんも早いって言っているよ」
 私が頭巾に留められた紐の結び目を見せながら訴えても、振り返らない。私は痛みを堪え母についていくしかなかった。狭い路地を抜け、町の大通りに出る。合流すると人があふれかえっていた。まるで故郷へ還る魚の群れのようだ。
 安全な場所に向かって群れはまっすぐに泳いでいる。海の向こう側がやけに明るかった。花嫁の紅を溶かしたような朱色、朝かと見間違うほどの空。それが敵の作ったものだと知っていながらもその姿はとても鮮やかで、私は目を奪われた。母の腕に引かれながらつい、空に見とれてしまう。
「あっ」
 足下をとられた。体が、沈む。私の動きを体で感じていたのか、母の腕に力がこもった。私を引っ張り上げようとする。だが母の手は、じっとり汗ばんでいて、私の腕がすっぽり抜けてしまう。
「いち子!」
 私を呼ぶ母の鋭い声。体が地面にはりつく。何人かに踏みつぶされた。
「痛い」
 私の口から悲鳴が漏れ、気づいた人だけがその足をひっこめた。やがて私には小さな空間を与えられ、やっと自分の速度で動けるようになる。砂だらけの体。でも、私の手の中に母のぬくもりはなかった。
「お母ちゃん!」
 立ち上がった私はめいっぱい背伸びして母を捜した。遠く離れた曲がり角、母が小さく見える。口を動かして何かを叫んでいる。だが人が作る引き潮にやられ、建物の影に消えてしまった。「お母ちゃん」私は何度も叫ぶが、戻る気配すらなかった。
 母と、はぐれてしまった。
 私の中を不安が襲う。きょろきょろと辺りを見回し、通る人に助けを求めてみる。だが立ち止まる人はいなかった。みんな、自分の命のことでいっぱいなのだ。他人に構っている暇なんてない。
 このままでは自分だけが取り残されてしまう、幼いながらそれを感じ取った私は、母が流された方向へと向かおうとした。だが。人の足の動きに、さっき転んだ時の恐怖が蘇る。この流れについていく自信がなかった。不安と迷いに駆られた私は道の隅で丸まっているのがせいいっぱい。
 私は途方にくれた。転んだ時以上にしょっぱいものがこみ上がる。そんな時だった。
「あんた、ヨシさんの子どもじゃないの」
 母の名前を呼ばれ、反応する。くしゃくしゃの顔を上げた。頭巾から覗かせる顔、格子柄の着物に見おぼえがあった。あさり売りのおばちゃんだ。おばちゃんは毎朝かごいっぱいにあさりを乗せて近所を売り歩いていた。私はおばちゃんのあさりで作るみそ汁が大好きだった。
「こんな所でどうしたの? お母さんは」
 おばちゃんの、あまりにも優しい声に、私の口が「い」の言葉を作って歪む。ぼろぼろと涙がこぼれた。おばちゃんは手首についた指のあとと、砂だらけの姿に、私に何が起きたのかを悟ったようだ。
「はぐれちゃったのね。じゃあ、おばちゃんと一緒に行こう。弁天様のところにいけば逢えるかもしれないよ」
「べんてんさま……」
「そう。この町は海の側だから穴を掘ってもすぐ水が出てきちゃうからね。だからみんな、お寺とか弁天様の家の中に避難するのよ。いっちゃんのお母さんもきっと、そこにいるわ」
 そう言っておばちゃんは私に手を差し伸べた。手のひらどうしを重ねる。今度は私が強く握りしめた。お母ちゃんとは違う手、だけど温かさは同じだ。安心が私を包みこむ――刹那。
「爆弾だ。逃げろ」
 空の色が変わった。雲のない所からひゅるひゅると音をたてて黒い雨が降る。その粒はとても大きい。私の持っていたちょうちょと同じ何かがひらひらと揺れていた。ここに、落ちる。
「危ない!」
 おばちゃんの声と同時に私は砂をかぶった。地面に顔がつくのはこれで二度目。大きな影が私を包む。暗闇が苦手な私は思わず悲鳴をあげた。おばちゃんが「ごめんね」と言いながら私をきつく抱きしめる。
「辛いけどがまんしてちょうだい」
 花火が上がる時の音と、雷が落ちたような音が何重にも折り重なって耳をつんざく。地面が揺れた。今までで一番大きい地震。体が跳ねる。私はおばちゃんの腕にしがみついた。息を押し殺しぎゅっと目をつぶる。おばちゃんの体が私をさらに小さく押しこめた。
 しばらくして揺れはおさまった。おそるおそる目を開ける。朱色が腕の隙間から見えた。変に力を入れたせいか、体のあちこちが痛む。耳の中に何かが詰まったような気持ち悪さが抜けない。何も聞こえなかった。とても静かで、何も感じない。それでも緊張が少しだけほどける。
 掴んでいた手の力を、緩めた。ずっとしがみついていた格子柄。私、がんばったよ。私は守ってくれたおばちゃんに精一杯の笑顔を向けようとする。
「ひっ」
 言葉に、詰まった。さっきまで私に向けられた笑顔が引きつったまま止まっている。大きく目を見開いたままだ。あるはずの呼吸が、なかった。初めて見た死体に私は凍りつく。流れ落ちる血が雫を落とした。私の涙と重なり、更に頬を流れていく。
 おばちゃんが、死んじゃった
「また落ちてくるぞ」
 音が右から左に流れた。はっとする。体がやっと動いた。また、爆弾が落ちるというのだろうか。私の歯ががちがちと音を立てた。当たったら今度こそ、命はない。本能が危険を感じ、恐怖が悲しみをあっさりと打ち砕く。悔しいことに、私は自分を選ぶ事しかできなかったのだ。
 私は唇を噛みしめた。「ごめんなさい」と何度も呟いてその体からすりぬける。頬の血を拭った。燃えさかる炎。死人が広がる通り。さっきよりまばらになった人の流れに今度こそ乗るつもりだった。だが――
「たすけて」
 目の前に赤い塊が通り、止まったのだ。焼けて縮んだ髪の毛、血にまみれた顔。ボロボロになった服は形すらない。抱いていたおくるみと、かろうじて見えた胸のふくらみに女の人だと気づく。今にも倒れそうな彼女は逃げまとう人の群れにおくるみを差し出そうとしていた。
「おねがい。この子だけでも」
 ちらりと赤ん坊を見た男がいた。が、一瞬で顔を歪ませる。「来るな」そう言って母子を突き飛ばしたのだ。
 あっけなく倒れる母親の細い体が見えた。手から離れたおくるみは一回地面に打ちつけられ、私のいる方へ転がっていく。大人である母親はともかく、あんな小さな赤ん坊が飛ばされたらひとたまりもない。
 怪我をしていないだろうか。本能のおもむくまま、私はおくるみの中をのぞいて様子を伺おうとした。
「う」
 酸っぱいものがこみ上がる。男が顔を歪ませた理由が今になって分かった。
 赤ん坊は既に息絶えていたのだ。顔は爆弾の衝撃で潰され、人かどうかも怪しいくらいだ。醜さを目の当たりにしてしまった私は腰が抜けてしまう。その顔から目をそむけた。それでも赤ん坊の母親はおねがい、と繰り返し訴える。どこで拾ったのか、足下から煙がくすぶっていた。
「わたし、の、あかちゃ……」
 やがて煙は炎となり、母親の全てを支配し溶かしていく。「あ」とも「わ」とも聞き取れるわずかな悲鳴とともに消えてしまう。彼女の最後の言葉だけが耳に噛みついた。肉が焼ける匂い。形を失った人間、だったもの――
 顔を失った赤ん坊が呆然としている私をじっと見つめていた。視線を感じぎくりとする。命はすでにないはず。それなのに潰れた目が私に問いかけてくる。 なぜ助けなかったの、と。
「しらない……」
 私は首を横に振った。一歩、足を引く。
「私のせいじゃ、ない」
 それでも赤ん坊の目は私を責めているようにしか見えない。耐えきれず私は踵を返した。火の壁に挟まれた道を夢中で走る。その視線が背中から消えてしまうまで、ひたすら走るしかなかった。真夏のような暑さとうらはらにひどく体が冷えていく。
 全てが悪夢だった。爆弾が町を粉々にする。火が人の命をさらっていく。
「熱い」「痛い」「嫌だ」「死にたくない」壊れた建物から助けを求める声が頭巾越しでもはっきりと聞こえる。炎に揺らめく無数の影。爆音といのちの叫びが、私の心をずたずたに切り刻んでいった。ここは昔話の挿絵にあった地獄そのままだ。何もかも目にしたくなかった。聞きたくなかった。
 嫌だ。こんな所にいたくない。どこか、静かな所へ行きたい。母のいる所へ。
 家に帰ろう、と思った。
 もしかしたら母が私を心配して家に戻っているかもしれない。待っているかもしれない。笑顔で私を迎えてくれる。きっとそうだ。
 沸き上がった淡い期待を膨らませ、私は走った。途中、いくつもの死体につまずく。人が焼ける臭いにむせかえる。それでも。足を止めることはなかった。帰りたい。母に会いたい。それだけが私を支えていた。
 幸いなことに私の家はまだ、その形を残していた。
 安心を覚えた私は頭巾を取り玄関の扉を開けた。靴を脱ぎ捨て、はいつくばるようにして段差を乗り越える。居間へ向かった。私を迎えたのは襖の上にいる祖父母の写真と、どっしりと構えた黒い戸棚だけだ。母は、いない。じわり不安が押しよせる。それでもじきに来るのだと私は信じていた。
 朱の空を震わす轟音は止まることを知らない。逃げ遅れた誰かの悲鳴が聞こえるたびに体がびくりと揺れた。耳をふさぐ。この現実から逃れるように、私は目の前にある戸棚の前に座りこんだ。
 ここはもともと茶菓子を入れる場所だ。だが、茶菓子すら手に入らない今は私が何か悪いことをしたときに押し込められるお仕置き部屋に変わってしまった。私はここに入れられるのが嫌で、びいびいと泣いて、母に許しを請うのがいつものことだった。でも今日だけは違う。
 扉を開け、自分からすすんで潜りこむ。しばらく入ってなかったせいで戸棚の中はすこし狭くなっていた。それでも他の子より小さい体はすっぽりとおさまってしまう。ぴっちりと引き戸の扉を閉めた。
 黒い闇。暗いのは嫌だし狭いのも嫌い。でも、外の世界はもっと嫌い。板一枚だけど、この中は私が嫌った音を和らげてくれる。それだけが救いだった。
 私は気分を紛らわそうと好きなものだけを思い浮かべた。白いごはんにお刺身とあさりのみそ汁。おまんじゅうに、羊かんに、カステラに、ラムネにカルピス、祭りの時だけ食べることのできる水あめ――考えるだけで唾が溢れそうになる。この戦争が終わったら、いっぱいおねだりをして買ってもらおう。
 食べ物だけじゃない。おはじきにお手玉に、欲しいのはお人形さんが着ていたようなきれいなお洋服とまあるい靴。幻想が私の中でどんどん膨らむ。このまま夢の中へいたかった。なのに。
 突然衝撃が襲い、頭を打った。体がつぶれ、お腹が小さな扉に吸い寄せられる。背中に当たっていた狭い壁が天上に切りかわり、私の体を圧迫していった。戸棚がひっくり返ったのだ。
 ガラスが割れる音。何かが崩れゆく振動。全てが揺れていた。近くに爆弾が落ちたのかもしれない。さっきの光景が蘇える。
「いや」
 このまま私は消えてなくなってしまうのだろうか。おばちゃんやあの母子のように、血を流し、火だるまになって――そう思った瞬間、体の震えがぶり返した。小さな頭が必死になって助かる方法を探す。まっさきに扉を叩いた。
「たすけて。だれか。だれかあ」
 だが戸棚は思ったよりもしっかりしていて、がたがたと木目が揺れるだけだ。
「出して。出してよ」
 暗いのは嫌い。痛いのも、苦しいのも、何もかも。それでも覚悟を決めるしかないなんて。私は後悔した。何でこの中に入ってしまったのだろう。
 なぜ家に戻ってしまったのか。母はなぜ私の手を離してしまったのか。なぜ私だったのか。私はなぜここにいるの。なぜ生まれた。誰のため。何のために。
 答えのない疑問だけがぐるぐると巡った。怒りと悲しみが、せまりくる恐怖から私を守るようにまゆを作っていく。だがその感情も底をつきると、ただ祈ることしかできなかった。
 この先、欲しいものが永遠に買えなくてもいい。白いごはんが食べられなくてもいい。他の誰もがいなくなっても構わない。だから、だから。
 開くはずもない扉を打つ度に打った頭がずきずきする。奥から黒い何かがとぐろを巻いて手招いていた。そのおどろおどろとした様子に私はのけぞり、頭をもう一回打ってしまう。
「いやあ。こないで!」
 何度も首を振る。拒否する心だけが空回りしていた。涙で視界がぼやけ、吐く息が声をつぶし、体はもう動けない。戸棚の闇に呑まれてしまう私のすべて。
「お母、ちゃん……」
 吐き出せた想いは、ただそれだけだった。
 その日、敵の飛行機は町の三分の一を焼いて消えていった。不思議なことに、爆弾のほとんどは海沿いにあった海苔工場に落ちた。しかし、海風のせいでそれは流れ、被害は予想以上に広がったのだという。ひとつは弁天様にも落ちていて、そこに避難していたほとんどの人が焼け死んでしまったそうだ。偶然、そこからあぶれた母は他人の家の床下に身を潜めていたおかげで助かったのだという。
 そして私も――
 次に気がついた時、目の前には煤だらけになった母がいた。ぼさぼさの頭。目玉の白さがやけに際立って、ひどい顔。それでも、嬉しかった。一番求めていた人に逢えたのだから。私はその時も自分が死んでしまったのだと本気で思っていた。
 お母ちゃん、私は唇だけを震わせた。舌がざらざらして、まるで猫になった気分だ。母は持っていた水筒のふたをひねると、口移しで水を与えてくれた。喉に伝わる冷たさ。唇に残った感触が魂と体をこの世界へ結びつけていく。その時私は初めて知った。
 私は助かったのだと。
 母は折れそうなくらいに私を抱きしめてくれた。鼻をかすめる灰と土の匂い。まだ意識が混乱していた私は、母の背中にある風景をぼおっと見ていることしかできなかった。食卓を囲んだ居間が霞んでいる。畳の上でガラスの破片がきらきらと輝いていた。落ちた写真と時計、ひっくり返ったちゃぶ台。隣にあったコンクリ建ての写真館は瓦礫しか残っていない。庭がやけに清々しかった。
 私の瞳を染める朱。その眩しさに思わず目がくらんだ。一瞬さっきと同じ光かと思って身震いしたが、違う。やさしくて、暖かい陽差し。
 今度こそ作りものでない朝焼けだった。


 目覚めると世の中は新しい年を迎えていた。
 日の出と共に起きた朝はいつも怯えてしまう。それが本物の太陽だと知るまで気が抜けないのだ。ゆっくりと起き上がり、障子を開けた。目の前の景色を拝んでやっと安堵する。窓を開けると、冷たい空気の後で暖かい陽の光が体にじんわりと染みわたった。今日も晴天になりそうだ。
 戦争が終わり、半世紀以上の時が流れた。
 私も結婚し、五人の子を授かった。私が住んでいる町は過去に空襲があったことなどないような様変わりをし、今や平和の国をうたっている。象徴するかのように二十数年前、巨大な遊園地も完成すると、全ては増殖し新たな都市へと変化した。実際人々も明るく活き活きとしている。
 いい世の中になったねと、母は安堵してこの世を去った。最愛の夫も七年前に他界し、今は第三の人生を往生している。時折、近所に住む子どもたちが孫や曾孫を連れて遊びにくる。とても幸せな人生だと思う。
 だがあの夜の出来事は私の中で悲鳴をあげている。あの地獄を乗りこえた私がこんなにも幸せでいいのか。多くの命を見捨てた私は何のために生かされているのだろう。
 漠然と分かるのは、戸棚の中で巡らせた思いと向き合う日が必ず訪れること。
 私はなぜ、生まれてきたのだろう――
 しばらくの外の景色を眺めていると、襖が揺れた。数センチの隙間からくりくりの目を見つけ、私は微笑ましい気分になる。
「おいで。お年玉あげるから」
 今年初めての訪問者はそれを聞いてにっこりと笑った。(了)


(参考)
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 浦安市ホームページ
 


(あとがき)
 読んでいただきありがとうございます。
 この話は戦争体験者の証言をもとに書いたフィクションです。
 今はねずみさんのいる夢の国と化していますが、昔はその地質から防空壕を作れなかったそうです。最後にはタイトル通り、戸棚の中や布団の中に隠れて怯えていたと聞きました。
 また翌年三月の東京大空襲においても、その炎がすぐそこまできていたそうです。
 執筆したのは去年の春でしたが、その後公募用に加筆しました。結果は二次選考落ちでしたが、いろいろな意味で勉強になった一作です。


 ランキング参加中(ひと月1票)


Copyright (c) 2008 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-